アッサム訪問記

by 田中ぱるば 

■野蚕の天地アッサムへ

 2011年2月。
 アッサムへ飛ぶ。
 私たちにとって念願の地だ。

 インド東北部の州、アッサム。
 ここは紅茶で有名だが、Makiにとっては全く別の意味で重要な土地だ。
 インドの至宝「ムガ蚕」の産地。
 黄金のシルクとしてその名も高い。
 またこの州ではエリ蚕の養蚕も盛んだ。
 州の養蚕の内訳を生産額で見ると、ムガ蚕65%、エリ蚕25%、家蚕(普通の蚕)8%、タッサー蚕2%。
 生産額の9割以上が非家蚕の絹だ。いかに野蚕の生産が盛んかわかるだろう。

 九十年代前半の頃から、訪ねてみたいと思っていた。
 しかし当時は外国人の入域が制限され、特別な許可が必要だった。
 政情不安定だったからだ。
 デリー在住のパートナーであるニルーたちも行きたがらない。

 それがこのほど、十数年ぶりに叶うことになった。
 ひとつには、ganga工房が新設され、新たな糸素材が必要となってきたこと。
 そして、アッサム在住のムガシルク研究者と知り合ったことだ。
 そのツテをたどって、このたびアッサム州を訪ねる。

 首都デリーから東方へ空路二時間。距離にして1500km。
 同行は真木千秋、ラケッシュ、そして私ぱるばである。
 左手にヒマラヤの高峰を眺めながら、アッサム州の州都・グワハティに到着。
 人々の顔立ちが違う。より東方的というか、我々に近しいのである。
 アーリア系とアジア系の中間、いわゆる「ハーフ」的な容貌の人々が多い。

 空港でプラバカール博士が出迎えてくれる。
 ムガシルクの研究者で、昨秋、東京で開催された国際野蚕学会で知り合った。
 博士自身は南インド・バンガロールの人だが、インド繊維省蚕糸局のグワハティ支所に勤務している。
 このプラバカール博士が、今回四日間に渡るアッサム訪問の手はずを整えてくれる。


■副局長宅にて

 州都グワハティは、インドの大河ブラマプトラの河畔に開けた人口百万を超える大きな街だ。アッサムを始めインド東北部七州の中心地でもある。
 プラバカール博士自身は仕事の都合で私たちと同行はできない。
 その代わりにレヘマン氏を紹介してくれる。アッサム州の養蚕局に勤務する野蚕の専門家だ。氏はこの四日間、私たちに同行していろいろ世話をしてくれることになっている。
 レヘマン氏の案内で、まずディヒンギア氏の家を訪ねる。レヘマン氏の上司で、アッサム州養蚕局の副局長を務める人だ。このディヒンギア副局長も、長年ムガ蚕やエリ蚕の仕事に携わっている。
 知識や人脈も豊富で、アッサム州の野蚕に関わるキーパーソンだとプラバカール博士は言う。
 日曜の夕方近くだったにもかかわらず、ディヒンギア副局長は私たちを快く迎えてくれた。

 中国人のような容貌の精力的な人だ。奥から様々な糸や布を出してきては、私たちに見せてくれる。
 最初に出てきたのは、美しい金色のムガ生糸だった。
 私などはハッと息を呑むのだが、真木千秋はあまり興味が無いという。
 次いで局長が持ってきたのは、それよりも不均一なムガ生糸。
 「やっぱりコレよ!」と真木千秋が言う。
 手引きの生糸だ。
 先ほどのは機械で引いた生糸で、手触りや色つやが違う。
 この辺がデザイナーの違うところで、私ひとりだったらきっと、機械引きのムガ生糸をしこたま仕入れてきたことだろう。

 副局長からひとつ面白い話を聞いた。
 ムガ蚕の繊維の太さは4.5デニールくらいで、それを8〜10粒束ねて糸にする。
 手引き糸はほどんど撚りがかかっていないので、繊維がバラけやすい。
 それで、特にタテ糸にかける時は、強く糊をかける。すると、織り上がった布は、紙みたいにパリパリの触感になる。
 その点、機械引きの生糸は撚りがかかっているので、糊を使う必要がない。
 特にこの4〜5年は、機械引きが主流になり、タテヨコとも機械引き生糸で織られるようになった。それで最近のムガ100%の織物は、パリパリではなくなっているのである。

 それから副局長は、ムガの「ギッチャ糸」と「カティア糸」も見せてくれる。
 ギッチャ糸とは出殻繭から紡がれる糸。カティア糸とは繰糸クズから紡がれる糸だ。
 どちらも黄褐色の太目の糸で、生糸のような輝きはない。
 タッサーシルクのギッチャやカティアは黄味の少ない褐色だ。真木千秋にとっては、そちらの方が魅力的に映るらしい。

 ひとつ、興味深い織物があった。
 淡褐色のエリ蚕糸で織ったショールだ。
 このエリ蚕糸はレンガ色のエリ蚕繭から採られた糸だということ。
 エリ蚕の繭は通常は白だが、レンガ色のもあるというのは話に聞いていた。
 実際に糸を見るのは初めてだ。
 糸作りの段階でレンガ色は褪色して淡褐色になり、その淡褐色は褪せることがないという。
 この淡褐色のエリ蚕糸にも真木千秋は大いなる関心を示す。
 ただ、レンガ色エリ蚕の産地は、グワハティから350kmも離れているという。
 果たして滞在中にその糸が手に入るだろうか。

■ボド族の村へ

 翌14日。
 朝から車を仕立てて、養蚕の見学に出かける。
 行き先はウダルグリ地区と言って、州都グワハティから北東に100kmくらいだ。車はトヨタの七人乗り。そこに、運転手ムナ氏、真木千秋、ラケッシュ、私、そしてレヘマン氏が乗り込む。

 そしてもう一台、インド製の四駆が私たちの先導をしてくれる。四駆には州養蚕局ウダルグリ地区責任者のハジャリカ氏とその部下たちが乗り込んでいる。ものすごいディープな田舎に入って行くので、彼らの案内は必須なのだ。
 二台の車は、州都グワハティからブラマプトラ川に架かる橋を渡り、一路北東へ。

 途中、ドライブインで一服し、チャイを飲む。ミルク入りのアッサムティー。本場だけあってウマい。
 再び車に乗り込もうとすると、トラックの荷台にちょっと異色の集団が。
 ブータン人だという。(写真6)。日本の着物に似た「ゴー」という民族衣装を着ている。所用でアッサムに来ているらしい。
 3〜40kmも行けば、そこはもうブータンだ。インドの辺境に来たという感を深くする。

 幹線道路から外れると、未舗装の細い道になる。周囲は田んぼや草地だ。
 乾季だから、車が通ると、細かい砂塵がもうもうと立つ。すれちがう歩行者や自転車が気の毒だ。
 ときどき、長い竹を運ぶ人々に出会う。日本の孟宗竹も小さく見える長大な竹だ。(写真7)
 アッサムの田舎には、そこここに長大竹の密生した竹藪がある。その竹は住宅や生活道具の素材としてよく使われている。このへんも我々と通じる部分だ。

 このあたり、ブータン国境に添うアッサム州北西部は、別名ボドランドと呼ばれている。アジア系の少数民族、ボド族の居住地域だ。
 アッサムには少数民族が多数居住しているが、その中で最大のグループがボド族で、人口は60万人ほど。
 ちなみに、州の全人口2千7百万のうち一番多いのは、印欧語族のアッサム語を話すアッサム人で、州人口の半分を占めている。
 ボド族の言葉であるボド語は、アッサム語と並んで州の公用語になっている。

 田園地帯から木立の多い一帯に入ると、そこにボド族の集落があった。
 そのうちの一軒を訪ねる。
 椰子の木に囲まれた小楽園のようなところだ。
 竹材と土壁のベージュ色が周囲の自然と一体となり、どこを切り取っても絵になる。(屋根だけはワラからトタンの波板になっていたが)
 村人達の集う中庭は、すこぶる清潔で、気持ち良い。

 ボドの女たちは、サリーではなく、ドクナ(Dokhna)と呼ばれる民族衣装を着用している。
 二枚の布を用い、上の布を胸の下あたりで結んで止める。(写真9)。ブラウスやスカーフはおそらくインド(ヒンドゥー)人の影響であろう。
 ボド族は黄色やオレンジを好むと言われるが、写真でもそれはうかがえる。
 真木千秋は今日はムガシルクの衣を着用。ボド婦人の中に交じると、肌色の他は、見事に溶け込んでいる。

■ボド族とエリ蚕

 ボド族は我々と同じモンゴロイド系で、アーリア系のインド人(アッサム人も含め)とは、だいぶ習慣が違う。
 たとえば、インド人はまず絶対に蚕のサナギは食わないが、ボド人は好んで食う。
 蚕のサナギ!?と思うかも知れないが、我々の祖先は食っていたのだ。
 我が信州では今でも食う。中国や朝鮮半島でも食う。

 レヘマン氏によると、ボド族の養蚕の六割は食用のためで、糸はいわば副産物なんだそうだ。
 養蚕を継続するには蚕種が必要だが、子供たちもサナギが大好きで、全部食べ尽くしてしまい、蚕種に事欠くこともあるという。
 特にエリ蚕は食用に適している。というのも、糸を紡ぐ前にサナギを生きたまま取り出すからだ。(写真10 — これをそのまま置いておくと、やがて蛾になって飛び立つ)
 家蚕の場合、糸を取るためにサナギごと煮沸するが、そうすると特有な匂いがサナギに付着し、私などちょっと食う気がしない。
 生で取り出すエリ蚕のサナギは、プリプリしていて、かなり美味なるものらしい。たぶん海老みないなもんじゃあるまいか。自身ボド族であるウダルグリ地区責任者のハジャリカ氏も好きだという。(アッサム人のレヘマン氏や南インド人のプラバカール博士は研究者でありながら食べたことがないそうだ)。

 このウダルグリ地区にはボド族もアッサム人も混在しているが、どの村でもエリ蚕を飼育しているようだ。
 エリ蚕の食樹は、ヒマやキャッサバだ。ヒマというのは蓖麻子(ヒマシ)油の原料となる植物で、同種の植物はインドのどこにでも野生している。(エリ蚕は別名ヒマ蚕とも呼ばれる)。
 写真11が養蚕に使うヒマだが、かなり背の高い草だ。

 この葉っぱを採取し、屋内でエリ蚕を飼育する。
 家蚕の蚕と同じく白色だが、突起がたくさんある。(別に痛くはない)
 繭には開口部があって、繊維が連続していない。それゆえ、家蚕やタッサー蚕、ムガ蚕のような、長い生糸(フィラメント糸)は取れない。

 糸作りの手順は、まずサナギを取り出し、繭部分だけをアルカリで煮沸する。
 それを真綿状に引き延ばし、そして紡ぐのだ。(写真13)
 写真中央、緑の膝上に載っている丸い白色がその真綿で、ひとつの丸がひとつの繭だ。
 この村では電動の紡ぎ機を使っていた。
 紡ぎ機を使った方が、均一な糸が紡げ、値段も少々高い。
 真木千秋としては、やや均一に過ぎる気もしたが、あまりにも気持ち良い村と人々だったので、白色のエリ蚕糸を数kg購入する。

■町の糸商と竹筬

 次に訪れたのは、ウダルグリの町の糸商。
 村人達の紡いだ糸を扱っている。
 私たちとしてもいろんなエリ蚕糸を見てみたいから、在庫をありったけ出してもらう。(写真14)

 特に関心あったのが、有色のエリ蚕糸だ。
 有色のエリ蚕糸はレンガ色のエリ蚕繭から採れる。
 レンガ色のエリ蚕繭が生産されるのは、主に州の西部、西ベンガル州と境を接するコクラジャール地区だ。
 この近在でも少しは生産されるらしい。

 写真15がエリ蚕糸のいろいろ。
 右下が白色、その左が淡灰色、右上が淡褐色。
 レヘマン氏によると、淡灰色と淡褐色の糸が、レンガ色エリ蚕に由来するものだという。
 繭の処理の違いにより、色味が変化するそうだ。
 有色のものだけピックアップして、購入することにする。

 この糸商で、ひとつ面白いものを見つけた。
 ラック貝殻虫だ。(写真16)
 赤や紫系の色を染めるこの染料は、私たちもよく使う。
 インドの産品だが、デリーではなかなか手に入らない。
 糸商に産地を聞くと、アッサムの更に奥、メガラヤ州だという。
 デリーで手に入る時は粉末状だが、ここでは写真の通り「生」だ。
 これも分けてもらえるという。
 生ラックからどうやって染めるのか、ラケッシュが糸商から手ほどきを受けていた。基本的にタマリンド(酸っぱい香辛料)を使うようだ。

 この染料の色合いを、ブータン人が好むらしい。
 そこでこの糸商は、エリ蚕糸をラックダイで赤系に染め、ショールを織ってブータンに出荷している。
 写真14で真木千秋が手にしているのが、そのブータン向けショール。

 この町を車で通過中に、真木千秋とラケッシュが目ざとく、機材(はたざい)店を見つける。
 手機(てばた)用品を製作し、販売する店だ。

 ここに竹筬(たけおさ)があった。日本ではもはや見られなくなった筬だ。
 筬というのは、機に取り付け、タテ糸を通し、ヨコ糸を打ち込む道具。
 もともと絹を織るには竹筬が適している。軽く、糸がひっかからず、錆びないのが良い。
 近代に入って日本では作る人がいなくなり、鉄やステンレス製に変わってきた。
 ここアッサムではまだ作られ、使われている。写真17で、ラケッシュの前に立てかけてあるのが、その竹筬だ。
 竹の文化圏、アッサムならではツールと言えるだろう。
 ganga工房の機でウールやエリ蚕を打ち込む時、竹筬は好適だ。
 そこで二つほど買い求める。
 エリ蚕を織るのにちょうど良い大きさの、ハンディな杼(シャトル)もあったので、併せて購入。
 ganga工房もこうして進化していくのだ。
 

■村の機織りとムガの養蚕

 村々では、どの家にも機が置いてある。(写真18)。基本的に筬は竹で、綜絖(そうこう)は糸でできている。
 ここアッサムで特徴的なのは、機織りをするのは女だということだ。
 インドの他地方、たとえば私が訪れたことのある、北部のウッタラカンド州、ウッタルプラデシュ州、南部のカルナタカ州、アンドラプラデシュ州、東部のオリッサ州、チャッティスガール州などでは、機織りは男の仕事であった。わずかにウッタルプラデシュとカルナタカで、男たちに交じって機に向かう女の姿を見かけた程度だった。私たちのデリー工房もganga工房も織師たちはみな男だ。

 ところが、ここアッサムでは、機に向かうのは女ばかり。
 そもそも、機織りは女のたしなみと考えられている。
 布の織れない女は一人前と見なされず、嫁のもらい手がないという。
 このあたりは昔の日本にも通ずるところだろう。
 機織りの「性」を通じて民俗を考えるのも面白いだろう。

 真木千秋としては、タテとヨコにエリ蚕を使った機織りを見たかった。
 そこで村々を回るのだが、残念ながら、時期的に、そうした布を織っている家はなかった。
 しばしば、色とりどりの化学繊維の糸が使われていたりする。
 そもそもエリ蚕100%の布は高価なこともあり、それほど需要がないのだろう。
 
 その日最後の訪問場所は、かなり離れた、とある村。
 車が入れないので、田んぼの中の道をしばらく歩く。
 村人や子供たちが珍しそうにこちらを見ている。
 集落に入る手前、「あっちだ」と言ってレヘマン氏が遠くの木立を指さす。
 そこでムガの養蚕をしているらしい。

 集落から200mほど離れたところに、ソムという木の林があった。
 ムガ蚕の食樹には、ソムとスワルという二種類の樹種がある。
 この村ではソムの木を育て、ムガの養蚕を行っている。
 家蚕やエリ蚕のように葉っぱを収穫して屋内で飼育するのではなく、立木での養蚕だ。
 このような飼育法は半養蚕と呼ばれる。タッサー蚕も同じだ。

 日本の家蚕は通常、春と秋の二回、繭を結ぶ。
 それに対して、ムガ蚕とエリ蚕は通年性だ。すなわち一年中繰り返し繭を作る。
 逆に言うと、家蚕のように休眠期間がないから、年中育てていないと蚕種が絶えてしまう。
 ただ季節性はあって、春と秋に収量が多い。
 ムガ蚕の場合、春4月と秋10月が、繭作りの最盛期だ。
 特に、10月前後にできる繭が、糸にしたとき品質が一番良いという。
 それ以外の時期は、蚕種を維持するための養蚕だ。
 私たちの訪ねた2月も、そんな蚕種維持の期間だった。

 ソムの木は高さ5mほど。それほど大きな木ではない。(あるいはそのくらいに抑えておくのか)
 「ホラ、ここにいるよ」と、レヘマン氏やハジャリカ氏が枝を折り曲げて示してくれる。
 見ると、葉っぱと同じような緑色の幼虫だ。
 長さは4cmほどで、まだそんなに大きくはない。
 少々毛は生えているが、別に害はない。
 これが伝説のムガ蚕であったか。
 維持期間中だから、幼虫の数はそれほど多くはなかった。

 ソム林の持ち主親子がやって来た。
 純朴そうな村人だ。
 息子の方は手にパチンコを持っている。
 昼間、このパチンコで鳥を追うのだ。
 鳥が一番の天敵なのだろう。
 こういう人たちがいて初めて、私たちもムガ絹を手にすることができるのだ。

 親子はアッサム人で、イスラム教徒だ。(アッサム人には、ヒンドゥー教徒もいれば、イスラム教徒もいる)
 ルンギ(腰巻)をつけたその姿は、デリー工房の織師たちを思い出させる。彼らもイスラム教徒だ。
 親子と一緒に、村に入る。

 アッサムの農家は、何棟かの建物からできている。
 母屋、炊事棟、納屋、家畜棟、その他。
 そうした建物に囲まれて中庭があり、そこで様々な営みが行われる。
 そんな農家の一軒に案内されると、中庭にはたくさんの子供たちが集まっている。みんな人なつこく、素直そう。(写真22)
 それぞれ小綺麗な格好をして、薄化粧している子もいる。私たちの来訪を知らされていたのだろうか。
 背景の建物はキッチン。土の土台に竹の壁面、藁葺きの屋根といった、アッサムの伝統的な建物だ。
 内側には小さな土のカマドがあり、今、私たちのためにアッサムティーが準備されている。

 納屋の壁面には、竹でできた様々な道具がぶらさがっている。
 たとえば、写真23の、ハエ叩きみたいなもの。これはムガ蚕の幼虫を載っけて、木から木へと移動させるためのものだ。

 小さな母屋でお茶を頂いた後、宵闇迫る村を後にする。
 子供たちは、言葉は通じないものの、名残惜しそうに村外れまでついてくる。
 よく見ると、大人の女たちは伝統的なアッサム衣裳だが、子供たちはみな洋装だ。さていったいどんな大人になるんだろう。
 十年後、写真を持ってもう一度訪ねてみたいものだ。

 アッサムの二日目は、シルクもさることながら、亜熱帯の自然に抱かれた村々のたたずまい、そこで営まれる人々の生活が、私たちに強烈な印象を残すのだった。


1.デリーからアッサムへ
21.畑の持ち主親子


4.ラケッシュの手にあるのが手引きムガ蚕糸。
真木千秋の手の先にあるのは機械引きの糸。

7.竹を運ぶ人々

18.家の一角に鎮座する機
19.ソム樹の木立に向かう


35.N氏夫妻と

29.ポピー(右)とモナリザ



11.ヒマ草
9.ボド族の女たち
12.エリ蚕幼虫


13.エリ蚕糸を紡ぐ
16.ラック貝殻虫

17.筬と杼を買うラケッシュ

14.町の糸商

33.機にかかったムガ蚕糸
32.購入したムガ糸
41.ディパリの紡いだ糸
39.竹筬と糸綜絖(そうこう)でエリ蚕を織る
34.フリンジを結ぶ少女
37.州立博物館 (Webより)
25.レヘマンの生徒たち

■レヘマンという男

 今回いちばん世話になったのが、レヘマン氏だ。
 結局、五日間にわたってつきあってもらうことになる。
 アジズール・レヘマン。私たちは略してアジズと呼んでいた。
 現在42歳。アッサム州蚕糸局の指導員をしている。
 ムガ蚕やエリ蚕の養蚕から、製糸、流通に至るまでの専門家だ。
 昨年、ソム樹とムガ蚕の関係について博士論文を書いたという。
 グワハティ市内の蚕糸訓練所内に居住し、通常は州内農民たちの技術指導にあたっている。
 生徒の数はのべ千人以上にも上るという。
 訓練コースない時はけっこうヒマなので、我々のような遠来の客の案内役を務めるらしい。
 イスラム教徒のアッサム人。数学教師の妻との間に子供がひとり。
 気さくな人柄で、我々としても大いに助かる。

 写真24で彼が抱えているのは、自作の標本「ムガ蚕のライフサイクル」。
 これは今回たまたま生徒の家を訪ねた時、居間に飾ってあったものだ。
 その生徒の娘が大学で生物学を学び始めたので、彼が作って贈ったのだという。
 他に「家蚕のライフサイクル」標本もあった。面倒見の良い男なのだ。

 その生徒というのが、写真25の左側人物。
 訓練所で指導を受け、今、エリ蚕の糸を紡ぎ、布を織っている。
 右側の婦人も同様だ。

 ところで、この二人の着衣がちょっと違うことに注目。
 左側がサリー。右側がメケラ・チャダル。
 右のメケラ・チャダルというのが、アッサム人の伝統的な衣裳だ。(黒いカーディガンは別)
 サリーは一枚の布で上下を覆うワンピースだが、メケラ・チャダルは上下ツーピース。(現在はともに内側にブラウスを着る)
 そして、右側婦人の下はムガシルクだ。
 ムガシルクはインドでもいちばん高価なシルクだから、アッサムの人々も滅多やたらには着ない。
 きっと我々の来訪が告げられていたのだろう。レヘマンの生徒たちも、とびきりの盛装で迎えてくれたのである。

■紡ぎと織りの里へ

 三日目の2月15日。
 私たちはまた車を仕立てて、レヘマンとともに、今度はグワハティの西方数十Kmのビジョイナガール地区にでかける。
 このあたりにはレヘマンの生徒がたくさん住んでいる。上記の婦人たちもそのうちの二人だ。
 二人の住んでいる横町は、幹線道路から百メートルほど入ったところ。
 おそらく昔は農村だったのだろう。屋敷の構えは、昨日訪ねた村々とよく似ている。今は町中の静かな住宅地という感じだ。
 もはや周囲に農地はないから、養蚕は行われていない。
 各家庭には機が置いてあり、エリ蚕の糸紡ぎから織りまで行われている。
 産地から繭を購入し、糸を紡ぐのだ。

 このあたりではエリ蚕糸が手で紡がれていた。
 その紡ぎ方を生徒のひとりが披露してくれた。
 紡錘を使って紡ぐのだ。
 エリ蚕の真綿から繊維を引き出し、紡錘をクルクル回しながら撚りをかけ、糸が長くなったら紡錘の棒に巻き付ける。
 おそらく数千年変わらない昔ながらの紡ぎ方だ。

 そうしてできた糸を機にかける。
 この横町ではエリ蚕100%の布が幾つかの家で織られていた。
 写真27もそのひとつ。中庭に面した一角、屋根の下に機がしつらえられ、主婦とおぼしき人が織っていた。
 織ったものを見せてもらったが、そのサイズから言って、男物のショールだろうか。インドの男たちが、冬、よく上からすっぽり羽織っているものだ。
 染めも模様もなく、オフホワイトの白一色。
 真木千秋も昔からこの布が好きで、首都デリーにあるアッサム州物産館でよく買い求めていたものだ。
 今回は織り手から直接買うことができた。
 ところで、レヘマンによると、エリ蚕の衣は、「冬暖かく、夏涼しい」という特質があるのだという。そのへんは今後確かめたいところだ。

 この隣町に、レヘマン推薦の紡ぎ手がいた。
 何百人かいるエリ蚕紡ぎの生徒の中でも随一だという。
 そのお宅へ連れて行ってもらった。
 ディパリという名の、五十前後の主婦だ。
 さっそく、彼女が紡いだ糸を見せてもらう。
 なかなか良い手で、真木千秋も気に入る。

 これからは、この人に、Makiで使うエリ蚕糸を紡いでもらうことにしよう。
 今まで、Maki専任の織師はあまたいたけれども、専任の紡ぎ手というのはいなかった。
 言うなれば、お抱えスピナーだ。(紡ぐことを英語でスピンと言う)

 とはいえ、首都デリーから遥かに離れた片田舎の、ヒンディー語すら解さない素朴な主婦だ。納品とか、支払いとか、いったい大丈夫だろうか??
 その辺はもうレヘマンに任せるほかない。
 収入源の乏しい僻地で、たとえ些少であろうとも月々現金が入るということは、特にインドの家庭婦人にとっては経済的自立を図る意味で重要なことだ。
 指導員という立場のレヘマンにとっても、自分の生徒たちが習得した技能で生活を改善していくというのは嬉しいはず。

 ただ、彼女の紡いでいる糸は、Makiにとってはチト均一で、細過ぎる。
 そこで、タテ糸にも掛けられるよう、もっと強撚で、もっと太く、もっと不均一に、という注文を出し、実際に紡いでもらう。
 慣れない注文に最初はどまどっていたディパリも、そのうちなんとか紡げるようになる。
 「子供たちの試験が終わったら、もっとしっかり仕事します」とのこと。
 二男一女、三人の子供持ち。その真ん中がポピー(写真29右側)だ。
 レヘマンがポピーを脇に呼び寄せ、「キミも紡ぎを習って、日本へ行くんだよ」と 無責任なことを言っている。隣家の友達は著名な西洋絵画から名前をもらっている。可愛らしい子たちで、アッサムの歌を歌ってくれた。
 こんな子たちが紡ぎをやるんだろうか?と聞くと、レヘマンは「やるよ」と言う。レヘマンの生徒は、12歳から76歳までいるそうだ。

 さて、当スタジオ初の「お抱えスピナー」、うまく運ぶだろうか!? 

■ムガ蚕糸

 「お抱えスピナー」ディパリはエリ蚕紡ぎのスペシャリスト。ムガ蚕の糸繰りはやっていなかった。
 ムガ蚕はどのように糸になるのか。
 隣町にムガ蚕の糸繭商があったので、連れて行ってもらう。
 糸繭商というのは、農家から繭を買い取り、それこから糸を作る業者だ。

 ここで用語解説。
 「繰る」というのは、丸のままの繭から長い生糸を引くこと。
 「紡ぐ」というのは、穴開きなどクズ繭や真綿から繊維をズリ出し撚りをかけて糸にすること。
 ムガ蚕は繰ると紡ぐ両方ある。エリ蚕は紡ぐのみ。

 糸繭商を訪ねると、そこにはムガの繭がいっぱい。(写真30)
 そして数人の婦人たちが働いていた。
 この糸繭商では、手と機械の両方でムガ蚕糸が引かれていた。
 私たちの関心は専ら手引きに向かう。
 手順は基本的に家蚕と同じだ。まず煮繭(しゃけん)し、外側のキビソを除去し、糸口を探して、糸を引く。
 ムガ蚕の繊維長は400〜450m、太さは4.5デニールというから、家蚕に比べると太くて短い。8〜10粒で糸にする。

 木製の簡単な道具で糸を引いていた。
 真木千秋も挑戦してみる。
 繭から繰り出した繊維を前腕で受け、それを腕の上で滑らせて軽く撚りをかけながら巻き取っていく。
 これが伝統的なムガの糸引きだ。
 機械引きが普及してきたのはこの4〜5年のことだという。

 この糸繭商や近所の糸商のもとに、手引きムガ糸の在庫がかなりあった。
 デリーではなかなか手に入らないものだ。
 ひとカセひとカセ、チェックしながら購入する真木千秋。
 これでデリー工房やganga工房でも、ムガ糸が惜しみなく使えるようになるだろう。

 もうひとつ、糸商のもとに、ムガ・ギッチャ糸があった。(写真右)
 出殻繭や繰糸クズから紡がれる糸だ。
 初日に副局長宅で見かけたが、黄味がかった褐色で、あまり食指は動かなかった。
 ところがこの糸商のもとにあったムガ・ギッチャは、淡褐色の、なかなか味のある糸だった。
 価格はタッサー蚕のギッチャ糸より少々高かったが、きっと何かに使えるだろう。

 移動の途中、町外れの小さな集落に立ち寄る。
 ここではムガ蚕糸を使って機織りをしているという。
 とある民家、土壁の一室に入ると、機にムガ蚕のタテ糸がかかっている。
 この機の主はたまたま不在で、実際の仕事ぶりは見られなかった。
 下に紋紙が置いてあるので、おそらくムガのタテ糸の上に、異素材の色糸を使って様々な紋様を織り出すのだろう。
 実はこの機の主は、レヘマン氏の生徒のひとり、ニゾラという名の婦人だ。
 ムガ織りでは一番ウデが良いという。

 家の外では、その娘とおぼしき愛くるしい少女が、一心にショールのフリンジを結んでいる。
 おそらくは母親の織った布だろう。
 この地の女たちは、ごく幼い時期からこうして自然に織物に親しむのだ。  

■王者の衣

 レヘマン氏自宅の隣に、伝統的な草木染めをしている人々が住んでいるというので、連れて行ってもらった。アッサム四日目のこと。
 蚕糸訓練所の敷地内、まさにレヘマンの隣家だった。奥さんがレヘマンの同僚で、夫君のN氏が中心となって染織業を営んでいる。
 会ってみると、まさに私たちと同じ顔、モンゴロイド系の一家だ。聞けばミシン族の出身だという。(写真35)
 ミシン族というのは、州内の少数民族の中では先述のボド族の次に大きなグループで、州の東部、ブラマプトラ川の上流域に居住している。
 N氏は自宅のほか市内にもうひとつの工房を構え、州内に産する様々な絹糸や天然染料を使って、サリーやショールなどを織っている。「インドにもこんな仕事をしている人がいるんだ」と真木千秋もちょっとびっくり。本国より海外で知られているらしく、春にはパリ、秋には韓国に招聘されているという。琉球藍や生ウコンによる染色など参考になることもありそうだ。
 その日はたまたまミシン族の祭日だということで、「ライスビール」や糯米(もちごめ)などを振る舞われた。ライスビールとはどぶろくのことかと思っていたが、おそらくは蒸留酒なのだろう。褐色透明、やや煙臭く、度数も高め。糯米はタイ国でもよくお目にかかる長粒種の糯で、ちまきのように笹でくるんであった。(写真36)。自分たちとタイ族とは縁続きだとN氏は言う。
 真木千秋は応援の意味も込めてN氏の工房作品を何点か購入する。そして、ラケッシュと二人でアッサムを後にし、デリーへと向かうのであった。

 後に残った私ぱるばは、もう少し探索を進めるべく、翌日、グワハティ市内にあるアッサム州立博物館へ赴く。
 古色蒼然とした館内の一画に、民族誌の大きな展示室がある。アッサム州には数多くの少数民族が居住しているが、先述のボド族やミシン族のほか、幾つかの民族の伝統や生活が、展示物や写真によって紹介されている。
 各少数民族に共通して言えるのは、機織りが大きな位置を占めているということだ。展示品もその多くが布や衣類など手機の染織品だ。また例えばレルン族など、木綿の機織りに長けている民族もある。これらもゆくゆく調べてみたいものだ。

 しかし、この博物館内で一番おもしろかったのは、やはり織物の展示室だろう。近代的な展示コーナーの一画にあるこの展示室には、アッサムの歴史的な織物がいろいろ並んでいる。

 たとえば、King Khap(キングカップ)。これは数百年前の王衣だ。たっぷりとした厚手の白いコート風上衣で、表面に薄クリーム色の糸がたくさん飛んでいる。撮影禁止だったのでお見せできないのが残念だが、レヘマンによると、その糸はメジャンコリ・ムガなのだという。
 メジャンコリというのは樹木の名前で、メジャンコリ・ムガとはその木を食樹とするムガ蚕の糸だ。一般のムガ糸より淡色の、いはば淡金色とも言うべきこのムガ絹糸は、その稀少性により、古来より珍重されてきた。たとえば、アッサム王が戦場でこのムガ絹糸の衣を纏えば戦いに勝つと言い習わされてきた。
 現在でもこの淡金色メジャンコリ・ムガは、アッサム中部でわずかながら産するらしい。
 ただ、真木千秋はこの話にあまり興味を示さなかったから、MakiによるKing Khapの登場はまだ先のことになるであろう。

■ミュージアム・ピース

 そして、なにより一番驚いたのが、19〜20世紀のムガ絹ショールだった。
 時代的にいうとかなり現代に近い織物で、ムガ生糸の平織に刺繍が施されているのだが、そのムガ布の輝きが尋常ではないのだ。
 刺繍は措くとして、問題はムガ平織の部分だ。その糸がいかにも力強く、金色の輝きも鮮やかだ。今まで二十年近くムガ平織の布を見てきたし、身近に着用もしてきたが、こんなパワフルな布は初めてだ。
 これはぜひレヘマンに見てもらおうと、同日夕方に電話をかけ、無理を言って翌日十二時に博物館前で落ち合うことにした。写真も撮りたいと言ったら、許可には丸一日かかるというので諦める。

 翌日、秘かに写真を撮ろうと早めに博物館へ出かけたところ…。
 あろうことか「本日休館」ではないかっ!!
 ネットで見ればちゃんと開館日なのだ。前日もそんなこと書いてなかったし。
 これがインドである。何があるかわからない。(やっぱワルい事は考えないほうがいい)
 仕方がないからレヘマンに連絡を取って、宿で会うことにする。

 氏にそのムガ布の話をすると、それはきっと南部州境の糸だろうと言う。
 アッサムの南にメガラヤという州があり、開発度はアッサムより更に低い(ということは更にエキゾチック)。メガラヤとの州境は山がちで、そこに産するムガ蚕の糸が、力強い金色を示すのだそうだ。特に秋10月の繭が良い。値段も少々高いそうだ。
 その州境地方にはレヘマンも行ったことはあるが、バイクが壊れるほど険しい山道だったという。
 そんな山がちの僻地だが、生徒のひとりにビレンという繭商がいて、そのあたりの繭を集めてくるという。
 その繭からマモニに糸を引いてもらい、ニゾラに織ってもらったら、おそらくあのミュージアム・ピースが再現されるのではあるまいか。
 マモニとはやはり近在に住むレヘマン期待の若手で、ムガ糸引きを得意とする。(Makiお抱えスピナーのディパリはエリ蚕紡ぎ専門)。
 ニゾラは前々項にも書いたが、ムガ布織りのエキスパートだ。(「フリンジを結ぶ少女」の母親)

 余談だが、ミュージアム・ピースというと、Makiのお客さんにはワリと馴染みの名称だろう。
 そのモトは今を去る二十年ほど前、私と真木千秋がインドの絹都バンガロールの蚕糸研究所・付属博物館を訪れた際、千秋の目に止まった生糸の織物だ。それを特別にサンプルとしてわけてもらい、バンガロールの機屋に織ってもらって、服地としてずっと使ってきた。博物館も役に立つものだ。

 空港へ向かう途中、蚕糸訓練所内のレヘマン氏自宅に寄る。
 「どう、この布?」と言って、氏は奥から一反のムガ絹布を持ってくる。
 それなりの出来だが、わざわざ買うほどでもないかも。
 「どうしたの、これ?」と聞くと、訓練所の元所長が引退後、自ら織子となって自宅で織っているのだという。なかなかユニークな人々だ。

■機場へ戻って

 こうして初めてのアッサム訪問は幕を閉じる。
 お土産に、数十キロの糸や布を持ち帰る。
 これらは既に、デリーやデラドンの工房で実際に活かされている。
 こちらに見るごとく、新しい布も次々に現れている。

 ただ、問題はこれからだ。
 糸や布を持ち帰るのは易しいが、肝腎なのは、それがどれほど継続的に現地から供給されるかだ。
 我々が現地に赴いて「糸が欲しい」と言うと、相手はみんな「OK、OK、No problem」と答える。
 しかしインド人の「ノープロブレム」は時間のスケールが違う。いずれそのうちプロブレムが消え去るということだ。プロブレムか、我々か、はたまた彼らか、みんなそのうち消え去るのだ。
 実際、一月中旬に南インドの現地で注文した茶綿は、すぐ送付されるはずのサンプル糸でさえ未だ届いていない。(先方に電話すると、「二週間前に送ったのだが戻ってきてしまった」とか言う…)。ま、いずれ到着するか、さもなければもろともに無に帰するのみである。

 ともあれ、糸づくりというのは最も基本的な部分で、それが行われている場所は、しばしば開発度の低い地域だ。それゆえコミュニケーションや物品の流通、金銭の授受などに困難がある。同じインド内といえども、たとえばお抱えスピナー・ディパリの家族には、英語はおろかヒンディー語を解する人すらいないのである。(州内の共通語はラケッシュも知らないアッサム語)
 ただ、アッサムでは、レヘマンが仲介を引き受けてくれるので助かる。
 たとえば、ディパリの場合、糸を紡ぐには、まず繭を購入しないといけない。しかし彼女の家にはそんな余裕がないかもしれない。そこで我々はレヘマンになにがしかの金を託す。レヘマンはその金を使ってさっそくディパリに繭を買い与え、彼女は既に何kgかの糸を紡いでいるという。
 また上役の州養蚕局副局長ディヒンギヤ氏(本稿冒頭に登場)に頼んで、レンガ色エリ蚕繭も相当量確保してもらった模様。レンガ色エリ蚕の主産地は州西部コクラジャール地区だが、副局長は同地区の責任者でもある。

 というわけで、アッサムに関しては、うまくつきあって行けるのではないかと思える。
 そして、真木千秋にしても、ラケッシュにしても、そして私にしても、この州のことがいたく気に入ってしまったので、また遠からず再訪することになると思う。
 みなさんもよろしく応援のほどを!!    〈完〉






 

27.エリ蚕を織る

26.エリ蚕の手紡ぎ
31.糸引きに挑戦
38.引いたばかりのムガ糸
30.糸繭商のムガ繭と働き手

28.ディパリ

40.エリ蚕の真綿
36.ミシン族のちまき

20.ムガ蚕の幼虫

10.生きているエリ蚕のサナギ

23.養蚕の道具

24.自作の標本を持つレヘマン



3.悠々と流れるブラマプトラ川
15.エリ蚕糸のいろいろ

 


6.ブータンの人々

5.淡褐色エリ蚕糸で織られたストール。
真ん中の人物が副局長。

2.飛行機の窓から
(たぶんエヴェレスト!?)

 

8.ボド族の家の一画
22.村の子供たち