Project Henchikurin Project Henchikrin BambooHouse" 竹林精舎,, BambooHouse Project Henchikurin Project Henchikurin

竹林精舎(Bamboo House)
東京西多摩、秋川の清流を見下ろす崖上
築二百年の農家を舞台に展開する真木テキスタイルのスタジオである。


1999年6月16日 苧麻あそび

 おそらく本邦で一番古い繊維素材のひとつ、苧麻(ちょま、からむし)。
 ウチのまわりにもたくさん生えている。丈夫な雑草なのだ。
 こうした野生の苧麻を、「野からむし」と呼ぶのだそうだ。

 今日はそうした「野からむし」を採取して、糸づくりに挑戦してみる。
 右写真は、むせかえるような暑さの中、アトリエ近くの養沢の原っぱから苧麻を採取してくる真木千秋。
 草丈はもう1メートルを越えている。ただ、まだちょっと若いかなという感じ。

 それを持ってスタジオへ下る。(距離にして7キロ、標高差80メートル)
 苧麻から糸を取ることは、西表島の石垣昭子さんから習ったもの。
 家にあったありあわせの道具を使ってやってみる。

 千秋の友人や、スタジオのスタッフ、子供たちまで加わって、苧麻の皮をはぐ。
 「竹林亭」はさながら農家の庭先のよう。
 実際、ここは百有余年間、農家の庭先だったのだ。
 ごりや棟梁によると、この家は築二百年は経っているとのこと。
 (縁側に座っているオレンジ娘は、当HP初出場、私ぱるばの姪である田中明緒)

 皮をはぎ、表皮をそぎ落とし、繊維部分だけにする。
 栽培ものに比べると、緑っぽい感じ。繊維も切れやすく、半分くらいダメになる。(もちろん技術が未熟のせいもある)
 自分で栽培してみたいという思いがよぎる。

 この繊維部分を、沖縄では「もとぶー」と呼ぶ。(日本語では何と言うかわからない)
 写真は、その「もとぶー」を干す真木香。
 竹にヒモを渡し、一本一本、干していく。

 遠くから眺めると、さながらお相撲さんの前ダレか、聖所の結界のよう。
 そういえば沖縄の神司も、伊勢神宮の神官も、苧麻で織られた衣を着ている。

 そして夜、養沢のアトリエ。
 リビングで千秋と友人Mが苧麻を績んでいる。

 麻の糸は「紡ぐ」のではなく、「績む(うむ)」のだ。
 つまり、乾かした「もとぶー」を裂いて繊維状態にし、それをつないでいく。
 そのつなぎ方は、よじりをかけて結ぶのだ。

 けっこうな手間だ。今日つくった「もとぶー」を全部糸にしても、ハンカチ半分も織れないだろう。
 これで着物を織るなんて、途方もない話。

 でも楽しい作業であるらしい。
 もう夜の11時半なのに、リビングでは笑い声が絶えない。


1999年6月28日 オープニング・パーティ

 昨27日、「竹の家」オープニング・パーティが開かれた。
 あいにくの雨模様であったが、大家さんや建築家、大工さんや職人衆、不動産屋さんや地元の人々など、約四十人ほどが集まって、House Warming Party。

 この日のメインイベントは餅つき。
 この家では、事あるごとに餅つきをすることになっているのである。
 というのも、私ぱるばも真木貞治(真木姉妹の父親)も、餅つき大好き人間だからだ。

 餅つきがなぜ楽しいかというと、まず外で薪を焚いて餅米を蒸かすこと。これが楽しい。
 それから、餅米の強飯(おこわ)ができるんだけど、そのつまみ食いがめっぽう美味い。
 それから、あいどり(相棒)と息を合わせて杵をうち下ろす行為が心地いい。
 そして、つきたてのあんころ餅が食える。

 というわけで、この日は八升ばかりの餅をついたのであった。(写真は真木貞治とその娘・千秋)
 なおこの家にはまだ臼と杵がないので、大工の
ごりや棟梁に一式貸してもらう。
 (また棟梁は当日朝、雨の降りしきる中トラックで駆けつけ、家の前にビニールシートで屋根をつけてくれたりして…)
 しかしながら私ぱるばは、ホストとして招待客の相手をしていたので、この楽しいイベントにはほとんど参加できなかったのである。

 それからもうひとつ、これは半ば飛び入りだったのだが、五日市エイサー隊によるエイサー披露。
 この五日市エイサー隊というのは、真木姉妹と、相川昌市(香のダンナ)、そして私の四名。
 実は我々、数年前には、喜納昌吉のエイサー隊の一員として、東京に、インドにと、彼の舞台に上っていたのだ。真木千秋なんぞも、仕事そっちのけで練習に打ち込んでいたものだ。
 昨日は、昔取った杵柄で、二曲ほど披露。
 これが自分で言うのもなんだが、なかなか格好良かったのだ。
 ただ、人前で踊るのは久しぶりだったので、かなりバテた。やはり平生の体力作りが肝要である。
 このエイサー隊、当スタジオのイベントのたびに出没するかもしれないので、お楽しみに。




1999年7月5日 会議

 当スタジオでは、だいたい毎週月曜日にスタッフ・ミーティングが行われる。
 円滑に仕事を進めるにあたっては、相互のコミュニケーションが大事。
 それで今日はスタッフやパートさん合計11名が集まって、粛々とミーティング。
 お茶菓子は沖縄銘菓「ちんすこう」。

 私ぱるばはMPM(Metaphysical Manager)なので、あまり実務にはタッチしていない。よって、ミーティング中には、警策がわりに物差しを持って周囲をのし歩いたり、電話が鳴ると対応し「ただいま会議中。後ほどお電話ください」とリピートしていたりする。
 だいたい当スタジオに電話して男の声が出るのはこのときだけ。相手は予期せぬ応答にしばし絶句したりする。
 もしも私が電話に出たら、これはミーティング中だということなので、素直にあきらめていただくほかない。

 写真は土間から撮ったもの。
 まだ四時前なんだけど、梅雨どきゆえに周囲は薄暗い。
 幾星霜を経た上がり端の床板が、電灯の白い光を映している。


1999年7月18日 アナグマ!?

 初めて目撃したのが、一月ほど前の6月22日。
 ミーティングの最中に、なにかゴソゴソ音がする。
 私は別に気に留めなかったのだが、スタッフが「何か石の上を歩いてるみたい」と言う。
 しばらくして庭に目を遣ると、灰褐色の球体のようなものがノソノソと小走りに走っていくではないか。
 「あっ、アナグマだっ!」

 「竹の家」から6キロ奥にあるここ養沢の谷には、確かにアナグマが出る。
 実際、一年半前のある夜、ウチのゴミバケツをアナグマがあさっているのを目撃したこともある。
 こんな山際だから、アナグマが出没してもおかしくないとは思っていた。
 しかし、市街地に近い「竹の家」で、真っ昼間からアナグマたァ驚いた。

 以来このアナグマくん、毎週のように出現する。
 よくウチに遊びにくる船附(ふなつき)クンが、ある日、家の土台のところに小さな穴を見つける。
 「これアナグマの出入り口じゃないかな〜」
 (船附クンというのは隣町に住むナチュラリストで、ごりや棟梁とならんで当スタジオのアイドル)
 そして三日前、ついに真木千秋が、家の床下にアナグマの姿を目撃したのだっ!

 つまりこの竹の家、床板一枚を隔てて、別種の動物たちが棲息していたのだ。
 ウチの専任キュレーターである石田紀佳によると、アナグマは極度に清潔好きだとのこと。
 なんでも、自分の手足についた泥を落として、巣穴に入るんだそうだ。
 それで真木千秋も一安心。

 さらに石田紀佳のイマジネーションは、はるか遠野物語の世界に飛んでいく。
 「アナグマくん、尻尾にピンク色のリボンが結ばれてるの」
 もしかしたら、飼われていたのが逃げ出したのかもしれない。
 「船附クンの胸にも、この前ピンクのリボンがあったし」
 それがどうした。
 「もしかしたらあのアナグマくん、船附クンじゃないかって」
 馬鹿なこと言うなって。
 「だって、船附クンの来るとき、アナグマくん、一度も出てきてないでしょ…」


1999年7月19日 フォト・セッション

 今、午後八時半。
 「竹の家」はまだ活動の真っ最中。
 昼前からずーっと、フォト・セッションだ。

 写真家は山梨の樋口雄樹クン。
 当スタジオの専任フォトグラファーだ。
 もう七、八年のつきあいになる。

 秋の案内状に使う写真の撮影。
 モデルはこれまた専属モデルの大村恭子。
 実は当スタジオのスタッフなのだ。
 なかなかいいモデルだ … と樋口クンは言っている。

 千秋も香も、疲れも知らず、嬉々としてやっている。
 まだまだ終わりそうもない。
 夕飯はいったいどうなるのだろうかっ!?


1999年11月12日 囲炉裏

 四ヶ月ぶりの竹林精舎日誌。
 この「竹の家」もおかげさんで成長を遂げ、今ではすっかりスタジオとしての機能を果たすようになった。

 ただ、前面すなわち南側をケヤキの大木と竹林が覆いつくしているせいで、光があまりささない。
 広い縁側があるのだが、室内は昼間でも電灯が必要。
 (ケヤキの葉がすっかり落ちると、その状況も多少は改善されるのだろうが)
 そしてかなり寒い。
 それで十月末から暖房を入れる。

 この家の土間を上がったところに、囲炉裏が切ってある。
 かつては木を燃やしたりしたのだろう。
 それで天井などが美しく黒色にすすけている。

 僕たちも囲炉裏が大好きなので、何とか使いたいと思っていた。
 しかし布を扱っているので、木を燃やすというわけにはいかない。
 煙の匂いが移ってしまうからだ。

 そこで新潟の炭屋さんから炭を取り寄せ、火を起こすことにする。
 今日は囲炉裏を囲んでみんなで昼食のうどんを食べたのだが、う〜ん、これがなかなかよかった。
 灯油に比べると暖房費がかさむので毎日というわけにはいかないが、ときどきはこうして炭火を楽しみたいと思う。


オープンハウスのお知らせ

2000年6月2日(金)〜4日(日)
11:00〜18:00

このたび、毎年恒例の地元での展示会を、ここ『竹の家』で行うこととなりました。
手織り布の展示とあわせて私たちの仕事場もご覧ください。
なお、会期中は下記の催しもいたします。

 

・6月2日(金) 11:00〜12:00 「素材の話」 
  スタジオで使っている身近な染織素材について。

・6月3日(土) 13:30〜16:00 「みだれ編みの籠づくり」
    (残念ながら、定員に達したため、申し込み締め切りました)

・6月4日(日) 14:00〜15:00 「スライド会」
  インドでのものづくりの現場を紹介。
 餅つき

 今、その準備にてんてこまいです。
 壁にしっくいを塗ったり、掃除をしたり、竹おこわを試作したり。          
 なんせ、初めての試みなので、いったいどうなることやら。
 だから皆さん、あまり期待せずに、ピクニックがてら遊びに来てください。


行き方
 JR五日市線・武蔵五日市駅(新宿駅からだと約1時間20分・780円)下車、徒歩12分
 駅を出て右手100mほどのところに、下りの階段あり。そこを下りて、道なりにまっすぐ歩いて約10分。
 車は原則としてダメですが、どうしてもという人には、付近に駐車場あり。
 軽い食事の用意はありますが、お弁当持参もよいでしょう。また付近のおいしい食事処もご紹介します。


2000年7月11日 藍の生葉染め

 8月4日から青山の真木テキスタイルスタジオで行われる『Indigo展』に向けて、今日はみんなで藍の生葉染め。

 生葉染めというのは、「藍建て」をせず、つまり発酵させずに、生のままで染めるやりかた。
 生の藍葉を使うので、夏の間しかできない。
 当スタジオでは数年前から、折に触れてやってきた。
 
 昨年からは、隣町の農夫・船附クン(写真左の人物)に藍草を育ててもらって、染めている。
 種をまいたのは今年の4月10日。ちょうど三ヶ月たって、背丈も30cmほどに伸びている。それを根本から刈り取る。
 肥料を十分与えておくと、株から脇芽がまた生えてきて利用することができる。

 この藍草は、「蓼藍(たであい)」と呼ばれるタデ科の植物。姿形は「タデ」すなわち「あかまんま」にそっくり。ただ、葉の枯れた部分が青色に変色するので区別がつく。日本ではもっぱらこの藍草が使われてきた。
 そのほか、藍染めに使われる植物には、インド藍(マメ科)、琉球藍(キツネノマゴ科)などがある。

 さて、刈り取られた藍草は、五日市のスタジオまで運ばれる。
 みんな総出で葉を摘み取りだ。

 生葉染めは、よく晴れた日にやらないといけない。
 だから、この時期には、梅雨の中休みをねらってやる。

 摘み取った葉をミキサーに入れ、水を加えてすりつぶす。
 そして木綿の布に入れてしぼって、染液にする。(写真左)

 一見すると抹茶のようだ。その中に、布や糸を入れ、出来るだけ空気をいれないように静かに、そしてさっと染める。

 それから絞って、風にあてる。
 すると最初緑色だったものが、酸化作用により、だんだん青味が出てくる。
 こうした生葉染めで得られる色は、藍建てによる色とはまた趣の異なる、淡い色。
 それは水色であり、また古来より、水縹(みはなだ)、水浅葱(みずあさぎ)とも呼ばれてきた色だ。

 写真左はシルクを染めたもの。

 こちらは絹の生糸。
 これをインドの工房に持って行って、ストールに織り込む。

 注目すべきは、指先の青色。今はまだいいが、生葉染めの一日が終わる頃には、手もすっかり藍染め状態になる。
 皮膚に付着した藍色は二、三日で落ちるからいいものの、問題は爪。これは落ちない。除光液でも落ちない。爪が伸びてすっかり生え替わるまで、藍色のマニュキュアとお付き合いだ。(それがいやな人は、前もってマニュキュアをしておいて、除光液を使うこと)

参考文献:山崎青樹著『草木染染料植物図鑑』美術出版社


2000年11月15日 赤城の節糸 (by 真木千秋)

 

 前橋に行ってきました。

 武蔵五日市から五日市線で拝島まで行き、八高線にのりかえて高麗川、そして高崎で乗り換え、前橋の西尾さんのところで展示会を開催していただくためです。西尾さんとは、着物をつくることからたずさわり呉服屋さんをされている方です。

 そして初日の朝、赤城の山の近くまで車で連れていって頂いて、赤城の節糸を今でも座繰りでひいている75歳のおばあちゃんのところを訪ねました。

 うちから電車で3時間のところに、まだ今でも昔ながらのゆっくりしたやりかたで糸をひくことを職業にしているおばあちゃんがいるなんて、本当に感激しました。
 いままでも京都の下村撚糸さんの扱っている赤城の節糸を少しづつ使わせてもらってきましたが、現場を見せていただいて本当に愛おしいものとなりました。
 左手で木製の座繰りをまわしながら右手で繭から糸口を素早くとって、いつもの自分の太さにしていくその動作にはなんの無駄もなく、そしてとっても真剣な表情で。
 繭からずりだす方法の糸とりは私達も何回かやってみていますが、それだけの方法で糸をとって織物にしていくのはちょっと現実的には難しいと言われています。

 その次に原始的な方法がこの座繰りといわれていますが、手で回せるだけの早さだし、そのおかげで糸に空気が入ってふっくらとするんだそうです。

 確かに赤城の節糸はふっくらとしていて腰があり、そして柔らかいんです。
 でもその糸取りの元締めをやっている方が、「あと10年15年のうちにこの糸は必ずなくなってしまう」とおっしゃっていました。
 悲しいことですね。
 今のおばあちゃんたちの一番若いひとでも70歳くらいだそうです。後継者はまったくいないとのこと。
 昔はこの座繰りの糸ひきは、どこの農家でもやられていたごく当たり前のことだったんだそうです。
 暮らしの変化とともにこういった手の仕事がなくなってしまうし、経済のありかたでもそうならざるをえないところがあるようです。

 彼はそれでもこの糸の取り方をどんなかたちでもいいから誰かに教えたいと行っていました。商売云々ではなく手の技として続けて行ってもらいたいのだそうです。
 うちの織物を興味深く見てくれて、インドはすごいなあ、質は別としてもこんなに細い糸をこんなに今でも手でひくことができるんだからなあ、とか言っていました。
 いつかインドで赤城の節糸のひきかたを教えたいなあ、とかも。

 とにかく少し糸をわけていただいて、今後このおばあちゃんの糸をすこしでも使わせてもらいたいたいなあ、と思っています。
 そしておばあちゃんがいつか糸づくりをやめてしまっても、おばあちゃんに受け継がれてきた手の仕事がなんらかのかたちで伝わって生きていくようにできれば…などと、つらつらと考えています。

ちあき      photo by Nishio


 竹林精舎日誌「建設篇」へ/ホームページへ