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「羊とイラクサ」ヒマラヤ紀行

1.関係地図

4.枝を谷底へ…


■コティの源

 2017年3月31日、朝6時半、私たち一行7名は、タクシー二台に分乗して新工房gangamakiを出発する。私たちというのは、マンガル夫婦、その次男の嫁、真木千秋、ラケッシュ、スープリヤ、そして私ぱるばだ。日中の気温はもう35℃に達しているが、朝はさすがに涼しくて気持ち良い。
 行き先はドゥンダ。距離にして160km少々だが、ヒマラヤ山中の難路だから時間がかかる。
 工房を出発してほどなく、山道にさしかかる。ヒマラヤの奥地に向かうインドの国道だ。標高千メートルほどの山腹をうねうねと巡っていく。
 途中、眼下に大きなダムが見える。ガンジス川を堰き止めたティリ・ダムだ。インドで一番高いところにあるダムだという。このダムの完成によって多くの村々が湖底に沈んだが、そのひとつがコティ村であった。その村人たちがリシケシ近郊に代替地を与えられて集住し、そこが現在コティと呼ばれる。その新しいコティの一画にラケッシュも土地を得てganga旧工房を設ける。現在、gangamakiの衣に「コティ」の名を冠したものが幾つかあるけれども、その名の元はダム湖底のコティ村にあるというわけ。
 そんな経緯もあるので、休憩も兼ね、コティ村の沈んだ辺りを遠望できるところに車を駐める。(写真2)。左上地図、gangamakiのちょっと上、「Old Koti」とあるあたり。

 このあたりから、我々のイメージするヒマラヤの高峰が見えてくる。いわゆる「大ヒマラヤ」だ。(写真3)。しかし左上地図を見てもわかるとおり、その手前に小ヒマラヤの山々が幾重にも峰を連ねているので、雪を頂く大ヒマラヤはなかなか拝めない。

 右写真は停留所でバスを待つ山里の女子学生たち。

12.腰機

10.太目のウール糸

■ふたつのイラクサ

 イラクサには食用と糸用の二種類ある。(右写真)
 @が食用で、葉が普通の葉っぱ型をしている。
 Aが糸用で、葉が三裂している。
 (そういえば、gangamakiにある芭蕉にも、食用「バナナ」と糸用「糸芭蕉」の二種類ある)

 ガジョリ村では畑に糸用イラクサの種を蒔いて栽培しているようだ。

 イラクサ素材は集落下にある倉庫に収められていた。(写真19)
 イラクサの茎から皮を剥いだものだ。
 その皮から繊維が採られ、糸として紡がれる。
 我々も研究のため、一束わけてもらう。

 帰り道、バギラティが山の斜面で何やら掘り出している。(写真20)
 糸イラクサの根だ。gangamakiに植えてみたいという真木千秋の希望によるものだ。
 
 バギラティが野生の糸イラクサの茎を見つけた。
 まだ半生の状態だったので、真木千秋が皮を剥いでみる。(写真21)
 その感想は、「カラムシの糸取りとよく似ている」とのこと。
 それも当然であろう。苧麻も蕁麻もイラクサ科に属する親戚同士なのだ。

 ただ、繊維の扱いは違う。
 カラムシは績(う)まれる。すなわち、長く繊維を採って、その端と端を繋ぐのだ。
 イラクサは当地では、短繊維の綿状にして、紡ぐ。
 北欧のエルザがどのように糸を作ったのか定かではないが、績むことができるのかは興味あるところだ。

 バギラティの採取した糸イラクサの根は、帰宅後、gangamaki裏手の湿気の多い場所に植えられた。
 入手した皮のサンプルとともに、今後の研究課題とする。

 美味とされる食用イラクサも、冬場のシーズンには食べてみたいものだ。身体が暖まるそうだし。
 「蕁麻疹」については、今回は大丈夫であった。    (2017/4/6記)

 


8.gangamakiの紡ぎ手
17.集落へ続くメインロード

■紡ぎ手たち

 現在、羊毛の里に住むのは400軒。そのうち、牧羊を営んでいるのは100軒。
 紡いでいるのは200軒。織っているのは15軒だという。
 gangamaki用に紡いでいるのは15軒。マンガル&バギラティ夫婦がその元締めをしている。
 右写真が、羊毛の里、メインストリート。
 多くの家の軒先に紡毛機があり、人々がのんびり羊毛を紡いでいる。
 マンガル夫妻に連れられ、gangamaki用に紡いでいる人々を巡る。

 写真8はバギラティの親戚。白羊と黒羊の毛を混ぜて、グレーの糸を紡いでいる。
 昔の日本のミシンを思わせる、足踏み式の紡毛機だ。
 糸を紡ぐのは大概が女の仕事だが、ユニークなのは写真9、バギラティの実兄だ。
 若いころ一時、羊飼いとなるが、その後、国境守備の軍隊に志願して入営。60歳の定年まで勤め上げる。除隊後はこうしてgangamakiのために糸を紡いでくれている。まだまだ元気なので何か仕事がしたいと言う65歳の退役軍人。強そうなので工房の警備でもしてもらおうか。ともあれ、糸紡ぎができれば、男でもこうして定年後に働けるのだ。みなさんもどう?

 実際、身体が効けば、いつまでも糸紡ぎはできる。今回出会った最高齢は、八十四歳の老婦人。(写真右)
 ウールの帽子に、ウールのジャケット、そしてウールの格子腰巻がお洒落。
 この気温でウールジャケットは暑いだろうと思うが、年中この格好なのだそうだ。まさにウールとともに生きる暮らしだ。

  今回、真木千秋は、太目のウール糸があったらいいなと思っていた。
 紡ぎ手たちを巡る間に、そうした太目の糸に出会う。(写真10)。今までにない存在感だ。羊の脚と腹の毛が短毛なので、太い糸になるらしい。
 今年の秋にはまた新しい風合いのウール織物が現れるかも。

 「羊毛の里」は北と南に大きく分かれている。北側にはマンガル家を含むキノール(アーリア)系住民、南側にはボティア(チベット)系の住民だ。言葉や風俗が違うからそれぞれ固まって住んでいるようだ。ただ、お互い、相手の言葉はわかるという。
 ちなみに、バギラティは五つの言語を話すという。母語の上キノール語と、下キノール語、ボティア語、ガルワーリ語、ヒンディー語だ。
 ガルワーリ語というのはドゥンダを含むこの地方の言語であり、ラケッシュ両親の母語でもある。
 ボティア語はチベット系であり、それ以外はみな印欧(アーリア)系だ。インドにはたくさんの言葉があるのである。

 メインロードを南に下ると、そのボティア街に入る。家並みは同じようなものだが、たしかに顔つきが我々と似たようなモンゴロイドだ。(写真11)。このボティア人たちも我々のために糸を紡いでくれている。写真左端がバギラティ。たしかにアーリア系とはぜんぜん違う言語で会話している。バギラティは幼時からボティア人と交流してきたから、母語と同じくらい上手にこのチベット系言語を操るのだそうだ。
 そのボティア婦人のひとりに、伝統的な衣裳をつけてもらった。(右写真)
 大きなヒダのある長衣や、頭と腰の布の巻き方が特徴的だ。
 ここボティア街で真木千秋は、三年ほど前に出会ったボティア婦人と再会している。リシケシ郊外の遊牧民キャンプ地に出かけた折に会った人だ。(そのとき愛犬ハナをゲット)。草木でできたテントとは違ってずいぶん立派な家に住んでいるにビックリ。

■バンダルパンチ

 山上の国道を走っていると、頭上に何かを載っけた女たちによく出会う。多くの場合、自家の牛や水牛のために草を運ぶ農婦たちだ。
 一度、木の枝を頭に載っけた女たちに出会う。(写真4)。タキギかと思っていたら、やおら、その束ごとドサッと谷底に放り落とすのだった。マンガルによると、この枝はビーマル。おそらくシナノキの類であろう。しばらく谷川の水につけておき、皮を剥がして、繊維にするのだ。その繊維を綯(な)って、ヒモや縄を作る。当スタジオでもビーマルのヒモはよく使われている。

 日も中天にさしかかり、ガンジスの川幅もだいぶ狭まってきた。もうじき目的地、ドゥンダの里だ。
 前方に雪山がひとつ聳えている。(右写真)。マンガルいはく、バンダルパンチという山だそうだ。大ヒマラヤの一部で、標高は6316メートル。左上地図に↓で場所を示してある。

19.村のイラクサ倉庫

21.糸イラクサの皮を剥ぐ
5.ドゥンダの町

■天上の村

 アンデルセン童話に白鳥の王子というのがある。魔法によって白鳥の姿にされた王子たち。その魔法を解くには、ひとり残された妹エルザが素足でイラクサを踏んで糸を採り、衣を作って白鳥に与えねばならない。そのイラクサというのはとっても痛い草なんだそうだ…
 それが私の知っているイラクサであった。
 イラクサは、漢字で蕁麻と書かれる。蕁麻疹の蕁麻だ。触ると蕁麻疹が出るのか!?
 ただ「麻」の字が当てられるということは、糸も採れるのだろう。
 ちょうどgangamaki工房に滞在していた英国人に聞いたところ、イラクサは国中に生えていて食用にしているとのこと。でも糸を採ったりはしないそうだ。

 ドゥンダからガジョリまでは三十kmほど。車で2時間かかるという。つまり、かなりの山道だということだ。
 そこで翌朝早く、マンガル&バギラティも含め、みんなで出かけることにする。

 ガンジス川に沿って国道をしばらく遡上し、やがて左手の小さな山道に入る。
 舗装もとだえた山道はぐんぐん高度を増し、空気もひんやりとしてくる。途中、国境警備の軍隊とすれちがう。50kmほどでもう中国領だ。目もくらむ断崖に穿たれた道をすりぬけると、前方の緩斜面にガジョリの村が見えてくる。(写真16)

 村の下に車を駐め、集落に続くメインロードを徒歩で上がる。(写真17)
 下界から隔絶した別世界だ。
 標高は1800メートル。朝の空気が清々しい。道脇の畑にはジャガイモが育っていた。
 農業のほかに牧畜で生きる村らしい。メインロードを動物たちが下りてくる。山羊と羊の群だ。マンガルが黒い子羊をヒョイと抱き上げる。羊が好きで遊牧をやっていた男だ。扱いは慣れたものである。(写真18)
 石垣の上から若い女たちが珍しそうにこちらを見ている。その佇まいがまるでアルプスの少女だ。ここまでやってくる人間もあまり居ないのであろう。
 まあしかし、よくこんなところまで人が来て、住まったものだ。確かに夏は涼しくて良いだろうし、他国の兵士に蹂躙されることもあるまい。アーリア系のインド人で、言葉はラケッシュ両親と同じガルワーリ語であった。

7.マンガル家のラジマカレー

■腰機のラグ

 とある家に腰機(こしばた)があった。
 腰でタテ糸を引っぱりなが織る、原始的な織機だ。
 その腰機ではラグが織られていた。(写真12)
 ヨコ糸にカラフルなウールを使い、表面の毛足が長くふわふわ柔らかいラグだ。
 ただ、紋様がラーメン丼鉢のようで、あまり真木千秋の注意を引かない。

 しかし、夕暮れも迫って訪ねたある家で、以前に織ったというラグを見せられた。
 ベージュの無地だ。
 やはり毛足が長くてフワフワ。
 真木千秋、ひと目見て気に入る。
 自家用に織って、そのままお蔵入りしていたものだ。
 それを無理言ってもらってきた。

 写真13は夜、マンガル家でそのラグを開いて見ているところ。
 腰機で織って、はいである。
 これを見つけただけでもドゥンダに来た甲斐があった、と真木千秋。
 やはり羊毛の里には、まだまだ知られざる手織物があるものだ。
 これも秋ぐらいには竹林に登場するかも!?

 ところで、イラクサはどうなったか。
 ドゥンダの農業普及所で、その試みの一端を見せてもらった。
 州政府が今、イラクサの産業化を企図しているらしい。
 ドゥンダではイラクサとウールの混紡を試みていた。
 こちらとしてはイラクサの繊維が欲しかったのだが、研究中ということで分けてはもらえなかった。どこで繊維を取っているのかと聞くと、ガジョリ村だという。ドゥンダから三十kmほどの道のりだ。これは自分たちでガジョリまで行くほかあるあまい。

9.退役軍人も



20.糸イラクサの根

6.マンガル家の脇

■ドゥンダとハーシル

 ドゥンダは、ちょっとした町という感じ。わが武蔵五日市くらいのサイズであろうか。
 ガンジス川の谷が開けたところにある。(写真5)
 標高は約千メートル。高原とは言え、三月末の日中は暑い。gangamaki工房(標高600m)より多少は涼しいくらい。
 町の中ほどを国道が南北に走り、その川側が羊毛の里だ。すなわち、かつてハーシルの遊牧民たちがキャンプを張っていたところ。今は煉瓦づくりの家が建ち並び、ハーシル出身の人々が暮らしている。
 マンガル&バギラティ夫妻の家もその一画、ガンジス川のすぐ近くにある。

 家の脇にはイラクサが大きく育っており、これは食用なのだそうだ。(写真6)
 イラクサが食用というのは日本ではあまり馴染みがなかろうが、ここヒマラヤ地方ではよく利用されるようだ。私はまだ食べたことがないのだが、冬場の柔らかい葉が食用となり、かなり美味であるらしい。今の季節は育ちすぎで硬くて食べられないようだ。

 マンガル夫妻の出身地ハーシルHarsil(左上地図参照)までは車で更に半日の行程だ。現在、実家ではリンゴを栽培しているとのこと。
 ハーシルにはもうひとつ、名高い産物がある。金時豆だ。インドではラジマ豆と呼ばれる。
 ベジタリアンの多いインドでは、豆は重要なタンパク源で、いろんな豆が食される。中でも一番高級とされる豆が、このラジマ豆。そしてラジマ豆の中でも随一と言われるのが、ハーシル産のラジマ豆だ。
 写真7が、この日、昼食としてマンガル家で供されたラジマ豆のカレー。豆はもちろんハーシル産。
 このラジマ豆カレー、マジでウマい。私も今までいろんなインド料理を食べてきたが、最上の部類に入る一品であろう。豆がホクホク。
 このハーシルのラジマ、昨年であったか、竹林カフェのランチでも出したことがあるので、みなさんも食べたことあるかも。

 

3.大ヒマラヤの峰々

■ドゥンダという所

 ヒマラヤ山中、ガンジス上流に臨むドゥンダ Dundaという町は、ganga工房にとって縁(ゆかり)の深い所だ。
 今を遡る7年前のこと。当時Maki Textile studio はデリーの工房で布作りに勤しんでいたが、その北方250kmのヒマラヤ山麓にラケッシュがganga工房(旧)を設ける。設けたはいいが、職人はいないし、材料もない。
 ラケッシュの縁者に州政府の役人がいた。その人の話によると、北方のヒマラヤ山中ドゥンダでウールの手紡ぎ手織りが行われているらしい。それだけの情報を頼りに、ラケッシュ含め3名のインド男子がスズキの小型自動車でドゥンダに乗り込む。まったく始めての土地で、右も左もわからない。突如現れた都会ボーイズ(彼らはデリー育ちであった)に、ドゥンダの人々も当惑したようだ。そもそも首都の若者が手紡ぎ手織りに関心を持つなど、同国ではちょっと奇っ怪なことである。
 そのとき出会ったのがマンガルであった。同地でウールの手織をしていた。元は羊飼いだったという。マンガルは何も知らない若者たちに、ウールの手紡ぎ糸や織物について語るのであった。
 ほどなく、マンガルはganga工房に招かれ、その最初の手織職人になる。

 この羊毛の里には、私ぱるばは今までに二度ほど訪ねたことがある。
 しかし真木千秋はまだ行ったことがなく、ドゥンダ訪問はひとつの念願であった。
 また、最近、真木千秋は蕁麻(イラクサ)の繊維に再び興味を持ち始め、各所に照会していたところ、ドゥンダでその糸紡ぎが試みられているという情報もあった。
 折からマンガル夫婦は、法事があってドゥンダの自宅へ一時戻るという。そこで今回、みんなで行ってみようということになった。

 左の地図(google航空写真)をご覧いただきたい。左下に首都デリー。その右手に流れるのがGANGAすなわちガンジス川。それを遡ると、左手の山裾にgangamaki新工房。ガンジス川はそのあたりからヒマラヤの谷に入り、くねくねと蛇行する。
 gangamaki工房の標高は約600メートル。ヒマラヤは徐々に高度を上げ、左の航空写真では、標高4千メートルあたりから雪を頂いている。この辺りの最高峰はナンダデヴィの7816メートル。
 ヒマラヤを越えると、そこはチベット(現在中国領)だ。
 マンガルの家はもともと、左図・右上Tibetの文字の左下Harsil(ハーシル)にあった。ガンジス源流にほど近い谷だ。チベットに程近いここハーシルには、チベット系の遊牧民ボティア人の集落がある。マンガルはインド(アーリア)系のキノール人だが、百年ほど前に父祖が西方ヒマチャルプラデシュ州からハーシルに移住し、チベット系ボティア人と混住する。その子孫であるマンガルは、羊が好きで、ボティア人に交じって少年時代から遊牧を仕事とする。夏はハーシルより上、標高3千超の高地で羊に草を食ませ、秋になると羊群とともにガンジスを下り、ganga工房近くのリシケシ郊外(標高4百)にキャンプを設けて越冬。春になるとまた羊群を追ってガンジスを遡上するという生活を送っていた。
 ドゥンダの町はその中間点にあって、かつてはリシケシと同じく遊牧生活のキャンプ地であった。しかし平地に近くて便利であり、気候も温暖であるから、今は多くの人々がハーシルから居を移し、生活の拠点としている。

2.コティ遠望

18.マンガルと子羊



 

16.ガジョリ遠望
11.ボティア系の家
13.ウールのラグ