タッサーシルクの故郷を訪ねる
■ライガールへ

 Makiの布づくりに欠くことのできないタッサーシルク。野性的な褐色の絹だ。
 日本の天蚕や中国の柞蚕(さくさん)と同じく野蚕の一種。桑を食べる家蚕(かさん)とは違い、沙羅やアルジュナといった木の葉を食べる。
 タッサーシルクはインド亜大陸に広く分布するが、当スタジオで使われる糸は専ら、インド中部、チャッティスガール州で作られている。

 2007年12月末、縁あってそのチャッティスガール州を訪ねる。
 工房のある首都デリーから飛行機に乗って一時間、チャッティスガールの州都ライプールに降り立つ。距離にして約800km。年末と言えばインドでも一番気温の下がる季節であるが、午後一時の外気温は摂氏29℃とのアナウンス。寒波の襲来する日本から、一挙に夏の陽気だ。
 空港にはムケシュとシニの若夫婦が花束を持って出迎えに来ている。ムケシュは糸繭商チュニラルの息子だ。聞けばわざわざ泊まりがけで私たちの出迎えに来たのだという。これから共に汽車に乗り、250km北東にあるライガールへと向かう。4時間少々の旅だ。
 糸繭商とは、繭から糸を作る元締めだ。産地からタッサーの繭を購入し、自分の工場や、農家に委託して様々な絹糸を作っている。

 じつはこのライガールには、15年ほど前に一度来たことがある。駅に着いても駅前にほとんど車の姿がなく、自転車リキシャ(輪タク)に乗って糸繭商チュニラルの家に行ったものだ。まるで平安時代にタイムスリップしたかのような、のんびりした風情であった。
 今回も駅前は輪タクであふれていたが、さすが15年を経て車の数も増えている。迎えのインド製四駆車に乗り込み、宿へと向かうのであった。宿はライガール初という真新しい三つ星ホテル。これがなかなかモダンかつ快適で、ここにも時の流れを感じさせる。
州都ライプールの駅で。
線路に牛が!?

チュニラル一家

 
糸繭商チュニラルの会社は「コーサシルク商会」という名前だ。主人チュニラルのことは拙著タッサーシルクのぼんぼんパンツに詳しい。二十年ほど前にデリーのニルー工房にタッサー糸を売り込みに現れ、それ以来ずっとニルー工房に糸を供給し続けている。ニルー工房のタッサー糸はすべてチュニラルの許から来ている。ニルー工房といえばMakiのパートナー。だからMakiで使われるタッサー糸もすべて「コーサシルク商会」から来ていることになる。Makiにとって重要な存在なのだ。
 それで15年前に一度、ニルーたちともどもデリーから訪ねたわけだ。現在チュニラルは半ば引退し、28歳になる息子のムケッシュが主になって仕事をしている。

 このムケッシュ、新婚であった。新妻のシニは、聞けば南インドのケララ州出身だという。これは珍しい。国際結婚のようなものだ。インドは北と南では民族も言語も異なる。なんでもここライガールの病院で看護の仕事をしていたところ、ムケッシュの母親が入院してきて、その縁で一緒になったらしい。ヒンディー語地帯であるここライガールでは、母語のケララ語(マラヤラム語)を話す機会もないという。
 2月に出産を控えた身重な体だが、ムケッシュともども州都ライプールまで出迎えに来るなど、ずっと私たちの世話をしてくれた。英語が堪能だったからだ。ムケッシュはあまり英語ができない。今回は日本人だけで訪問したので、これは助かった。明るくてしっかり者。翌朝は私たちを新居に招き、朝食に南インド料理のマサラドーサをふるまってくれた。
 そういえばチュニラルの奥さんも美人のしっかり者だった。今回は残念ながら所用で会うことができなかったが、ともあれチュニラルの一家は嫁さんに恵まれていると思った。
新居の前で、ムケッシュ(左)とシニ(右)。
コーサシルク商会の入口でチュニラルと。
タッサー糸のいろいろ

 糸繭商コーサシルク商会は様々なタッサーシルク糸を作っている。
 タッサー生糸、ギッチャ糸、ナーシ糸、カティア糸…。
 自家の作業場に主婦たち数人を集めて糸を作ったり、近隣の農家に繭を供給して糸を作ってもらったり ― 。その形態は上州群馬の糸繭商と良く似ている。

 Makiが一番多く使うのがギッチャ糸。
 これは出殻繭(蛾の羽化した繭)や生糸の採れないクズ繭などから、繊維をズズッと引きだして甘く撚(よ)りをかけた手紡ぎ糸だ。
 15年前に訪れた時は、こちらにある通り、少女たちが太モモを使って撚りをかけるとともに、壺の底を使う手法も導入されつつあった。
 現在、コーサシルク商会の作業場では壺の底が使われていたが、農家では依然モモが使われたりするという。というのも、モモを使った方が細い糸が紡げ、細い糸のほうが高く売れるからだ。長年の慣れということもあろう。
 息子のムケシュによると、壺の方が撚りがかけやすいという長所もあり、壺もモモも糸の出来栄えはほとんど変わらないということだった。

 ギッチャ糸は繭から直接引いて作るが、そのうち糸が引けなくなり、繭のクズが残る。そこからも糸が紡がれる。クズを集め、砧(きぬた)を打って、真綿状にし、それをギッチャ糸と同じ要領で壺底を使い紡ぐのだ。それがカティア糸。
 言うなればクズ繭のクズから紡いだ糸だ。このような糸でも、Makiにとっては大事な素材なのである。

 そしてMakiで最も愛されているのがナーシ糸。これもクズ系だ。
 タッサー繭の柄の部分だけを集めて紡ぐ。ちょっと計算してみたところ、1kgのナーシ糸を作るためには約3万個の柄が必要ということになる。
 とにかく多量の柄を集め、ソーダを添加して6時間ほど煮沸する。それから砧を打ち、乾かして真綿状にする。それを梳綿機にかけて繊維を引き揃え、それからギッチャ糸を作るように壺の裏で紡ぐのだ。
 じつはナーシ糸にも種類がある。まずは純ナーシと白ナーシ。繭から柄を引きちぎる際、繭本体の一部が柄に付着してくる。その状態のままで煮沸し糸を紡ぐと、繭本体の繊維も一緒に紡ぎ込まれ、白色の毛羽立ちを伴った柔らかな手触りのナーシ糸になる。これが白ナーシ。一方、付着した繭本体を除去し、柄の部分のみで糸にすると純ナーシだ。
 また細ナーシと呼ばれる糸もある。真綿状のナーシ繊維をチャルカ(手紡機)で紡いだものだ。器械の助けを借りる分だけ、細くて均一な糸が紡げる。

 それからタッサー生糸。
 これは上質な繭から引かれる細いフィラメント糸だ。
 タッサーの繭は、幼虫の吐く一条
の絹繊維(フィラメント)からできている。ひとつの繭から採れる繊維の長さは、ダバ種で800メートルほど、レイリー種では1700メートルにも及ぶという。その繊維を引き揃えたものが、タッサー生糸だ。
 タッサー生糸は器械を使って繰られるが、ここライガール周辺では伝統的に手引きも行われている。
コーサシルク商会の作業場。壺の底を使ってギッチャ糸を作る。
白ナーシ(左)と純ナーシ(右)。
下に見えるのが柄の部分。矢印より左が繭本体の一部。この部分を除去して糸にすると純ナーシになる。
■村を訪ねる

 
現在、コーサシルク商会は近隣の村々の農家42軒に糸づくりを委託している。
 そうした村のひとつに案内してもらう。
 ライガールの街から車で十分ほどのところだった。
 小さな露地を挟んで、背の低い農家が軒を連ねている。未舗装の露地はきれいに掃き清められ、歩いていて気持ちいい。
 露地に面した垣根の入口をくぐると、小さな庭があり、そこで農家の暮らしが営まれている。
 庭に面した母屋の戸口の、外光の差し込むところに、農婦が座って糸を紡いでいる。ギッチャ糸だ。サリーをたくしあげて右のモモを顕し、糸に撚りをかける。周りでは子供たちが遊んでいる。軒先には紡ぎ上げた糸カセが干してある(右上写真)。
 15年前に訪ねた時には、軒下に少女たちが並び、モモを使って糸を紡いでいた。現今のインドではもはやそんな姿は見られまいと思っていたが、まだ農村ではこうしてモモで糸を紡いでいるのである。ただ、もはや少女たちの姿は見られない。きっと学業に忙しいのだろう。今こうして紡いでいる農婦たちは、おそらく15年前に目にした少女たちなのかもしれない。

 別の農家を訪ねると、家の中で農婦がタッサーの生糸を引いている。
 日本では絹糸引きには糸車を使うが、ここでは使う道具は板状の糸巻きだけだ。
 煮た繭を六つほど皿の上に置き、右手に糸巻きを持ち、モモと左手とで糸に撚りをかけながら、木製の糸巻きを目にも止まらぬ速さで回転させて、糸を引いていく。その手技はじつに見事である。
 タッサーシルクは家蚕に比べて繊維が太いので、六本の繊維を引き揃えただけで十分な強度を具えた生糸になる。
 近年、皮膚の健康上の懸念から、糸づくりにモモを使うのは禁止されているようだ。しかし、こうした鮮やかな手並みを見ると、ベテランが壺に移行するのは難しいかもしれない。無機的な壺底よりも、自分の肌に触れている方が楽しいはずだし。
 糸を引いた残りの繭クズは、まとめてカルカッタの工場に送られ、タッサーノイル糸に生まれ変わるのだという。
ライガール郊外の農家。戸口で農婦がギッチャ糸を紡いでいる。
糸巻きに巻き取られたタッサー生糸。そのアメ色が美しい。背景は繰糸クズ。
■タッサー・ラグ

 
このコーサシルク商会は糸を作るのみならず、その糸を使って布も織っている。
 その中で、ひとつ新しい試みをしていた。Makiのお客さんにはお馴染みの「レイリー・ラグ」の製作だ。
 これは15年前、私が同州南部バスタル地方のジャグダルプールを訪ねた際に見つけた敷物で、レイリー種のタッサーシルクを使っている。それで便宜的に「レイリー・ラグ」と呼んでいる。レイリー特有の濃色の茶色を生かした、ワイルドなシルクラグだ。ここ十年以上継続的にジャグダルプールの工房に発注をかけていたのだが、近年、製作を中止したらしく、インドから送られてこなくなった。
 それでここライガールで試作を始めたというわけである。

 ここでひとつ訂正がある。今までMakiではこのレイリー・ラグについて「繰糸クズから作っている」と説明していたが、それは間違いであることが今回判明。クズではなくて、繭そのものから作っているのだ。
 繭をハサミで幾つかの断片に切り、それを煮沸し、そして砧を打ってフェルト状にする。そのフェルト状の繊維塊から野太いヒモを作り、それを使って織り上げるのだ。
 タッサーのヒモを巻き付けるも杼(ひ)も特大で、長さ70cmはあるだろう。タテ糸にはタコ糸のような四本取りの綿糸を使用。普通の筬(おさ)では打ち込めないので、細い棒でギュッと押し込む。それから筬でたたいて整形する。
 うまく織れれば、近々またMakiのラインに「レイリー・ラグ」が加わるであろう。

 ただ、名前を変えないといけないかもしれない。
 ここライガールではダバ種の流通量の方が多いので、自然、ダバ種の繭を使うことにもなるだろう。そこで、「タッサー・ラグ」とでも呼んだほうがいいかと思う。
 従来通りレイリー種を使ったラグも作るよう依頼する。
「タッサー・ラグ」に使うタッサーのヒモと、それを巻き付けた杼(ひ)。
太い綿糸のタテ糸にタッサーのヒモを棒で押し込む。
■ダバとレイリー

 
さきほどから何度か触れている、ダバ種とレイリー種。これはタッサーシルクの品種である。タッサー、詳しく言うと熱帯タッサーには、インド全土で現在46品種が知られている。
 タッサー流通量の70%を占めるのがダバ種、20%がレイリー種、その他が10%という割合だ。

 ダバ種が圧倒的な収量を占めるのは、繭の大きさもあるが、なにより半養蚕化されているからだ。
 ライガールの東方三百kmほどのジャールカンド州チャイバサ周辺がダバ種の原産地で、かなり前から半養蚕化されている。
 半養蚕化というのは、家蚕ほどではないが、ある程度まで人間によって管理されているということだ。
 ダバ種の場合、産卵から孵化まで人工の小屋の中で行われ、小さな幼虫を圃場の立木に放つ。立木はアルジュナやサジャ(アサン)という樹種だ。

 レイリー種はダバ種より更に大型のしっかりした繭で、茶色も濃い。
 昔からMakiの好んだ品種だ。
 このレイリーはチャッティスガール州南部のバスタル地方特産だ。バスタル地方といえばインド亜大陸の先住民が多数住んでいることで知られる、インドでも指折りの「未開地」である。
 レイリーはそのバスタルの森に棲み、その繭を先住民たちが採取し、そして糸になる。ワイルドな絹なのである。
 バスタルの中心都市はジャグダルプール。15年前に訪れた時には、そのレイリー種の半養蚕化が試みられていた。あれはいったいどうなったのだろう。そこでライガールを後にしてバスタルへ向かうことにする。
ダバ種の幼虫。背後は食樹のアルジュナ。
ダバ種の生糸(上)と、レイリー種の生糸(下)。色の違いがわかる。
■ジャグダルプールへ

 
コーサシルク商会のあるライガールからバスタルの中心地ジャグダルプールまでは、約550kmの道程。
 早朝6時ライガール駅に車で乗りつけると、ムケッシュとシニの夫婦が見送りに来ている。ライガール始発6時15分発の列車は既にプラットホームに入っている。いちばん上等のエアコン付き車両に乗り込み、まずは州都ライプールまで四時間少々の汽車の旅だ。ところが、出発時間を過ぎても汽車はいっこうに動かない。結局、出発したのは、それから一時間ほど後のことだった。その間、一度もアナウンスはない。動き出す時もベルすら鳴らない。黙って出発する。汽車は満席だったが、別に誰も文句は言わない。このあたり、いかにもインドだ。
 昼前にライプール駅に到着すると、手配していたタクシーが待っていた。運転手はアフメドというおじさんだった。インドでは運転手クラスの人々はあまり英語を喋らない。こちらもヒンディー語がわからないから、片言英語でコミュニケーションしながらの旅となる。車はインド製のディーゼル四駆。インドではやや大きめの車だが、運転手を含めて5人+荷物でほぼ満杯である。
 ライプールからは国道を約350km、ひたすら南下する。最近インドでは高速道路網がかなり整備されてきたが、まだここまでは到達していない。ただ、市街地を抜けると交通量も少なめで、かなり快適なドライブだ。
 二時間ほど走ってバスタル州に入ると、標高も上がり、周囲には田畑に混じって、未開の原野や山林が見えるようになる。
 とある街の手前のかなり大きなドライブインで昼食だ。外国人と見ると、店奥の一室に通される。冷房の効いた特別室だ。一般席でも構わなかったのだが、面倒だから案内されるままに特別室にテーブルを占め、本場インド料理を楽しむ。インドではドライブインでも本場インド料理だ。というか、路傍の小さな店ほど美味かったりする。
 整備されてはいたが一般道での350kmはやっぱり遠い。ジャグダルプール市外の宿、××リゾートに到着したのは、夕刻の6時前。朝ライプールの宿を出てから12時間の長旅だった。車を降りると、さすが疲れと暑さでボーッとする。
 ムケッシュを通じて予約を入れておいた宿だ。「リゾート」と言ってもインド人向けの簡素なものだったが、広々とした敷地に芝生などもあり、「秘境の宿」としては申し分ない。フロントでチェックインの手続きを始めると…。
 「すみません、満室です」と断られる。これは寝耳に水だ。二部屋頼んでおいたのだが、なんでも代理店が予約金を入れなかったため予約が無効になったとのこと。これもインドだ。受付嬢が市内のホテル全部に電話を入れてくれたが、どこも満室。今夜は野宿かなと覚悟を決めたら、支配人が気を利かせて、ホールにマットレスを敷いて寝ても良いとのこと。料金はひとりあたり500ルピー。その後、キャンセルが出て部屋も一室都合でき、めでたくみんな屋根の下に眠ることになる。インドでは何事も諦めるべからず。
ジャグダルプール郊外にて。
大きなカゴを自転車にくくりつけたカゴ屋。
ジャグダルプール郊外にて。
牛追いの農婦。おそらく先住民系。サリーの下にブラウスを着ていない。
■レイリー研究所

 
インド国内に46品種ほど知られているタッサーシルクだが、そのうち重要な品種を専門に研究する機関が国内に幾つかある。そのうちのひとつがここジャグダルプールのレイリー研究所だ。インド繊維省に所属する国立の機関で、レイリー種を専門に研究している。

 ジャグダルプールに着いた翌日、アポもなしにその研究所に飛び込む。年末の土曜日であったが、たまたま出勤していた主任研究員のヤダブ博士が親切に対応してくれる。対応というよりも、一時間ほど面と向かって講義を受けたという感じ。専門用語満載の英語レクチャー拝聴はかなりの難行だったが、他ではなかなか得られないタッサーシルク、特にレイリー種についての情報はまことに貴重であった。
 この研究所が主眼としているのは、レイリー種の生態や維持増殖法の研究だ。

 私が15年前に同地を訪れた際、同研究所はレイリー種の半養蚕化の研究に携わっていた。半養蚕化というのは、交尾から孵化まで人間が管理し、孵化した幼虫を立木に放って飼育する養蚕法だ。タッサーシルク46品種のうち、ダバ種とスキンダ種のみが半養蚕化に成功している。
 15年たって、さてその研究成果はいかに? ヤダブ博士によると、レイリーの半養蚕化は可能だが、実用レベルの収量は望めないようだ。
 その代わりに今、研究されているのは、レイリー種とダバ種の交配だという。F1、F2、F3とだいぶ研究が進んでいるようだ。そこまでやるかと思ったりもしたが、農民に仕事を与えるという意味で、欠かせない研究課題なのであろう。糸の色合いはどうなるのだろうか??

 「ところで」と博士はひとつかみの繭を取り出して「これをご覧なさい」と言う。ずっしり重たい

 立派な繭だ。「これはレイリーでしょう」と言うと、「いいえ、ダバです」との答え。
 普通ダバというともう少し小さくて柔らか、悪く言うと貧相な繭を作る。レイリーの繭は「象が踏んでもつぶれない」と言われるほど堅くて丸々している。
 博士の見せてくれた立派なダバは、「処女木」で育てたダバだそうだ。処女木というのは私の勝手な命名だが、すなわち、今まで一度も養蚕に使っていない木のこと。そうした木に放ったダバの幼虫は、レイリーに見まごう繭を結ぶのだ。野生状態のダバもきっとこういう繭を作るのであろう。同じ木に何度も幼虫を放つ半養蚕では、だんだん木の栄養素が片寄り、繭も貧相になる。
 通常、ダバの繊維長は800m前後と言われるが、自然状態のダバの繊維長は1400mにも及ぶそうだ。レイリー繭が立派なのも自然状態だからであろう。自然状態では毎年同じ木に虫がつくということはあるまい。またレイリーはダバより繊維が太くて丈夫なので、その生糸はタテ糸に向くと言われるが、その太さもまた自然状態に由来するのかもしれない。

レイリー×ダバの交配種
処女木ダバとヤダブ博士
処女木ダバ(左)と半養蚕ダバ(右)
■レイリーの首飾り

 
というわけで、レイリー種はまだ半養蚕化されていなかった。
 今まで通り、天然物を先住民が森の中から採取してくるのだ。
 15年前訪ねた時には、ある研究員がレイリー種の前途を心配していた。政府がレイリー繭の買い取り価格を一挙に倍にしたので、繭が乱獲されるようになったというのだ。
 そのあたりをヤダブ博士に尋ねると、今も状況は同じだという。レイリー繭ひとつが3ルピーほどで売れるらしいから、これは森に住む先住民たちにとっては魅力的な現金収入の途だ。だから私たちのようなヨソ者が森に入って実際にレイリー繭を観察するなどということは、ほとんど不可能と言えよう。先住民たちがとうの昔に採取しているはずだからだ。
 それで、レイリー種の維持増殖を目的のひとつとするレイリー研究所も、様々な方策を採っている。たとえば、宣伝カーで先住民の村々を回り、教育啓蒙に努めるとか。

 「レイリーの首飾り」作戦もそのひとつだ。
 これはバスタル地方の森の中11ヶ所に年二回、繭の羽化場を設ける企てだ。1ヶ所につき数千個のレイリー繭を吊り下げ、成虫を羽化させる。成虫はその場で相手を見つけて交尾し、そしてメスの蛾はそこから飛び立って、しかるべきサラの木に卵を産みつける。
 もちろんこの作戦で使われる繭も先住民たちから買い取ったものだ。このようにしてレイリー種の維持が図られているわけである。
 またこの作戦の後、多量の出殻繭(羽化した後の穴あき繭)が残るが、もちろんそれも無駄にはしない。研究所と同じ建物内にある州政府のレイリー蚕糸試験場に集められ、そこでギッチャ糸に紡がれる。

 レイリー種の食樹(餌となる木)はサラが主で、約80%を占めると言われる。釈迦入滅の沙羅双樹だ。この点が、アルジュナやアサンを主な食樹とするダバ種との相違点でもある。標高の高いバスタル地方にはこのサラの森がいたるところにあり、その森でこのレイリーが育つ。高さ40mにも達する高木だそうだから、繭の採取もひと仕事であろう。
 繭を結ぶのは年に二回、二月頃と八月頃で、その時期になると各地の市(いち)に先住民たちが繭を持ち込むのだという。ただ深い森の中ゆえ全部が一斉に採取されるわけではなく、時期を外れても市にはぼちぼち持ち込まれるそうだ。ジャグダルプール近郊にもそんな市の立つ町が二つほどあったが、いずれも週に一度とのことで、今回は残念ながら時間の都合で見ることはできなかった。
森の中のレイリー羽化場
(ヤダブ博士提供)
羽化したレイリー成虫。黄色がメス、赤がオス。
(ヤダブ博士提供)
レイリー蚕糸試験場に集められた出殻繭の山。
■バスタルの森を抜けて

 
タッサーシルクの故郷を訪ねる今回の旅もひとまずこれでおしまい。次回また来ることがあったら、レイリー採取の最盛期に、市の立つ日を前もって調べてから来ることにしよう。
 ヤダブ博士からはタッサーシルクのほか、インドの別の野蚕、ムガシルクやエリシルクについての貴重な情報も頂く。いずれ現物を見てみたいと思う。

 さて、これから先は余談。
 翌朝の6時過ぎ、東の空に金星を仰ぎつつ、××リゾートホテルを出発する。街道の茶屋で甘いチャイを一杯飲み、インド製四駆はアフメドの運転で更に南へと道を取るのであった。目的地は隣州アーンドラプラデシュのビジェイワダ。私の簡単なインド地図で見積もると距離は約370km。所要時間は諸説紛々だが、十時間前後と推定。
 ジャグダルプールから南へと向かう道は、いちおう国道ではあるようだが、日本で言えば林道のようなものだ。通る車もあまりない。
 ジャグダルプールを出てしばらく走ると、うっそうとした森林地帯に入る。「トラに注意」の看板も。いつトラに出くわすか期待に胸が弾んだが、そう簡単には出てきてくれない。このあたりにはサラの木が多く、レイリーが多く棲息するという。
 途中ダルバという小さな町を通過。ここは毎週水曜に市が開かれ、先住民がレイリー繭を持ち込むのだという。この日は日曜。何かの間違いで市が開かれてはいないかと見回したが、残念ながら間違いはなかったようだ。

 バスタルも終わりに近づく頃、とある集落の椰子の木を指さし、アフメドが「バスタル・ビヤ」と言う。バスタルのビール、おそらく椰子酒であろう。
 「あ、そう、じゃ、停まって」と私。あまり酒には関心がないのだが、せっかく言ってくれたので停めてもらう。ついでに「飲んでみよう」と言うと、アフメドが近くの男と交渉を始める。するとある家から別の男が容器を抱えて出てきて、近くの椰子の木に登って行く。上の方に素焼きの壺がくくりつけてあって、そこに樹液がたまるのであろう。その樹液が発酵して椰子酒になるのだ。
 その椰子酒をなみなみとコップに注いで、私に差し出す。椰子酒なんて初めてだ。おそるおそる口をつけてみると、これがけっこうイケる。あまり発酵が進んでいないのか、アルコール度は1%くらいだろう。言ってみれば白ワインをココナツジュースで割ったようなものだ。これならいくらでも飲める。ちょうど喉も渇いていたので、おかわりまでしてしまった。
 聞くと、この集落の住民は先住民であるハルワ族だという。いちおう州の公用語はしゃべれるようで、アフメドとヒンディー語でやりとりしていた。
 近くにマーケットがあるから行ったらどうだと住民に言われる。もしかしたらレイリーが♪と思ってアフメドに諮るが、彼は首を縦に振らない。マオイストが出るからダメだというのだ。マオイスト(毛主義者)というのは極左武装集団で、この近辺によく出没するようだ。バスタルの森に棲んでいるのはレイリーやトラばかりではないらしい。

 ほろ酔い気分でバスタルを抜け、隣州のアーンドラプラデシュ州に入る。この州から地理的に南インドとなり、民族も言語も異なってくる。民族的に言うとドラヴィダ系であり、言語はテルグ語だ。(今までのチャッティスガール州は基本的にアーリア系のヒンディー語)。
 アーンドラプラデシュ州に入って初めての大きな町バドラチャラムで、さっそく飯屋に入り昼食にミールスを注文する。ミールスというのは南インドの定食。葉っぱの上に様々なお菜や飯を盛りつけ、手でくちゃくちゃと食べるのだ。基本的に菜食。南インドに来たらこれに限る。
 アフメドはここまで来るのは初めての様子で、しきりに車を停めてはビジェイワダへの道を尋ねる。返ってくる返事はすべてテルグ語。それでもなんとか理解している。このあたりを通る外国人はあまりいないようで、人々が珍しげに車の中を覗き込む。
 結局、ビジェイワダの宿に着いたのは夕刻の6時。12時間近い車の旅となった。距離も500kmを越えているようだ。幸い宿はきちんと取れていた。
 この街には実は1年前に来たことがある。Makiの夏衣でお馴染み、極薄木綿マンガルギリの産地なのだ。草木染めで有名なマチリパトナムもすぐ近所にある。
 翌日、マンガルギリの織元ハレクリシュナを訪ねたのでるが、マンガルギリについては1年前の記事を参照のこと。ただ、このハレクリシュナ氏、人物は悪くないんだが、イマイチ仕事にやる気が感じられない。昨年も注文した生地がいっこうに届かず、えらく難儀した。それで今夏のマンガルギリはどうなるか未知数なのである。

 というわけで、今回はこの辺で。
レイリーもトラも棲むバスタルの森
椰子酒を採取するハルワ族の男
ハルワ族の赤ちゃん。グドリ(刺し子)の布にくるまっている。
マンガルギリのタテ糸づくり
 ホームページへ戻る