南インド染織紀行
2006年12月、編者・田中ぱるばは南インドを旅する。
その中で、皆さんの興味を引きそうな場所が二つあった。
ひとつは、タミルナドゥ州の藍の里ティンディワナム
そして、アーンドラプラデシュ州の綿織物の里マンガルギリだ。
どちらもインド伝統の手業が現代に引き継がれた場所である。
その様子を少々ご紹介しよう。

藍の里へ
 南インドの中心都市はチェンナイ。タミルナドゥ州の州都で、かつてはマドラスと呼ばれた。
 私たちの工房のある北インドのデリーからは、直線距離で二千百キロ。日本で言うと函館から那覇くらいの距離だ。
 飛行機で二時間半ほど。
 ここ南インドは、北インドとは気候はもちろん、人種も言葉も違う。
 食べ物も米が中心の南インド料理で、日本人の口にも良く合う。
 日本語の起源はタミル語だという学者もいるくらいだから、我々とも何か縁があるのであろう。

 このタミルナドゥ州はインド最南端の州。
 州都チェンナイから南西180kmに、ティンディワナムという街がある。
 そこに住むアンバラガンという人は、インドでも数少なくなった藍の生産業者だ。
 私と同年代で、流暢な英語を操る紳士。
 曾祖父から四代、この仕事をしているという。
 農民から藍草を買い取り、自家の施設で、昔ながらの方法で藍塊(indigo cake)を作っている。

 街の郊外、のどかな田園地帯にある製藍場に連れていってもらった。
 彼の生まれ育ったところだという。
 コンクリート製の大きな槽がいくつも並んでいる。
 五十年ほど前に作られたものらしい。
 藍の製造は8月から11月がシーズンで、私の訪ねたときには残念ながら実際の作業は行われていなかった。
 そこで、工程を映像で見せてもらう。

 まず半エーカー(約六百坪)ほどの藍草を刈り取る。重さにして約1.5トン。
 それを新鮮なうち(二時間以内)に上方の槽に入れ、水を張る。
 18時間後、ドロドロに発酵した液を、下方の槽に流し込む。
 その液体を人力で撹拌し、酸化させる。
 すると、酸化して青味を帯びた藍の成分(インディゴ・ブルー)が徐々に沈殿する。

 「機械で撹拌したらどう?」と聞くと、かつて機械で試した業者もいたが上手くいかなかったそうだ。
 沈殿した藍を取り出し、銅の大鍋で1〜1.5時間、煮つめる。
 その後、フィルターに通して不純物を除き、プレス器で押し固める。こうした器具類もすべて木製だ。
 それを石鹸ほどの大きさに切り分け、15日間、乾燥させる。
 そうして藍塊ができあがる。
 1.5トンの藍草から7kgほどの藍塊ができるとのこと。

 アンバラガン氏によると、現在インドで藍を製造しているのはここタミルナドゥ州のみ。
 北隣のアーンドラプラデシュ州でも生産されていたが、二年ほど前に廃業したという。
 かつてはインドの代名詞でもあった藍(indigo)。
 そのインド藍をめぐる情勢は厳しいのだ。

 長くイギリスの支配下に置かれていたため、西洋起源の化学染料もきっと早くから流入していたことだろう。
 また、現在の日本のように藍や植物染料を珍重する気風もまだ生まれていない。
 現在インドで使われる藍は、ほとんどが合成のインディゴピュアーだという。
 還元剤ハイドロを使用する染めの手順は、天然のインド藍も合成藍も同じ。それもまた合成藍全盛の下地になっているのかもしれない。

 アンバラガン氏によると、ここタミルナドゥ州の製藍業者は3〜4軒ほど。
 彼の他は小さな規模だというから、すなわち彼が現在インド最大の製藍業者ということになる。
 最大と言っても年産数百kgといったところだろうから、インドにおける製藍産業の衰微もここに極まれりという感がある。
 幸い昨年、隣州アーンドラプラデシュの州都ハイデラバード(上の地図参照)で国際藍会議が開かれたとのことで、今年は欧米を中心に藍の引き合いも多いのだそうだ。

 乾燥した藍塊は、比重がだいたい水と同じくらい。
 重くも軽くもない。
 水に浮くのが一級品、沈むのが二級品とされる。
 今回は両級取り混ぜ、計5kgを購入。デリーに持ち帰って染めてみる予定。
 米でも糸でも染料でも、出所がわかると愛着もひとしおだ。
 日本でも田中直染料店でインド藍が販売されているが、おそらく氏の藍も含まれていることだろう。

 最後に近くの藍畑に案内してもらう。
 インド藍は日本のタデ藍とは別種の、マメ科植物である。
 一シーズンに二度刈り取って使用するのだという。
 氏は農村の独居老人の世話もしているようで、農民達との絆も深いようだ。

 このアンバラガン氏、よく見ると、口ひげが微妙に青っぽい。
 聞くと、藍の粉をまぶしているのだそうだ。
 藍もいろんな使い道があるようだ。
 私にも粉をくれると言うことだったが、もらいそびれた。
 今度は藍製造の時期に訪ねてみたいものだ。
藍塊を磨く人々。
唯一見られた実際の作業。
画面右側が上方の槽。
左側、氏の立っている方が下方の槽。
壁面が藍で染まっている。
藍液を煮つめる銅の大鍋。
藍畑と農民。
今残っている藍草は種子用であろう。
背後の椰子の木がいかにも南インド的。
藍塊を量るアンバラガン氏。
綿織物の里へ
■手織り極薄綿布

 当スタジオでも数年前から夏の極薄綿としてご紹介しているマンガルギリ。
 私ぱるばも夏場のシャツ地や腰巻地として重宝している。
 他には代えがたい手織り独特の柔らかさがある。
 その産地は、南インド・アーンドラプラデシュ州の町、マンガルギリ。
 ここで織られる綿生地は、産地である「マンガルギリ」の名で呼ばれ、その繊細さによってインド中に知られている。

 タミルナドゥ州の北に接するアーンドラプラデシュ州。
 マンガルギリはチェンナイの北方、約四百kmだ。
 最近は近所の街ビジェイワダまで航空路が開かれたが、まだ便数も少ない。
 ここは伝統にのっとって汽車で行くことにする。
 チェンナイ中央駅を朝九時に出発するコルカタ(カルカッタ)行き急行列車だ。
 AC二段寝台という高級車両に予約を取る。列車の長さが数百メートルに及ぶから、目的の車両にたどりつくまでひと仕事。
 インドで鉄道を利用するのは十数年ぶりだ。 
 途中でカレーのランチをとり、午後三時半に目的地のビジェイワダ到着。定刻から15分ほどしか遅れていない。最近のインド国鉄はかなり正確だ。

 州を越えると、言葉も変わる。タミルナドゥ州はタミル語、アーンドラプラデシュ州はテルグ語。どちらもドラヴィダ系の言語だが、互いに疎通はできないらしい。(ちなみに北インドのヒンディー語やベンガル語などは全く別系統のアーリア系)
 プラットホームにはハレクリシュナ氏が迎えにきてくれていた。ニルーに布を供給しているマンガルギリの織元だ。これから二日間、この織物の里を案内してくれる。
チェンナイ発コルカタ行きの急行列車。インドの列車は走行中でも勝手にドアを開けられる。ただし、落っこちても誰も責任は取ってくれない。
■染色工房へ

 ビジェイワダはアーンドラプラデシュ州中部の大きな街だ。そこからマンガルギリまでは約十km。
 ハレクリシュナ氏はまず染色場に連れていってくれる。
 マンガルギリでは木綿のみが織られ、染色はすべて糸染めだ。40番、60番、80番という細糸を、化学染料で染める。
 染めの手順は、まず水に石鹸とソーダを入れて220度まで熱し、そこに糸を6時間漬けて精練する。すると糸に色がよく浸透するのだそうだ。その後、温水法、冷水法の二通りの仕方で色染めをする。

 ここの親方はトンガ力士(古い!?)のような堂々たる体躯。
 染色場は幾つもあるが、この親方は仕事が一番ていねいなので、ハレクリシュナ氏は自分の糸をすべてここで染めてもらう。
 希望の色合いは何でも出せるという。

 ただし、藍だけはなかなか上手くいかないようだ。
 淡色なら出せるが、濃色の場合は天然藍に化学染料を混ぜて使うという。
 ニルーからも天然藍を使うように再三要請されているが、どうも思うにまかせないらしい。
 藍はどこから手に入れるのかと聞くと、チェンナイの方からと言うだけで、詳しくは知らないようだ。
 そこで上述のアンバラガン氏を紹介する。アンバラガン氏はタミル州内の藍染業者のことも良く知っているから、きっとお互い助けになることだろう。
染め場の親方(左)とハレクリシュナ氏(右)。紺の腰巻がキマッている。
精練した糸を乾している。
後方には燃料となる木の根が山積み。
■織りの里

 マンガルギリ自体は人口六万を数える大きな街だ。
 その街のそこここに、かつては農村だったのであろう、古い集落が残っている。日本で言うと「町並み保存地区」みたいな感じ。街の中の村だ。
 ハレクリシュナ氏の生まれ育った集落も、そんな家並みの残った静かな一画だ。沖縄・竹富島のような、ゆったりしたたたずまい。
 地区全体がアートしている風情もある。金細工、木工、菓子作り…。

 しかし何といってもここは綿織物の村だ。あちこちで機音(はたおと)が響き、中庭や戸口で人々を糸を巻き、綜絖に糸を通し、路地に長々とタテ糸を張っている。
 マンガルギリ全体で二千台の手機(てばた)があるという。そのうち四百五十ばかりを氏の一家が束ねている。
 マンガルギリといえばサリーで有名だが、服地もそれに劣らず重要な産品だ。
 織りの手順は以下の通り;

 染め上がった糸カセをボビンに巻き取り、大きな整経機にかける。これは専門のタテ糸職人の仕事。タテ糸の長さは、サリーの場合、四本分の28ヤード(約26m)。
 タテ糸ができると、それに糊づけをする。糸が細かいのでこれは必須の作業だ。米の産地だから、糊も米から作る。
 糊づけが終わると、路地で広げて、糸を分離する。それを筬(おさ)と綜絖(そうこう)に通し、梁に巻き取って機にかける。タテ糸の数は3600〜3800本とのこと。

 機は伝統的な地機(ピットルーム)だ。
 地面に穴を掘り、その上に簡素な木の機を据える。地面からの湿気が糸に適当な潤いを与え、織りの作業も捗るのだ。
 織子は穴の縁に座り、脚を穴の中に下ろし、ペダルを踏む。
 織りは基本的に平織。サリーの場合、両端にドビーで綾を出す。一部、ジャカードで全面に柄を配することもある。
路地でのんびりタテ糸づくり。
人と自転車くらいしか通らない。
タテ糸の糊づけ。右端の人物が糊を散布し、二組の人がハケで伸ばす。
■織元の家

 そうして織られた布が、氏の家に集められる。
 祖父の代から織元業を始めたとのこと。まだ35歳だが、両親は既に他界。兄と二人でこの仕事を仕切っている。インドによくある複合家族で、父祖伝来の家に兄と自分の二家族が暮らしている。
 氏は母語のテルグ語のほか、ヒンディー語をしゃべる。英語は片言程度なので、コミュニケーションがやや難しい。兄は英語をしゃべらないという。国外とは取引きしていないので、北インド標準語のヒンディー語さえしゃべれれば、今のところ商売になるのであろう。
 日本人もほとんど訪れることがないようだ。村の人々は善良素朴で、カメラを向けると笑顔で応えてくれる。

 氏の家には、二間にわたって、サリーや生地が収められている。
 ちょっとしたショールームという風情で、デリーなど国内バイヤーや、近辺の婦人たちが訪れては、品定めをしている。
 ニルーとも十年近いつきあいがあり、信頼も深い模様。

 服地には無地と縞がある。縞は多くの場合、細かな縦縞(ピンストライプ)だ。
 それから絣(かすり)風の美しい生地も発見! これは糸染めの濃淡によってランダムなスジ状の模様が現れたものだ。
 今回ショールームには、百数十種の服地がストックされていた。これだけ多種のマンガルギリを一挙に目にした日本人も滅多に居るまい。その中から不肖ぱるばが皆さんのために厳選。六十三種の生地を1〜2mずつ持ち帰ったという次第である。
 ついでに織り糸のサンプルももらってくる。
 というわけで、07年の夏は、例年よりバラエティーに富んだマンガルギリが登場しそう。
 (余談であるが、今回持ち帰ったサンプル生地の中でMakiの服地に使えそうもないものは、新春1月17日からの「端裂市」に登場する予定)

 十二月半ばのマンガルギリは半袖がちょうどいい気候。
 空気がカラリと乾燥してまことに気持ちいい。
 当地のホテルに二泊した後、南国・南インドを後にする。
 手土産は、5kgの藍塊と、10kgのマンガルギリ綿布。
 朝六時ビジェイワダ発の列車に乗り込む。目的地は三百数十km北西の州都ハイデラバード(冒頭の地図参照↑)

 沿線のあちこちに綿花畑が広がる。
 そろそろ収穫期なのであろう。白い綿帽子がポコポコとはじけている。
 これがいずれマンガルギリの織物に姿を変えるのであろうか。

 夕刻、ハイデラバード発の飛行機で、皆の待つ北国デリーへと向かうのであった。

〈完〉

地機。織子は男女こもごも。
絣風の生地。
広がる綿花畑。
これも走行中にドアを開けて決死の撮影。


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