MAKITEXTILEの日々好日 '98
千秋・カオリ・ぱるばの三人でインドへ行ってきました。とは言っても、日時も行き先もけっこうバラバラで、たとえば僕は真木カオリにはインドで会いませんでした。
最初に渡印したのは僕で、12月10日に出発。インド西部のプーナにあるOshoコミューンに直行しました。千秋とカオリは同20日出発で、行き先はニューデリーの機場(はたば)です。そして年が改まって1月17日、カオリは帰国の途につき、千秋はプーナに飛んで僕と合流。当地に二週間滞在の後、二人でニューデリーへ。そして2月の5日にそろって帰国しました。
というわけで、真木姉妹は4週間ほど織物づくりに励みました。私ぱるばはデリーには三日ほどしかいませんでした。というのも、織物に暗い僕は、デリーにいてもやることがあまりないのです。僕がいなくても仕事が進むというのは良いことです。それはつまり、大きな問題がなかったということなのです。
それでは千秋に話を聞きながら、工房の様子をご紹介しましょう。(写真左・糸選び)
今年は例年より少し早くデリー入りしました。というのも一月に入ると、織師たちがみんな祭のためにクニへ帰って、いなくなってしまうからです。イスラム教徒の彼らは太陰暦に従っているので、祭の期日も毎年少しずつずれていくのです。
機場へでかけてみると、いつものメンバーが元気に仕事をしていました。ただサリームだけはクニに帰っていて不在でした。ラマダン(断食月)に入っていたので、ワジッドやバブー、パシウジャマなど忠良なイスラム教徒たちは、ちょっとしんどそうでした。もちろんイスラムディンなどのいいかげんな連中はそんなことおかまいなしで、元気に飲み食いし、元気に仕事をしていました。(このへんの織師たちについてもっと知りたい人は、拙著『タッサーシルクのぼんぼんパンツ』を読んでね)。
今回、またサジャッドを使って、冒険をしました。
というのも、去年9月、南インドのバンガーロールに行ったおり、経糸(たていと)にかけるためデュピオン・シルク(玉糸)に撚(よ)りをかけてもらいました。玉糸というのは、玉繭からとれた節のある絹糸です。節があるので経糸にはなじまず、私たちはもっぱら緯糸(よこいと)として使ってきました。そこで今回バンガーロールの撚糸屋さんで撚りをかけてもらったというわけです。そして黄繭などと混ぜて経を作り、サジャッドに織ってもらうことにしたのです。(写真右・経糸づくり)
ところが、やっぱりデュピオンの経は難しい。織るのに普通の三倍はかかるのです。かわいそうなサジャッド。織師は出来高払いなのです。でも、やっぱり経にデュピオンが入っているとスペシャルです。今までにないような、いい風合いのストールができあがりました。
ただ、この経デュピオンのストールは、幻のストールとなりそうです。おそらく今後、誰も織りたがらないでしょう。今回、60本分の経をかけてきましたが、それでたぶん打ち止め。欲しい人は今のうちに予約しといたほうがいいみたい。
耳の聞こえない経糸職人パシウジャマ。今回もだいぶ彼のお世話になりました。もう彼なしでは仕事にならない真木姉妹です。なんと彼が、姉妹と織師たちとの間の通訳をしてくれるのです。姉妹はヒンディー語がわからないし、織師たちは英語がわからない。表現力豊かなパシウジャマは、その間にたってボディーランゲージで橋渡しをしてくれます。
カオリなんぞよく彼から織師たちのゴシップを仕入れていました――「アイツはあんなふうに見えて、じつはとんでもないヤツなんだ、女房が三人もいる」なんて具合に。おかげで姉妹は、織師たちのプライバシーについては、工房主のニルーよりも詳しくなってしまいました。(写真右・織師サリームと)
なお、ここに掲載してある写真は、2月2日、デリーの工房を訪ねた際に撮影したものです。
自社の慰安旅行についてホームページで報告するってのも、あんまり例がないだろうが、まあついでだ。やっちゃおう。
真木テキスタイルスタジオにとっては初めての記念すべき慰安旅行が、2月の21日、22日と、一泊二日で挙行された。行く先は信州。なんで信州になったかというと、別に意味はないんだが、どこか温泉にしようというわけで、それなら私の故郷あたりで…ということになったのだ。私の妹に田中恵子というのがいて、元真木テキスタイルのスタッフだった。その恵子が今、クニに帰って暮らしていたので、上田郊外の別所温泉に宿を取ってもらった。
ときあたかも長野オリンピック終盤。閉会式を翌日にひかえた21日の土曜日、真木テキスタイル総勢9名は長野駅に降り立った。
ことわっておくが私たちは別にオリンピック見物に来たわけではない
(別所温泉と長野市は40kmも離れている)。しかしわりあいミーハーで祭好きな当スタジオのスタッフとしては、せっかく信州に来るのだから、長野へ行ってオリンピック気分を味わってみようと思ったわけ。
さて、やってきました長野駅。これがまあ、たまげた。じつは私、小学校4年生から三年半ほど、この地で過ごしたことがある。だから長野駅っていえば、おなじみなのだ。ところがエライ変わりよう(写真左)。真新しい駅舎の天井からはオリンピックの旗がいくつも垂れ下がり、ハイビジョンで実況中継があり(ちょうど男子回転で日本選手が負けたところだった)、ボランティアがあちこちで働き、おまけに声楽家たちによるコンサートまでやっている(写真左端)。その雑踏ぶりは、まるで東京駅か新宿駅みたい。
そこですっかりお祭り気分になった我々は、二手にわかれ、一方は北の善光寺方面へ、そして僕たち真木一族は南のオリンピックプラザ方面に繰り出すのである。あちこちに外人のダフ屋さんがいて、アイスホッケーとかボブスレーの券を売っている。側聞したところによると、ホッケー決勝の券が6万円なんだと! それ以上に多かったのがバッジ屋さん。同行した私の姪っ子は、さっそくNTTのバッジとウクライナのを交換していた。
プラザのレストランで昼食を食べていると、そのすぐ鼻先をボディーガードに囲まれてスケートの清水選手と岡崎選手が通っていく。わが妹をはじめ、みんなご飯そっちのけで大喜び。(私はそこまでミーハーではない)
さて今度は北の善光寺方面へ。途中には表彰式の行われるオリンピックスクエアがあったりして、駅から寺までの参道はずーっと原宿の竹下通りみたい。そーいやー原宿のインスタント写真屋が参道の民家を一軒借り切って、店開きしていたなあ。たくましき商魂!
山門の少しばかり手前に、真木テキスタイルとも縁の深い老舗の家具屋「松葉屋」がある。ふだんはしっとり落ち着いた感じなのだが、この日はなんか駅前のコンビニなみの客入り(写真右)。主の善五郎氏に話を聞くと、いやー五輪の中盤ころからこんな感じで…と戸惑いながらも、なんかうれしそう。売上げは普段よりも多少いいくらいの感じだという。散歩がてらの見学客とともに、トイレを求めて来る人が多いらしい。そりゃあ冬季五輪の開催地だからねえ。あっちこっちで飲み食いしていりゃ、外も寒いし、小便も催してくるだろう。
というわけで約三時間半、オリンピック気分も満喫したし、松葉屋さんも見学できたので、宿へ向かうこととしよう。
長野駅から「しなの鉄道」で約40分。そこから車でまた30分。私の故郷にほど近い、信州の鎌倉・別所温泉に到着だ。母の実家がここにあったから、私はじつはここで産湯を使ったのだ。宿は老舗の「旅館花屋」。今では珍しい総木造の宿だ。
まああんまり長くなるのもなんだから、このへんでやめておこう。これから先は、またいつものどんちゃん騒ぎ。特記するほどのこともない。でも、木造の宿って、なんか柔らかでいい感じだった。
今日は弥生三月の七日。なんとなく春めいた陽気の中、養沢のスタジオにお客さんがあった。文化出版局から「布づくり」についての取材だった。私ぱるばはちょっと手持ち無沙汰だったので、取材班を取材することにした。
雑誌『銀花』で有名なこの文化出版局というのは、文化服装学園と同じ系列なんだそうだ。その『銀花』編集に長く携わっていた萩原薫さん(写真・左端)が今、ビジュアルを多用した単行本シリーズ、「美しい暮らしの趣味の本」を企画編集している。現在までに、『古伊万里は愉しい』、『ちりめん案内』、『おいしい和食器』の三冊が出ている。
その第一作
『古伊万里は愉しい』をこの前ちょっと読んでみたんだけど、なかなか勉強になった。マキ青山店の近所にある『古民芸もりた』主人・森田直さんが案内役のひとりになっている。書店でも好評で、すでに版を重ねているという。その第四弾が今回の『染めと織り・布の贈りもの』なんだそうだ。
この本、スタイリストの小山織さんを選者として、「日本のステキな染織のつくり手」31人が紹介される。たとえば上原美智子さんの「あけずば」、矢谷左知子さんの「草の布」、秦泉寺由子さんの「花染」、ウスタニミホさんの「柿渋染」といった具合。その中に真木千秋の「タッサーシルク」も採り上げられ、「染織の原点を探る人」という題の工房探訪記とともに、8ページにわたって掲載されるのだという。
それで今日、マキの布の数々や、よそ行きの格好をした真木千秋と香の姉妹が、プロカメラマン梶洋哉氏(写真・右端)のフィルムに収まるのである。オレもマキのビジネスウェアを着せられ、昼飯のとき五日市名物のうどんを前にモデルになったが、まあ本には載らないだろうなあ。
萩原さんいわく、「親しみ深く、さわやかで、役に立つ本にしたい」とのこと。発売は7月25日。定価1600円。お楽しみに。上の写真はリビングでクッションの撮影をしているところ。
ただいま夜の9時。場所は真木テキスタイルスタジオ青山店・二階の事務所の中。
店内では三谷氏ならびに真木千秋はじめ真木テキスタイルのスタッフ総勢五名が、明日からの展示会にむけて忙しげに立ち働いている。どうやら今晩は満足にメシも食えないらしい。仕事の合間におにぎりが配給されるだけみたい。
三谷龍二&ペルソナ工房の展示会は、一昨年11月に続て今度で二回目。
真木千秋はこの人のセンスが大好きで、家でも食器や什器や時計など三谷作品を愛用している。余談だが、真木テキスタイルのアトリエを設計した建築家・Lemmy中村(好文)氏も、じつはこの三谷氏の紹介なのだ。
今回のテーマは『雑木のうつわ』。
三谷氏いわく、「雑木というのは、杉や檜にたいする落葉広葉樹一群のことですが、桜、あさだ、楢、栗……それぞれの性質があります。そして、それらからつくられた木の器は、生活の中で使われ、年月に洗われ、また変化していきます。素材は、森や風や川のように、もうひとつの自然としてわたしたちを魅了しつづけます」。(写真右・三谷氏とうつわたち)
ということで、今回の展示会には、山桜をはじめ、楡、楢、エンジュ、栗、ハネカワなど十数種の「雑木」からつくられたうつわ、百数十点が並ぶ。いずれも三谷氏がデザインし、信州・松本の工房の職人たちとともに製作したものだ。
大は山桜の大皿(\63000)から、小は菓子ナイフ(\500)まで、どれも今晩からさっそく使ってみたいような面々だ。盆、鉢、皿、茶筒、杯、ボウル、匙、フォーク、バターケース、ディスクトレー……。
今回は特別スタッフとして、石田ノリカが参加。学芸員的な素養のある彼女の手によって、今までにないような展示が出現(写真左)する。
雑木のそれぞれに、うつわとともに、図版入りでなにやらアカデミックな説明がついている。いわく;
ヤマザクラ
山桜。バラ科の落葉樹で北半球の温帯暖帯の山地に分布。心材は褐色から赤褐色、辺材は淡黄褐色ないしは黄白色。材はしなやかで適度に硬く、肌目は精。保存性の高い木である。家具、楽器、木版用として昔から使われた。樹皮は細工物となり、煎じて咳きどめの生薬にもなる。
といった具合。脇には、ごていねいに樹皮まで飾ってある。
こうした展示が階段わきの棚に並んでいるので、二階まで上がる間に、あなたは木工素材の通になっているという寸法だ。
というわけで、布が引き立て役となる珍しい真木テキスタイルスタジオ。ぜひ一度、足をお運びくだされ。
『雑木のうつわ展』4月16日(木)〜4月29日(水)。日曜定休
4月20日 ある春の日
すっかり春めいた……というよりも、初夏を思わせる今日、4月20日。ホトトギスとまではいかないけど、同類のツツドリが鳴き始めた養沢の谷。
陽気にさそわれて、当スタジオのスタッフも、外に出ていろいろとお仕事だ。
さて、左側の写真、これは養沢にある当スタジオの庭だ。春爛漫の花ざかりである。左手遠くに見える三角の山は、戸倉にある城山。中世にはここに山城があって、近辺の秋川渓谷一帯にニラミを利かせていた。敵襲があったりすると、この山上にノロシが焚かれたりしたそうだ。
そして右手の木の上にいるのが私である。たまにはこのホームページ上に登場しようと思って、真木千秋に撮ってもらったのだ。申年(さるどし)のせいか、わりかし木登りは上手なんである。
これは当スタジオ随一の大木であるケヤキの木。(と言ってもかわいいもんだけどね)。じつは、今年の雪で真ん中の枝がポキリと折れ、長いことダラーンとぶらさがっていた。それを切り落とすために木に登ったというわけ。
左下には、ちょっと見ずらいが、当スタジオのスタッフが二人立ち働いている。若松ゆりえと金森愛だ。
草木染めの準備で、ビワの枝葉を煮出している。春だからピンク系の色が欲しいというわけだ。ふつうビワはちょっと茶味のあるピンクを出してくれるんだが、今日の煎汁の様子を見ると、あまり期待できそうもないなあ。あまり赤味がないのだ。明日、私が染めることになっている。
おっ、夜の谷間に、「ゴロスケ、ホッホー」とフクロウの声が響いている。今年はもうツバメも姿を現したし、季節の巡りが早いなあ。
夜の9時半、インドの真木姉妹から「インド便り」が届きましたので、ご紹介しましょう。じつは本日更新したばかり当ホームページを、インドで見たようなのです。ただしあちらのコンピュータは日本語が表示できないので、写真だけしか見られません。それでは5月9日ニューデリー発のマキ通信です:
今、ニルーの息子シッダルタのコンピュータで、真木テキスタイルのホームページを開きました。残念ながら画面の写りがあまりよくないのですが、それでも西表島で昭子さんや石田のりかが元気で染めている様子、河口で布さらしをしているところをリアルタイムで見られ、それをデジタルカメラで写している金星さんを思い浮かべて、こちらも嬉しくなって、さらに「がんばるぞ……」という気持ちになりました。 今回は真南風(まーぱい)プロジェクトをかかえながらのインド滞在。出張前など真南風の準備で頭がいっぱいで、どうなるかと思いましたが、インドに来てしまえばやはりインドはインド、一所懸命ここで生きるしかありません。 今日で九日目。毎朝早起きしてまっすぐに機場へ行き、一番気持ちのいい時間をフルに織師たちと過ごしています。でも今、西表のみんなの様子を見て、なんだかさらに元気になり、「物事はなるようになるんだなあ……、川の流れのような大きな流れに従っていけばいいんだ……」なんて大きな気持ちになりました。西表の皆さん、インドからヤッホーー! こちらも頑張ってまーーす。葉山の真砂さんたちにもよろしく伝えてくださーい! 糸を織って布をつくり、それを衣にする。そのいとなみの中でどんなにたくさんの素晴らしい出会いがあることか……。今更のように感謝の気持ちがあふれます。地球のいろいろな地域で織物はつくられていると思いますが、その一枚の布にもストーリーがつまっているのかと思うと、やっぱり感激です。 こちらでも真夏のストールをつくっています。先染め後染めもできますね。ガンディー式の糸車で苧麻に撚りをかけてます。またお便りします。 |
植物染料によって黄繭やデュピオンシルク(玉繭)など、なん色にも美しくなって、経糸を作る楽しみを増してくれます。毎日ここへ来て、織師とともに作業するこの瞬間は、私にとってとてもエキサイティングな楽しいひとときです。 今私たちは、夏と初秋むけに、新しいストールを製作しています。経糸を作りながら織りだしをするのですが、今日は私たちそれぞれの織機(織師イスラムディン、サジャッド)の前に立ち、おぼつかないヒンディー語で、「エック、ドー、ティーン、チャール(1,2,3,4)……バース、ティーケ(はいオーケー)」など手振り身振りを交え指示を与え、織り場じゅうに私たちの声がこだましているようでした。 西表島のプロジェクトもとても楽しそうで、パソコン上の写真はあまりはっきりしないのですが、それでもみなさんのエネルギーが伝わってきました。とってもすてきなプロジェクトでとてもワクワクしますね! どうぞがんぱってください!!!!! |
5月12日 インド便り Part2
先日の真木姉妹に続き、今回初めてインドに同行した新人の金森愛から便りがありました。
空港に降り立った瞬間、ムッとした熱気となんともいえない香に包まれ、「ついにインドへやって来たんだ」と実感がぐーっとこみあげました。 アジアには今まで一度も足を踏み入れたことのなかった私にとって、インドは見るものすべてが興味深く、とても刺激的なところです。車窓からの景色は、いつまで見ても見飽きることがありません。 真木テキスタイルスタジオに入ってから約二ヶ月。最初は青山のショップできれいに仕上げされた布たちと出会い、それから五日市のオフィスにて仕上げ作業中の布たちに出会い、そしてついに布たちの生まれ故郷インドへと遡ってきました。 こうしてこれらすべての行程を見てくると、一本の糸から一枚の布ができあがり、きれいな姿となって青山のショップへたどりつくまでの間に、何人もの人の手がかかわっているんだとつくづく思いました。 インドはとても暑く、ハードな毎日だけど、一枚一枚の布が少しずつできあがっていく過程を見られるのはとても楽しく、みんなにいろいろ教わりながら充実した日々を送っています。 1998 May インドより 金森愛 |
6月26日 武蔵野美術大学で講演
「むさび」こと武蔵野美術大学。東京都小平市にあるこの学校の短大テキスタイル科は、真木千秋の母校でもある。
この日、恩師である田中先生のお声掛かりで、「日本テキスタイルデザイン協会教育研究部会シンポジュウム」という催しがおこなわれた。
これがどういう趣旨のイベントなのか私ぱるばにはよくわからないのだが、要するに、テキスタイルを志す若者たちに、何らかの教育的な刺激を与えようというものであるらしい。
私はあまり期待もせず、単なるアッシー君として、車で五日市から小平まで、真木千秋と真木香を乗っけていったのだが……、これが案に反してなかなかおもしろかった。
会場となった第一講義室には、現在一線で活動しているファッションやテキスタイルのデザイナーが三人、パネリストとして登場。スライドやビデオを交えながら、自分の活動を紹介する。その中のひとりが真木千秋だった。
当日は「むさび」はもとより、「たまび」や「じょしび」などからも、学生や院生、卒業生など若い人々がつめかけ、立ち見も出るほどの盛況。シンポジウムが終わると、展示してある織物や作品にワッと人だかりができる。
いちばんおもしろかったのが、その後に行われた懇親会だ。むさびの新校舎・最上階にある眺めのいい会場で、会費500円の立食パーティ。けっこう美味しそうなものが並んでいたのだが……。田中先生の「乾杯」の音頭のあとは、真木千秋、ズーッと学生たちに囲まれっぱなしで、ほとんど何も食べるいとまがなかった。
だけれどもこれが彼女にとって、けっこう楽しい体験だったらしい。学生たちのダイレクトで若々しいエネルギーが、とても新鮮に感じられたからだ。二時間ほどのパーティのあいだじゅう、ずっと学生たちとしゃべり通していた。
そういえば恩師の新井淳一さんも、いつも実に楽しそうに若い人々と接している。その気持ちがちょっとわかったような、この日の真木千秋であった。
ちょうど四ヶ月前の3月7日、本欄でその取材風景をお伝えした本、『布の贈りもの』が、このたびめでたく出版された。
本書の内容については、その3月7日の記事を参照のこと。スタイリストの小山織さんが31人のつくり手を選び、「銀花」編集部が編集をしている。写真がスペースの半分以上を占める、全103ページのきれいな本だ。
表紙(写真左)には、当スタジオのストール「インド藍のシャディ」が使われている。
73ページを開くと、私ぱるばもカットされずにちゃんと写っている…(感心感心)。
取材当日はみんなで五日市名物のうどんを昼食に食べたのだが、その食卓の写真もある。(これは「寿美屋」のうどんなのだが、私の写真などよりよっぽど大きく掲載されているところを見ると、さぞかしうまかったのであろう)
小山織さんのあとがきにいわく、「贈り物を探すとき、ご自身のものを選ぶときのめどに、また、染織を志す若い方への手引きとして役立てていただければ幸いだ」
全国の書店にて発売中・文化出版局 定価1600円
いやあ、驚いた。
今朝、庭先に出てみると、一本のヤマボウシの木の下に、昆虫の糞とおぼしきものが散乱している。このヤマボウシは今年の五月に植えたばかりの、高さ2メートル半ほどの小さな木だ。「こりゃいかん、害虫がついてしまったわい」と、注意深くチェックしてみたところ、大きな青虫がせっせと葉っぱを食べているではないか!
以前の私だったら、こーゆー場合、決然、害虫を駆除してしまうのだが、ここは野蚕とともに生きる真木テキスタイルのアトリエだ。大きな青虫はねんごろに扱わないといけない。
でも、この青虫なんだろう?
透き通るような緑色をしていて、体長八センチくらい、太さは親指大だ。なんだか、かつて私がインドで見たタッサーシルクの幼虫によく似ている。でもタッサーがこの日本にいるわけないし、だいたいヤマボウシを食べる野蚕の幼虫なんて聞いたことがない。
でもとにかく繭を作る虫には違いないので、ひとまず記念撮影をした。(写真左・手は私の手。デジカメでの近接撮影に慣れていないため、ちょっとボケてしまった)。
その後、ウチのスタッフが同じ木にもうひとつ発見。こちらのほうはじっと静かに瞑想状態だ。つごう二匹。植えたての小灌木にはちょっと荷が重いかな…。
そして、夕方になって、ふと気づいたのだが、もしかして、これ、天蚕じゃなかろうか。天蚕といったら、ふつうナラやクヌギを食うことになっている。ヤマボウシといったらミズキ科なんだけど、インドのタッサーもいろんな木の葉を食うから、中には変わったヤツもいるのかもしれない…。
ってことで、インターネットで検索してみた。すると天蚕の写真入りのサイトがあって、ムム、案の定!!
(ちなみにYahooでは「天蚕」で一件もヒットなし。Infoseekではザクザク出てきた。ネット検索は複数でやってみるもんだね)
緑のダイヤとまで言われる天蚕。今まで抜け殻繭は信州で採取したことはあったが、幼虫にお目にかかったのは多分これが初めてだ。しかもこんな身近なところで。
蛾が羽化するまで、大事に見守っていきたいと思う。また続報をお送りしたいと思うので、請うご期待!
昨日お伝えした「天蚕」の話、ちょっとばかり違っていた模様だ。
僕が「天蚕」だと思った根拠は、長野県穂高町のホームページに出ていた幼虫の写真と説明文だった。実際のところ、あまり大きな写真ではなかった。それでも僕は、希望的観測も含め、これは天蚕だと信じて疑わなかった。
夜になって、国際野蚕学会会長の赤井博士に電話して尋ねてみたところ、ちょっと雲行きがあやしくなった。赤井さんによると、天蚕は顔が緑色をしているとのこと。ウチのヤツは写真でもわかるとおり、茶色をしている(特に昨日の写真)。もしかしたら天蚕じゃないかも…。
そして今朝になって庭のヤマボウシをチェックしてみると、あれっ、二匹いるはずの幼虫が一匹になっている。繭も見あたらないし、どこへ行ったんだろう? (写真右は今朝撮ったもの)
そして僕は、つくばの農水省昆虫農業研究所に電話をしてみた。昨晩赤井さんから電話番号をもらったのだ。
研究者の齋藤さんに状況をいろいろ説明する。
すると齋藤さんいわく、それは九分九厘オオミズアオでしょうとのことだった。
このオオミズアオというのも、いちおう野蚕のひとつなんだけど、天蚕や柞蚕(タッサー)の属するアンテリア属には入っていない。いわば、ちょっと遠い野蚕なのだ。
成虫になると、ブルーがかった緑色の美しい蛾になるとのこと。この成虫はよく街灯にもやってきて、人家の近くに産卵したりする。そして幼虫はケヤキやハンノキなど種々雑多な木の葉を食べる。(天蚕はそれに比べると嗜好に厳しく、ナラやクヌギみたいのしか食わない)
さらには幼虫は大きくなると、ある日忽然と姿を隠してしまう。つまり木の上に繭を作らず、地面のどっかにひっそりと繭を営むのである。その繭を見つけるのは非常に難しいんだという。
どうりで今朝、一匹消え去っていたわけだ。(心配したぜ)。きっと、きのう瞑想状態だったやつが夜のうちに木を下り、ウチの庭のどっかで繭をつくったのだろう。
ただ繭の殻はごく薄いもので、繊維としての利用価値はないとのこと。
それで僕もこれ以上追跡することはせず、静かに蛾としての生をまっとうさせてやろうと思った。
そのうち、夜ふけにキーボードをたたく僕の傍らで、窓ガラスをコトコト鳴らしながら、ブルーグリーンのつばさが閃くことがあるかもしれない。
ひさしぶりに店にやってくる。
お盆のまんなかへんだから、さすがに青山も静かだ。
もう午後四時半になるのに、お客さんもお二方ほどしか見えず、いささか淋しい。
やっぱりお盆は世間並みにお休みにしたほうがいいのだろうか。
二階に上がってみると、展示が少し変わっている。
ちょっと博物館みたいだ。
じつは当スタジオの学芸員である石田紀佳が、趣向を凝らしたのである。
ひとつは右写真のごとく、当スタジオがインドで使用する染料の見本を展示したこと。
拙著『タッサーシルクのぼんぼんパンツ』にも登場する、テスの花や、インド茜、ザクロの実、レッドチャンダンなどの実物が、ガラスのコップの中に入っている。
もうひとつは西表・紅露工房のビデオ上映だ。
これは今年五月、沖縄テレビによって撮影されたもの。
西表の美しい自然の中で、石垣昭子さんが染め物をする姿が描かれている。
ちょうど同地を訪れていた学芸員の石田紀佳も、助手みたいな顔をして映っている。
十五分ほどの短い作品だが、手仕事のスピリットのよく伝わってくる映像だ。
これは22日まで当スタジオ青山店にて上映するので、お見のがしなく。
今朝はみんな早起きだ。朝の六時前後に起床する。
昨日の夜は遅かった。午前三時前後に就寝だ。つまり三時間くらいしか寝てないことになる。
インドに行く前には、必ずそうなる。前もって準備しときゃいいのにと思うんだが、これはどうも物理法則みたいなもんだ。真木姉妹にとっては、避けがたいことらしい。かつては徹夜までして準備していた。それに比べりゃ進歩したと言えるだろう。
六時半に養沢の家を出、事務所に寄ってから、真木香をピックアップする。
それから中央道、首都高、東関道を通って、一路、成田空港まで。
日曜日だから渋滞もなく快適だ。集合時間の九時半より少々早く着きそうだったから、空港直前の酒々井パーキングエリアで三〇分ほど仮眠をとる。だいたい姉妹は道中の半分以上を寝て過ごす。
空港でスタッフの金森愛と合流する。お父さんに車で連れてきてもらったのだ。
その合流にちょっと手間取り、チェックインに思わぬ時間がかかる。今日のインド航空はオーバーブッキングしているということで、困ったもんだ。でもフライトは定刻ということで、ひとまずは安心。
そして三人は元気にインドの旅へと発ったのである。写真左から、真木千秋、真木香、金森愛。(ピントが甘くて失礼)
久しぶりの晴天が続く、ここ二三日。その移動性高気圧に乗って、真木千秋・香の姉妹、そしてアシスタントの金森愛がインドから戻ってきた。
まずはその元気な姿をとくとごろうじろ(写真左)。
これは今朝8時45分、成田空港で撮ったもの。税関を通り抜け、晴れて日本の娑婆に出てきた三人娘である。出発は昨夜の午後9時30分(日本時間午前1時)。七時間の空の旅だ。
二週間半の滞在で、三人とも少し日焼けして戻ってきた。
本来まだ雨期の最中であるはずの北インド地方。ところが今年はほとんど雨が降らず、連日三十数度の晴天だったという。今年はどこも天候が異常らしい。
そんな中で、毎日汗だくで仕事に励んできたこの三人。今回の滞在では、特に服に新しいものができたという。
ところで、飛行機に限らず、遠路はるばるやってくる乗り物の到着というのは、いつ見ても感動的なものだ。
ただ、この成田空港の場合、複雑で警備も厳重なため、遠国から飛来する飛行機の勇姿をおがむことがなかなか難しい。
ところが今日、ちょっといい場所をひとつ見つけたのだ。
それは、第二ターミナル南二番駐車場の屋上だ。(この駐車場には「国際便出発」の道路から入っていく)。
飛行機の到着予定時刻を見計らって、屋上の東南端、駐車スペース157番あたりにたたずむ。そして、金網越しに東天低いところを眺めていると、やがて雲間から鈍い銀色の機体が姿を現すというわけ。
その機内に知っている人々が搭乗していたりすると、また感慨もひとしおだ。
さて真木姉妹、機内泊の疲れも見せず、そのまま銀座の松屋百貨店へ直行。
昨日から七階のニューウェーブで真木テキスタイル展示会が開かれている。またその上の八階催し物会場では、折しもNHKフェスティバルが開催中。母親の真木雅子(バスケタリー)も出展している。どちらもなかなか美しい展示なので、お暇な人はぜひどうぞ。
さて、秋のシーズン到来!
各地のギャラリーで当スタジオの展示会が開かれ、たくさんのお客さんが集まる(we
hope!)。
その際、重要になるのが案内状、およびそこに掲載される写真だ。
そこで毎年この時期、養沢のアトリエにプロのカメラマンを招いて、大撮影大会が開かれる。
そのカメラマンというのは、甲府在住の樋口雄樹くん。真木香の古くからの友人だ。もう五年くらい前からDM用の写真撮影をお願いしている。インドの工房まで一緒に行ったこともある、当スタジオの専属カメラマンだ。
撮影となると、機材一式を車に積んで甲府からやってくる樋口くん。女所帯の当スタジオに男がやってくると、何となくエネルギーが変わって、活気づくものだ。
きょうは真木千秋&香姉妹のほか、当スタジオ学芸員の石田紀佳、アシスタントの金森愛などたくさんのメンバーが集まり、にぎやかにやっている。
先日インドから持ち帰ったばかりの新作も、被写体として初登場。
もうじき皆さんのお手許に渡る(こともある)であろう展示会案内状を飾ることになる。
新宿西口の超高層ビル「パークビル」の一角に、OZONE(オゾン)という、リビングインテリア・スペースがある。その名の通り、モダンなリビングインテリアの発信地だ。
今、その三階にあるOZONEプラザで、「布とくらす」という展示会が開かれている。
きのう18日はそのオープニング・パーティだった。真木千秋と私ぱるばが出かけていく。
この展示会は、「布を活かした作品を製作している5名の作家に、暮らしの中での布使いの楽しさ、可能性を提案してもらう」ものであり、更には、「日本各地で活躍する作家21名に、それぞれの手法で製作したランチョンマットを展示してもらう」ものだ。
この5+21名の作家とは、真木千秋のほか、当スタジオとも縁の深い、矢谷左知子さん、ウスタニミホさん、麻殖生素子さん、秦泉寺由子さんなど。
いずれも先日このホームページでお伝えした書籍「布の贈りもの」で紹介された人々だ。
このOZONEプラザは、白大理石張りの瀟洒なオープンスペース。真木千秋の展示(写真左)は、3フロア吹き抜けの天井から数メートルの布を二枚垂らし、インドのアンティーク銅壺を配するなど、いろいろ工夫を凝らしている。
右写真は本題とはあまり関係ないのだが、私ぱるばが会場で着物を着せられているところ。この着物は写真右側の人物・丹羽貴容子さん持参のもので、実は彼女の夫君のためにあつらえたもの。
布地は当スタジオの「麻タッサーシルク・タビー」。無地平織りのシブいものだ。それを、縦襟シャツとズボンの上からじかに着る。足は革靴だ。なんとなく外套か、ゴ(ブータンの着物)みたいな雰囲気。
着物を着るのは初めてだったが、この姿で会場を闊歩していると、背筋がピンと伸びて、じつに爽快。さっそく真木千秋ともども、丹羽さんに一着あつらえてもらうことにした。
「布とくらす」9月19日〜11月24日(水曜休み) 西新宿OZONE三階(新宿西口三和銀行前から送迎バスあり) 入場無料
今、9月24日の午後6時半。場所は真木テキスタイルスタジオ青山店。
私田中ぱるばはカウンターに座って、パソコンをいじっている。
秋分を過ぎて、外はもう暗い。店を訪れる客も絶えてない。
階上がなにやら騒がしい。
四人の女たちが、「ああ、お腹すいた」とか言いながら、服や布のディスプレーに没頭している。
明日から当スタジオで、企画展が開かれるのだ。
タイトルは「タートル&ストール」。
宣伝文句にいわく、「タートルネックのブラウスを、タッサーシルクやモトゥカシルクの手織り布で仕立てました。首もともあたたかく、着込むほどにからだになじみます」
この企画展のために、真木姉妹や石田紀佳ら当スタジオのスタッフが、ずいぶん前から苦労を重ねてきたらしい。
そうして先日のインド出張を経て、できたてほやほやのタートルネック・ブラウスなのである。
もちろん今回が初登場だ。
写真上はそれをディスプレーしている真木香。
ちなみにモトゥカシルクというのは、普通の繭から生糸を取ったあとの繰糸くずを、壺(モトゥカ)の底で撚りをかけて紡いだ糸のこと。
今回の展示会にはそのほか、新しいジャケットや作りたてのストールなどもお目見えする。
さて写真下、タートルネックの森の中にいるのは、当店店長の大久保すみ子さん。当ホームページ初登場だ。
目立ちたがりの多い当スタジオの中にあって、唯一つつましやかな女性であるMs.Ohkubo。今まで私の度重なる出演依頼を、頑なに拒み続けてきたのである。しかし今回は、顔は写さないという条件で、特別に、タートルネックを着てモデルになってもらったのだ。
ところが私の写真技術では、顔を写さないってのは、なかなか難しい。それに本人もお化粧直しして現れたことでもあるし、この度はやっぱり、顔つきの写真で登場いただくことにしよう。みなさんよろしく!
turtle & stole 1998年9月25日(金)〜10月4日(日) 真木テキスタイルスタジオ青山店
ま、これは真木テキスタイルとは直接関係ないんだけど、アトリエのすぐ近くにあって、四年越しのつきあいの学校なので、ご紹介しよう。
つきあいというのは、ここの学校の生徒に、沖縄のエイサーを何度か教えてやったことだ。それ以来、私ぱるばは、この小学校の行事に来賓として呼ばれるようになったのだ。(教育長や市議会議員やPTA会長さんたちに混じってだから、ちょっと変!)
ここの子供たちはとってもかわいいから、呼ばれるとうれしくなって、ついホイホイと出かけていってしまうのだ。
その運動会が今日あった。養沢物語の中でもご紹介したとおり、この学校は生徒数60人くらいの、谷間の小さな学校だ。子供たちも先生たちも一所懸命で、とても好感のもてるいい学校なのである。(学校嫌いの私が言うんだから間違いない)
運動会も生徒の自主性が随所に見られ、地元消防団や老人会なども参加し、地域ぐるみの運動会といった風情がある(写真上)。
写真左は小宮小学校名物の騎馬戦。「やあやあ我こそは」という口上から始まって、ほんとに落とすまで戦う。こういうワイルドさは、いつまでも残しておいてほしいと思う。
初秋の信州へ行ってきた。
信州といえば真木家発祥の地であり、また私ぱるばの出身地でもある。
ぱるばの妹に、田中惠子というのがいる。かつては五日市に住んでおり、真木テキスタイルのスタッフであった。
その惠子が信州上田の実家に帰り、しばらく前から、店をオープンするというプロジェクトを着々進めていた。そこで今回、真木千秋と私はその進捗状況を見物に行ったのである。
この田中家はかつて造り酒屋なども営んでいたので、古い造作・調度などがいろいろ残っている。そうした古代の遺産や、真木テキスタイル時代に培ったセンスや人脈などを活かして、洒落た店づくりをしようというのが、田中惠子のプラン。
その名も「月のテーブル」。どういう店なのかというと、カフェ・ギャラリーなのだそうだ。
十七坪くらいの広さで、ちょっとした食べ物があって、ギャラリーがあって、夜にはライブなどもやる。
惠子はエコ指向が強いので、使用する米野菜は父親の田中一夫が無農薬で作るのだという。(真木千秋がインドカレーなどを伝授していた)
ライブに出演するのは、夫でギタリストである佐々木ヒロアキなど。(いずれ私が友情出演するかも)
ギャラリースペースには、真木テキスタイルの布が並ぶ。
春から始まった工事も、かなりの進み具合を見せている(写真左・左側の人物が田中惠子、右側が真木千秋)。
写真の左奧のスペースがかつて山羊小屋だったところで、手前のスペースが蚕室だったところ。真木千秋がいろいろアドバイスをしている。ついでに店のロゴマークも揮毫した。(右上)
本年十二月にはオープンとあいなる予定なので、そのときにはまたご案内いたしましょう。
今年で五回目を迎える、玉川高島屋恒例の「道具展」。
全国から「ソウソウたる」物作りたち約40名が集まって、今回もにぎにぎしくスタートとあいなった。(写真左…左の人物は柿渋染布の原口良子、右側はこのイベントの仕掛人であるユーラシアクリエーティブの今井俊博さん)
会期は今日から10月20日までの6日間。これは玉川高島屋総力を挙げての名物イベントだから、一見の価値がある。
今、午後の8時12分。実は私は今、初日がはねた後のパーティ会場にいる。作家たちや主催関係の人々四十数人が集まっての大宴会だ。当スタジオからは、真木姉妹、および私が出ている。(右写真…左端が真木香、その右がウスタニミホ、右端が真木千秋)。
出展している作家たちは、真砂三千代とか、モン坂田とか、原口良子とか、下村撚糸とか、滝沢さんとか、いずれも顔なじみのメンバーで同窓会みたいな雰囲気。さきほど今井俊博さんの音頭で、乾杯をした。
私は今その端っこでパソコンごっこをしているのだが、となりで真木千秋が「そんなことしないでよ」と渋い顔。あっ、今、すき焼きが出た…。
ということで、宴もたけなわ。このページをPHSで送って、私も加わることにしよう。
9月末から約六週間にわたって開かれている、銀座松屋での、恒例の「真木テキスタイル展」。
場所は七階のニューウェーブだ。
毎年このスペースで春と冬に開かれる当スタジオ展示会、これで六回目くらいになるか。
「デザインの松屋」と呼ばれるこの百貨店だが、特にこの七階はスペシャル。
展示会場の隣にある「デザイン・ショップ」は、わけても真木千秋のお気に入りだ。美しく洒落た小物たちが並んでいる。平生、物欲のあまりない私ぱるばも、先日つい、卓上に置く「温度計・時計・湿度計」を買ってしまった。
さて、肝心の真木テキスタイル展示会だが、実はあさっての19日に終了。
本来なれば、オープニングの頃に記事を書いて本ホームページに紹介すべきものであるが、筆無精のせいで、こうなってしまった。
本日は真木千秋と私ぱるばで、はるばる上京し、都見物をしている。まずはこの松屋に立ち寄ったというわけ。
写真の中の女性は、松屋で活躍している、当スタジオ・スタッフの大村恭子。その隣が私ぱるば。撮影は真木千秋である。
これを今からPHSでupしようと思う。松屋の後には玉川高島屋へ行こうと思っているのだが、そこでもライブ中継をやるかもしれないので、お暇な人は見てください。
今、真木テキスタイル青山店のカウンターに座っている。
時間は午後4時30分。秋分を過ぎて一月ほども経つと、もうこの時刻でもだんだん薄暗くなるものだ。
さて、明日から青山店では、服飾デザイナー真砂三千代さんによる『纏う(まとう)』展が開催される。
言うまでもなく真砂さんは、真木千秋にとって、もっともセンスのぴったりくる服飾デザイナーだ。
だから当スタジオでは、彼女の個展を毎年この時期に開催しており、今回で三回目になる。
また今年六月には石垣昭子さんと三人のコラボレーションで『真南風』も開催しているし、さらに来月には共々ニューヨークまで出かけることになっている。
真砂さんもまた真木の布が気に入っているようだ。
「私にとってのカタチづくりは、布がどういうものであるかに集約される。そういった意味で、千秋さんのつくる布は刺激的だ」と語る。
今回の『纏う』展には、ブラウス、スカート、パンツ、ジャケット、コートなど、約120点が出品される。
ジャケット、コートを中心に、当スタジオの布を用いた作品も多い。
今回の呼び物は31日(土)午後五時から催される「KOROMO
Presentation」だ。
これはいわゆるファッションショーの形式で、今回のテーマである『纏う』を表現しようというもの。
たとえば、インドなどでは、布をそのまま羽織って衣とする。一方、西洋ではカチッと決まったカタチにする。この「そのまま」から「カチッ」までの『纏う』という営みを、生身の人間とコロモとで追求してみようとういのが、このイベントの主旨である。
今日は飾り付けの合間に、当日のモデルのうち六名が集まり、コロモを羽織ってちょっとしたリハーサルをやってみた。(写真上・中央が真砂三千代)
私ぱるばも男性モデルとしてちょっと出演するので、みなさんにもぜひおいでいただきたい。
afa 真砂三千代展 10月29日(木)〜11月7日(土) 11:00-19:00 真木テキスタイルスタジオ青山店
ファッションショーというと語弊があるのかもしれないが、実際そんな感じだったので、そう呼ぼう。
本当のタイトルは「KOROMO
Presentation」。下にある10月28日の記事にもあるが、一昨日から開催のafa真砂三千代展の一環として、本日の午後五時から青山の真木テキスタイルスタジオで開かれた。
こうした催しは、当スタジオでも初の試み。
八人の素人モデルが、真砂三千代の衣を着て、かわるがわる登場する。当スタジオからは、真木香(写真左)と大村恭子、そして私の三人が出演。
二階が楽屋となり、真砂三千代およびafaのスタッフ三人が忙しく立ち回って着せ替え作業をする。自分の順番が来ると、階段を下って、一階にいるお客さんたちに衣装を披露するというわけだ。
一回あたり40秒と決めておいたのだが、最初のうちはモデルたちも慣れていないせいか、20秒ぐらい披露すると、ササッと戻ってきてしまう。ただ私なんかは人前に出るとついうれしくなってしまって、なかなかステージを立ち去らず、それで時間の帳尻もなんとなく合ってしまうのであった。
けっこうお客さんたちも来てくれて、中に入れなかった人のほうが多かったほど。天気も良かったし、モデルたちも機転を効かせて、外に出て一巡してくればよかったと思う。
ともあれこれは楽しいイベントであった。くせになりそう。
今、成田空港B72番搭乗口。午前10時57分。インド行きの搭乗を待っている。
ちょっと誤算だったのは、携帯に適したPowerBook2400が昨夜突然故障したこと、そして、この待合室ではPHSが入らないことだ。
さもなくば中央線や成田エクスプレスの車内で、とうにこの話を編集し、今ごろはPIAFS経由でupしていたことだろう。
というわけで、一昨年・昨年と続いて、3KgのPowerBook1400を担いでのインド行きとなる。このピンチヒッター1400は、電池がそうとう弱くなっていて、乗り物の中でパソコンごっこができないという不便さがある。
さてこれは昨12月5日の話。
私と真木千秋は、雨の降りしきる昼過ぎ、隣の部落である落合在住の山崎覚二さんを訪ねた。車で数分のところだ。
今年81歳になる覚二じいさんと知り合ったのは、二週間ほど前のこと。落合部落の「お囃子」の稽古を訪ねたときだった。
この覚二さんが、地元の古老として踊りの指導にあたっていたのだ。
練習のあといろいろお話をうかがっていると、織物のことでおもしろい発見があった。
そこで昨日、真木千秋とでかけたわけだ。
この山崎家は、落合部落の名主の家系。そして織物の話は、覚二さんのお祖母さんにかかわってくる。
このお祖母さんの実家は、沖倉家といって、養沢の谷でも屈指の長者だったという。その家の娘は、結婚前には必ず、江戸城の御殿女中に上がるしきたりになっていた。
だから覚二さんのお祖母さんも、山崎家に嫁ぐ前には、大奥の女中をしていたわけだ。御殿で仕込まれただけあって、そりゃあ厳しい人だったという。
覚二さんは大正六年の生まれだが、少年の頃、つまり昭和初期は、まだ各家庭で糸を紡ぎ、布を織っていたらしい。
覚二少年も、学校から帰ってくると、そのお祖母さんに尻をたたかれ、山に遣られたのだという。
何のためかというと、「栗の木に登って黄色い繭」を採りにいかされたのだ。
「栗の木に黄色い繭」といったら、これは天蚕に違いない…。そう思って僕たちは天蚕を持参して、覚二じいさんに見せたのだ。
すると覚二さん、すごくうれしそうに、「ああ、これこれ! なつかしいなあ」。(写真右)
天蚕の繭を見るのは、たぶん何十年ぶりかなんだろう。
当時、覚二少年は栗の木に登り、20〜30個の山繭を採取してきた。やはり出殻繭よりも、丸のままの繭の方が、生糸が採れてよいとされたらしい。その繭からお祖母さんが糸を紡ぎ、布に織られ、着物に仕立てられ、少年が着たのだ。(これはかなり贅沢なことだ…というのも現在、天蚕糸の価格は家蚕糸の十倍するのだから)
糸を取った後のサナギは、串刺しにして、火鉢で炙って食べたという。これが香ばしくて、うまかった。少年にとって、繭採りは難儀なことだったが、このサナギ焼きがお駄賃になったらしい。
また当時は日本の養蚕業の最盛期だったから、山崎家でも蚕を飼っていた。ただ、「いい繭」はぜんぶ売ってしまい(一貫目四円だったという)、自家用の糸は玉繭から採った。その玉糸を自家で織って着物を作ったのだが、そのときの反物も見せてくれた(写真左)。
さすが日本の手織布だけあって、玉糸製でも繊細だ。染めるつもりで織っておいたのだが、結局染めずに今までとっておいたのだという。お姉さんがよく草木で染めたのだそうだ。
ところでこの辺一帯では、かつて藤ヅルで布を織っていたらしい。ただ藤ヅルではちょっとゴワゴワするから、からむし(苧麻)を入れるようになった。つまり経糸(たて)に藤、緯糸(よこ)に苧麻という感じだ。からむしを使うことによって、着物が軽やかになったのだという。
しかしそれも、覚二じいさんよりも七代も前の話だという。一代三十年として、ざっと二百年。覚二さんが八十一歳だから、三百年ほども前の話になる。
覚二さんのお祖母さんは、嫁入りのときに、そんな「藤×からむし」の布でつくった着物を持ってきたのだそうだ。それを大事にとっておいたというのだが、どこにしまってしまったのか、この日は見つからなかった。
また春になって陽気がよくなったらお邪魔しますと言って、小降りになった雨の中、覚二さんの家を後にするのである。
覚二じいさんはおみやげに、自家でとれた柚子の実をビニール袋に入れてくれた。