べンガル・カティヤ糸紀行


1.関係地図

4.ビシュヌプールの町

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■ベンガルというところ

 コルカタを中心とするベンガルは、インドでも独自の文化を培っている。詩聖タゴールや、映画人サタジット・レイ、神秘家ラーマクリシュナやヴィヴェカナンダ。革命家チャンドラ・ボース、新宿中村屋のボースなど、世に知られる人々も多い。私ぱるばが初めて「見た」インド人も、かつて長野にやってきた「インド大魔術団」のソーカーというベンガル人であった。
 言葉もヒンディー語ではなく、ベンガル語だ。我々外国人からすると同じように見えるが、ヒンディー人のラケッシュ君によると、耳で聞いても、目で見ても、全くわからないそうだ。
 それでもインド人はみな学校でヒンディー語を学ぶので、普通のベンガル人はだいたいヒンディー語をしゃべるようだ。ま、同じ印欧語族のお隣言語だから、似てはいるのだ。
 ここベンガル地方は、インドでも東部にあるので、人々の容貌も何となく東方的というか、やや丸型で柔らかな感じだ。

13.村の竹カゴ売り

9.バイクで先導するラメイダス氏

■紡ぎの村

 寺院前の茶店で朝食を摂った後、皆で車に乗り込み、紡ぎの村へ向かう。
 町を抜けると、のどかなベンガルの農村風景が展開する。
 途中の村で、カゴ売りのおじさんに出会う。自転車の荷台に竹のカゴをくくりつけて売っている。
 ここベンガル地方は竹材がよく使われる。ganga新工房の建築にも、ベンガルの竹と竹職人が大活躍した。工房の備品としても竹製品は重宝する。
 そこで車を織り、カゴを見ながら値段の交渉をするラケッシュ。(写真13。背景に原材料の竹が見える)
 五つ全部買うから言い値の半額でどうかと聞くと、すんなりOK。嬉しそうな竹売りおじさんであった。
 嵩張るから糸と一緒に貨物で送ることにする。

 やがて道路の舗装は途切れ、南方特有の赤土(ラテライト)の道になる。(写真14)。気温は30℃を超えているだろうか。しかし乾季なのでカラッとしている。
 寺院を出てかなりの距離になる。歩いて来なくてよかった。ホントに橋が落ちて回り道しているのかも。

 やがて小さな村に到着。
 車を降りて、村はずれにある一軒の農家に案内される。
 煉瓦づくりの泥壁、屋根は藁葺きだ。
 中庭で農婦がひとり、糸を紡いでいる。
 時刻は朝の9時過ぎ。ホントはこの時間は沐浴タイムで、近くの池に水浴びに行くところなんだそうだ。寺詣りや朝食のせいで遅参してしまったらしい。ラケッシュもそうだが、インド人は朝風呂の習慣がある。(そもそもみんな川や池で沐浴してたのだ。夜だったら危険だろう)
 それでも遠来の我々のために、沐浴を遅らせて糸紡ぎを披露してくれたというわけだ。

 竹カゴに入れたタッサー繭の生皮苧(きびそ)から繊維を引き出し、素焼きの壺(マトカ)の裏で撚りをかけ、糸にする。(写真16。男たちは沐浴の支度を調え、上半身裸のルンギ姿)
 かなり濃色のカティヤ糸だ。オリッサ州では生皮苧を上から吊し、紡錘で撚りをかけていたが、当地の作法は違うようだ。
 できた糸は竹製の器具に巻き取られる。(写真17)

 ところで、写真を見てもうかがえるが、中庭がチリひとつなくキレイに掃き清められている。インドの農家って、こんなに清潔なんだろうか…
 昨日、ラメイダス氏が農村見学を渋った理由も、おそらくコレなんだろう。
 皆さんのお宅もそうでしょう。お客が来るとなると、しっかり掃除するでしょう。
 そのあたりが面倒だったのだと思う。
 しかし、我々があまりにしつこくせがむもんだから、まあ遠来の客だし仕方あるまい、ということで、昨夜、氏がしかるべき農家に連絡して、朝の内に掃除してもらっていたんだと思う。農婦も沐浴前にしては小綺麗な格好をしているし。この辺の事情はどこの国も同じなのだ。

 糸繭商ラメイダス氏は、近在の数箇村に糸紡ぎを託しているという。従事している農婦たちは二十代から七十五歳まで百人ほど。八十になっても続けられる仕事だそうだ。そのへんはかつての日本も同じで、目が弱って機織りができなくなっても、糸紡ぎはわりあい高齢になっても続けられる作業であった。
 氏のたまはく、あとは皆さんがしっかり糸を注文してくれれば、糸紡ぎの仕事も続けられるとのこと。
 というわけで、インドで一番の社会的弱者とされる農村婦人のためにも、我々はタッサーの糸をぐゎんばって注文し続ける責務があるようだ。


8.飯屋の魚つき定食
17.巻き取られたカティヤ糸

■タンティパラへ

 ナンディ氏によると、百kmほど北方のタンティパラという所でもタッサーシルクから糸を作っているという。良かったら紹介しようかというので、同地にいる同業者の連絡先を教えてもらう。
 まだ午前中で、時間もあったので、タンティパラに行ってみようかということになる。
 しかし、あまり期待してはいなかった。おそらく当地と同じような白っぽいカティヤを紡いでいるのではないか…。

 ビシュヌプールからタンティパラへは、僻地から僻地へのローカルな道程だ。もう一生通るまいと思われる田舎道をひたすら進むのだが、そのぶん、地方色が豊かで面白い。サタジット・レイの『大地のうた』に出てくるような椰子の木と溜池がベンガルに特徴的な風景だ。(北インドに椰子の木はない)
 あちこちに池があり、人々が沐浴したり、洗い物をしている。家に水道がないのだろうか。あるいは、池があまりに生活に溶け込んでいるので、水道の必要を感じないのかもしれない。

 またまた象が出るという森を抜け(しかし出たためしはない)、道路沿いの飯屋で昼食を摂る。
 ここ東インドのベンガルは魚カレーが名物だ。ここの定食もメインは魚だった。淡水魚だそうだ。近所の川か池で穫れたものだろう。油で揚げて、カレーで煮てある。それを手で食う。(写真8)
 魚カレーを手でというのはちょっとやりづらいが、味はなかなか良好であった。
 そういえばラケッシュはベンガルに来て魚カレーばかり食っていた。元来が北インド人だから珍しかったのだろう。(私はやっぱり野菜カレーが良い)

 ビシュヌプールから三時間少々走って、タンティパラに到着。目抜きの辻にひとり、タッサーシルク製のシャツとルンギ姿の人物が立っている。糸繭商のラメイダス氏だ。バイクで我々を迎えに来てくれたのだ。
 その後について町に分け入る。(写真9)。町というより、大きな村といった風情だ。
 やがてラメイダス氏の家に到着する。同じ糸繭商でも、ナンディ氏の社屋は三階建ての町屋だったが、こちらラメイダス家はほとんど農家であった。
 写真10がラメイダス家の庭。右端がラメイダス氏で、その左がスリスティとラケッシュ。左端の壁に牛糞が干してある。その右下にタッサーシルクの繭が幾つか。これから煮沸して糸を挽くのであろう。

■ビシュヌプールへ

 3月16日早朝。コルカタの宿を出て、タクシーで現地に向かう。
 今回は私ぱるばとラケッシュ、その新妻スリスティの三人だ。 彼女はこれから新工房の一員として働くので、勉強も兼ねての同道である。そして運転手のスックダール。眼鏡と口髭が何となくピコ太郎を思わせる。
 荷物も多いから、やや大きめ、7人乗りのインド車を手配する。
 ビシュヌプールまでは約200km。最近はインドも高速道路が伸長し、早朝ということもあって、思いのほか快適に進む。
 沿道は田んぼや畑だ。田には既に稲が青々と育っている。ピコ太郎によれば、この当たりは二期作どころか三期作。年に三度米が収穫できる。最初の収穫は雨期前ということだから、5月には稲刈りなのだろう。今はジャガイモ収穫の真っ盛りで、芋を満載したトレーラーが沿道に列を成している。
 やがて、象が出るという沙羅の森林帯が出現(写真3)。その材は新工房の織機やテーブルにも使われている。その葉からは皿が作られ、竹林cafeでもよく使われる。その皿を運んでいる人々ともすれ違ったので、このあたりで作られているのだろう。

 三時間ほど走って、目的地のビシュヌプールに到着。その街路は、やっと車が一台通るくらいの狭さだ。そしてインドの田舎街の常として、ほとんど車は通らない。自転車かせいぜいオートバイだ。ちょっと大きめの乗用車で乗りつけると、何となく大名気分になる。

6.色白のカティヤ糸

5.タッサー生糸を挽く

■宿と温泉

 ラメイダス家を出た頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 その夜の宿は百kmほど離れたビシュヌプール近くに取っていたが、当地タンティパラから三時間以上かかる。それにピコ太郎は「象が出る」と言って夜間走行を怖がっている。それで当地に宿を取ることにする。翌朝、氏が機場(はたば)を見せてくれるというし。

 糸産地の宿というのは、ちょっとスリリングだ。かつてオリッサの産地を訪ねた折も、監獄のような宿に恐れをなして、結局、糸繭商の自宅に泊めてもらったものだ。
 今回の宿は、エアコン付きということだから、ま、大丈夫だろうと踏んだのだが…。
 部屋で仕事をしていて、ふと目を遣ると、なんとデカいネズミがベッド下から這い出てくるではないか。よく見るとカワイい顔はしていたのだが、とにかくデカい。シッと追い払うと、またベッド下に隠れてしまう。結局、当夜はネズミと一夜を共にしたのであった。ま、南京虫やノミよりマシだけどな。タオルも匂うから使う気がしない。これで一泊千ルピーも取るんだから、かなりコスパ悪し。きっと宿泊客もほとんどいないのだろう。

 翌朝、7時半にラメイダス氏がバイクで迎えに来る。
 どうやら紡ぎの村へ案内してくれるらしい。じつはラケッシュがしつこく頼んだようだ — 「日本からわざわざ高い金かけて来てるんだから、ぜひお願い!」とかなんとか。

 その前に、近所にあるシヴァ寺院を訪ねる。境内に温泉が湧いているのだそうだ。
 ひとり10ルピー払って中に入ると、なるほど、広大な露天風呂があるではないか!
 男女別に分かれ、ルンギを巻いて入浴している。湯温は40℃くらいで、まことに快適。昨夜の不運をキレイさっぱり洗い流すのであった。源泉は90℃もの高温だそうだ。
 インドで温泉はなかなか珍しい。私の経験では、ブダガヤに微温のがひとつ、それからラダックのインダス川上流にひとつあったきりだ。
 今回はラケッシュ夫婦は見学のみで入浴せず、私とピコ太郎が一緒に入った。(写真12)

 このシヴァ寺院は女神シャクティに関わる古い寺で、ラメイダス氏は毎朝参拝するそうだ。我々もご縁だからと、バラモン僧に伴われ、幾つかの社(やしろ)を回って礼拝する。(そのたびに賽銭が必要なのだが)
 寺詣りを終えて、眉間に真っ赤なティッカを塗りつけられた我々(写真右)。
 こんなところまで来る日本人は初めてでしょうとラメイダス氏に聞くと、そうでもないとのこと。なんでも我々も知る日本の著名な糸素材店A社と取り引きがあるそうだ。それならモノもきっとしっかりしているであろう…と安心する我々であった。

後日談)
北インドのganga工房に戻った私は、四日後の夜、自室で南京虫の被害に遭うのである。インド生活三十年目にして初の経験だ。ラケッシュ夫婦によれば、それはベンガルの宿からもらってきたに違いないと。

10.ラメイダス家の庭

■ラメイダス家にて

 氏の家に招じ入れられ、床に座す。
 鞄からカティヤ糸のサンプルを取り出し、こんなのが欲しいんだがと言うと、氏は奥の部屋から無造作にいろんな糸を引っ張り出して、見せてくれる。
 これが予想に反して、けっこう濃色の糸々なのだ。持参のサンプルにかなり近い。
 スリスティが真木千秋に写真を送ると、「まさにそれ!」との答えが返ってくる。

 糸の作り方を氏に尋ねると、オリッサに近い作り方をしている。また、繭もダバ種が主だが、ほかの品種も用いているようだ。
 太さもいろいろある。もちろん、同じ繭でも地域差・収穫時期差があるから色は一定ではないが、それでも充分魅力のある色艶だ。(写真11)
 注文すればいくらでも作ってくれるという。はるばるやってきた甲斐があるというものだ。まずは当座の使用分も含め、太細いろいろ数kgずつサンプル購入する。
 また、この町では手機による機織りも盛んであり、注文に応じて織成してくれるという。在庫切れしているカティヤ×カティヤはもちろん、今は幻のギッチャ×ギッチャやナーシ×ナーシも織ってくれるようだ。
 ま、インド人はポジティブで何でもOKと言うから、話半分に聞いとかないといけないんだが…。

 どこで紡いでいるのかと聞くと、近辺の村々だそうだ。
 ぜひ見たいから連れてってくれとラメイダス氏に言うと、あまり色よい返事が返ってこない。途中の橋が落ちて数km歩かなくちゃいけないとか言う。歩くから連れてけと言っても、言を左右にして承諾しようとしない。見るからに好人物そうな氏であるのに不思議なことだと思いつつ、もう日も暮れてきたし、今日の所は諦めることにしよう。じゅうぶん収穫もあったことだし。

11.ラメイダス氏のカティヤ糸と布



19.タテ糸づくり

7.ダバ繭と真綿

■色白のカティヤ

  ジェイプラカシュ博士に紹介されたのは、この町の糸繭商ナンディ氏。
 糸繭商というのは、産地から繭を買い入れ、それを紡ぎ手に渡して糸を作り、販売する事業者だ。その社屋には多量の繭が貯えられ、完成品の糸が保管されている。また手紡ぎの作業も行われている。ビシュヌプールの町にはこうした糸繭商が5〜6軒あり、製糸作業に従事する人も千人ほどいるようだ。その製糸作業ほとんどは各家庭で主婦たちによって担われていると思われる。写真5は、ナンディ氏の隣家でタッサー生糸を挽く主婦。

 さっそく、ナンディ氏に、お目当てのカティヤ糸を見せてもらう。
 かなり均一でキレイな糸だ。しかしながら、ちょっと色が白い…。(写真6)。サンプルとして持参したカティヤ糸(写真2)とだいぶ趣が異なる。
 この交渉の経緯は逐一、ラケッシュとスリスティによって、日本にいる真木千秋にネット経由で即時報告される。WhatsAppというスマホアプリを使うと、テキストや写真が手軽に送れる。音声通話も可能だ。ラケッシュ夫婦がそれぞれ手持ちのiPhoneで交信するので、日印の距離を超え、やりとりがスピーディ。特にスリスティは、他にすることもないし、最新のデバイス(iPhone7)で通信に専念できるので、意外に役立つ。利発な娘だし。
 この色白のカティヤ糸については、不要という返答が真木千秋からすぐに帰ってくる。苦労してここまで来て「それはないだろ」と思うのだが、先生の気に入らないんじゃしょうがない。
 白っぽい上、色艶もイマイチなのだ。
 その理由を探ると、どうやら、原料と製法にあるらしい。

 まず、原料となるタッサー繭が、ダバという品種である。
 ダバ種は流通するタッサー繭の大半を占め、半養蚕化されて供給も安定している。このダバ種は、タッサー繭の中でも比較的、色白なのだ。お隣ジャールカンド州チャイバサ産のダバで、ナンディ氏はダバ種のみを用いるという。もちろん、同じダバ種でも、年や産地によってバラツキがあるだろうから、たまたまこの時の使用繭が色白だったのかもしれない。

 それより重要な要素が製法だ。こちらビシュヌプールのカティヤ糸は、主にC級繭を真綿にして紡いでいる。隣州オリッサのカティヤ糸は、A級繭の生皮苧(きびそ)から紡がれている。
 A級というのは、生糸の挽ける真ん丸の繭。C級というのは、出殻や穴開きで生糸の挽けない繭だ。繊維の色は繭の外側ほど濃いから、生皮苧すなわち一番外側の繊維のみで紡げば当然濃色になる。こちらビシュヌプールのように、繭全体を使うと白味が強くなる。写真7はナンディ家の屋上に干されたタッサー真綿。
 また真綿にする過程で繭を煮沸するが、そのときセリシン(繊維の保護層であるニカワ質)とともに色素の流失が起こる。
 そのような製法上の理由により、色白のカティヤ糸ができるのであろう。同じ理由により、特有の色艶も失われると考えられる。
 そもそも、インドの人々は我々ほどには褐色を好まない。これはインド人の肌色に近いせいかもしれない。それで濃色のカティヤ糸は需要が少ないらしい。
 濃色のカティヤ糸を作ってほしいとナンディ氏に言ったのだが、あまり良い返事は返ってこない。たとえ返ってきたとしても、ホントにやってくれるかは定かでない。だいたいこんな僻遠の地で、いったい誰が生産チェックするのだろう。

 

3.沙羅の森

■カティヤという糸

 カティヤと呼ばれる絹糸がある。
 タッサーシルクから
紡がれる。
 太目でかなり不均一。ちょっと張りがある。言ってみれば、甲州名物「ほうとう」みたいな糸だ。 (写真2)
 ナーシ糸ほどではないが、魅力ある褐色を呈する。
 Makiでも、ストールの中に織り込まれたり、インテリア布に使われたり、いろいろ重宝する。カティヤ100%の服地も人気があった。
 最近、そのカティヤ糸や布の供給が滞ってきたのである。
 そこで今回、新たに産地を探すことにした。

 ただ、探すと言っても、インド亜大陸は広い。
 世はインターネットの時代だが、手作りの糸は検索にはかからない。
 そこで友人のジャヤプラカシュ博士に問合せる。インド繊維省蚕糸局の要職にあった人だ。「カティヤ糸が欲しいんだけど、どこに行けば良い?」と聞くと、いろいろ調べてくれた。そして、「西ベンガル州のビシュヌプールに良いよ」と言って、とある人を紹介してくれた。
 そこでganga工房長のラケッシュ君とともに、2017年3月中旬、ベンガルに赴くのであった。

 附記)
 ベンガルというと、最近、妙に縁がある。
 そもそも「マルダシルク」という黄繭がここベンガル産であった。このマルダシルクは、Makiにとって必要欠くべからざる家蚕糸だ。
 たまたまそのマルダ出身の若者たちが、ここ三年以上、ganga新工房の建築職人として工事に携わってきた。彼らの実家はマルダで養蚕を営んでいたという偶然もあった。
 それで一昨年(2015年)秋、建築家のビジョイ・ジェインや真木千秋ともども、彼らの故郷を訪ねたものだ。左地図の右上にそのマルダMaldaが見える。


 さて、手作り糸の産地は、例外なく僻地にある。それもインドの僻地だから、ハンパではない。
 ganga工房も僻地だが、幸い、デラドン空港から近い。(歩こうと思えば歩ける)
 デラドン空港から、まずデリー空港に飛ぶ。そこで飛行機を乗り換え、西ベンガルの州都、コルカタ(昔のカルカッタ)に飛ぶ。デラドンからデリーまでは30分、デリーからコルカタまでは二時間半ほどの飛行時間だ。最近は飛行機の便も増え、だいぶべ便利になったが、それでも工房からコルカタまでは、まあ、一日仕事だ。

2.カティヤ糸

18.機を織る

■機織りの町

 タンティパラは機織りの町であるようだ。
 町のそこここから機音(はたおと)が聞こえてくる。
 家の中に地機(じばた)が据えられ、男たちが織っている。これはアーリア系のインド社会に特徴的な風景で、一家の主人が職業として織るのだ。そして女たちの仕事は糸作りだ。
 ざっと見ると、経緯(たてよこ)タッサー生糸で薄手の絹地を織っている家が多い。(写真18。上部に手挽きのタッサー生糸が架かっている)
 綜絖は糸で、筬(おさ)は竹だ。我々もganga工房用に竹筬を二本ほど仕入れる。(写真右下)

 ついでに、写真18手前には、糸車(チャルカ)が写っている。それを見て真木千秋、これもganga工房用に欲しいという。
 チャルカというのは古代インドの発明品だ。そして写真のような木製品は、かなり原型を留めていると思われる。マハトマ・ガンディーが使っていたのもこんなチャルカだ。ganga工房にもチャルカはあるが、回転部が自転車のホイールで、やや趣に欠けるところがある。
 するとラメイダス氏、さっそくチャルカをかかえて戻ってくる。きっとどこにでもあるのだろう。分解して送ってくれるそうだ。かくしてganga工房にも近いうち、オリジナルチャルカが現れるらしい。

 タンティパラの露地ではタテ糸が作られていた。(写真19)
 やはりタッサー生糸の薄地だ。手前と向こう側で、二本並行して作られていた。
 作業していたのは若い男たち。こうして技術が伝承されていくのだろう。

 というわけで、駆け足で巡ったベンガルの西部であった。
 11月に来ればタッサーの養蚕を見せてあげるよとラメイダス氏は言う。
 また違う季節の西ベンガルも見てみたいものだ。宿のことはチト考える必要あろうが。〈完〉

 

16.壺の底で糸を撚る
12.シヴァ寺院の温泉
15.村はずれの農家
14.ラテライトの道