India 2003
 
真木千秋(&真木香、そしてスタッフ三人)が、
2003年1月中旬から約四週間、インドにて布づくりに励みました。
 これはそのおり、田中ぱるばが現地からお伝えした、ライブ・レポートです。



1月24日 ピクニック!


 昨日、私田中ぱるばおよび赤木アキト氏の男二人、JAL471便にて無事インドに到着。
 デリー空港で、真木千秋・香の姉妹、Makiスタッフ三人娘、およびニルーの夫アジェイの出迎えを受ける。
 寒いというウワサだったが、我々の到着と前後して、にわかに春めいて暖かくなったらしい。
 (う〜ん、やっぱ人徳か!?)
 現在午後の一時を回ったところだが、外気温はおそらく20℃を越えているだろう。
 すこぶる快適である。

 今回はパソコン持参でやってきたので、今日から当地の様子を少しずつお伝えしようと思う。
 題して「India 2003」。
 タイトルバックのオレンジ色、これはインド国旗の色であるが、それよりも、現在私の目の前で切られているパパイアの果肉の色なのだ。これにライムをかけて食べるのである。

 これから昼食。
 場所はデリー郊外の機場(はたば)。
 この機場では、当スタジオの四人娘(?…真木千秋・香・金森・齋藤)が布づくりに励んでいる。(大村恭子はただひとり縫製工房で仕事中)
 さらには昨日到着した輪島の漆芸家・赤木アキト氏、そして私ぱるばの計六人で、ぽかぽかした春陽のもと、工房の外でピクニック♪
 食事はニルー家からさきほど運ばれてきたインド料理だ。

 今日の献立はというと…
 ・マタールパニール (グリーンピースとコテージチーズ)
 ・ラジマ (ささげ豆のカレー…これが一番ウマかった)
 ・ジャガイモのコロッケ風 (これもウマかった)
 ・マッシュルームの和風煮 (インドに来て和風煮付なんかわざわざ食う気しないんだが、女たちは好きみたい)
 それにチャパティと御飯(もちろんインディカ米)だ。
 それから日本から持参した即席のスープと、パパイヤ。食後にコーヒー。
 けっこういいもん食ってるよな。私の一昨日までのちょんがー生活とは大違い。

 今日は特別ご馳走なのかい?と聞いたら、だいたいいつもこんなもんだそうな。
 この中の、たとえばジャガイモとかコリアンダーなどの食材は、ニルー家の畑で栽培したものだ。
 当家は完全なベジタリアンであり、またダイエットに配慮して料理にはほとんど油分を使わない。
 …というと味気ないように思われるかもしれないが、決してそうじゃないところがインド料理の偉いところ。
 見よ、みんなの嬉しそうな顔を!(左から真木香、千秋、赤木アキト)
 ランチテーブルがちょっと珍しいんだけど、これはカートと呼ばれるインド式の編み上げベッドである。
 昼食後、赤木氏はしばしこの上に横になり、日溜まりで午睡を貪るのであった。

 



1月25日 「デリー職人列伝」その一・織師シャザッド


 
現在、真木テキスタイルスタジオの布を織っている織師は九人。
 ワヒッド、ナイーム、ワジッド、シャザッド、イスラムディン、カリファー、ニアズル、タヒール、サクール。
 みな長年のつきあいだ。
 息のあった熟練の職人たちは、まさに Maki の至宝である。

 そこで India 2003 特別企画として、そうした職人たちを順次ご紹介していこうと思う。
 第一回は、織師シャザッドの巻。
 (ちなみに世の辞書に「織師」という言葉はない。これは Maki の造語である)

 筆頭としてシャザッドを選んだのも、たまたま今日私が工房に入ったとき、唯一仕事をしていたのが彼だったからである。
 なんといってもここはインド。みなのんびりマイペースで仕事をしているのだ。
 しかし世の中に「たまたま」はない。
 このシャザッドこそ、真木千秋の信頼もっとも厚き織師なのである。

 数ある織師の中でも、Maki と最も感覚が通じ、その言語を速やかに理解してくれるのがこのシャザッド。
 Maki の布を織り始めてもう七〜八年になる。
 数多の綜絖を使って足踏み機で織り上げるその布は、天下一品に繊細できれいだ。
 その几帳面さは、真木千秋いわく、ときには「かわいそうなくらい」。
 (すなわち、ちょっとでも気に入らない箇所を見つけると、その部分まで糸を解き戻して、織り直したりする)
 そのウデと職人気質を買われて、様々な新作が彼の機に託される。
 どんな新しい素材、新しい織りでもこなしてしまうのが、このシャザッドなのだ。
 最近は日本から持ち込む苧麻などの特別な糸も増えているので、なおのこと彼の存在は貴重である。

 最近では、「風花、銀の花、藍の花」など「花シリーズ」あるいは「阿波」といったショール類が、彼の手から生まれ出ている。
 そして今、機にかかっているのが、まだ名前のない新作。
 淡い藍色をしているが、これは昨夏、五日市のスタジオで藍の生葉染をした糸を使っている。
 原料となった藍草の産地は、お隣・日の出町と、「竹の家」藍園である。(一昨年の生葉染の模様はこちら)

 そして使用している糸も、赤城の節糸のほか、インド・バンガーロール手引糸、中国柞蚕糸、韓国柞蚕糸など、じつにアジアン・インターナショナル。
 この韓国柞蚕糸というのは今回始めて使うが、真木千秋も注目する素材である。
 すなわち、中国柞蚕と比べると、細くて、強くて、シャリ感があり、いぶし銀のような光沢を持っている。

 右写真はその新作をまとって嬉しそうな真木千秋。
 昨日織り上がったばかりの第一作で、夜に水通しをして、今朝乾いたもの。

 背景の黄色は菜の花畑。
 早くも春の到来を感じさせる1月25日のデリーより。



1月26日 Office Ambassador


 
経済発展の著しい昨今のインド。
 首都デリーに限って言うと、1960年代の日本のようだ。
 一般庶民がマイカーを持ち始め、年ごとに交通渋滞がひどくなる。

 ニューデリー市内の宿から、郊外の機場まで、Maki 一家はハイヤーで移動する。
 車はかつてのインド国民車・アンバサダー。
 旧宗主国イギリスのオースチンを原形に造られたクルマで、とってもクラシカルなスタイリングだ。
 90年代に日本のスズキが登場するまで、インド乗用車界の花形であった。

 朝夕の渋滞にかかると、移動に片道一時間近くかかることもある。
 するとこのアンバサダー車内が、オフィスに早変わり。
 お茶もお菓子も訪問客もないので、仕事がけっこうはかどるのである。
 今日は真木千秋が大村恭子と、衣づくりの相談。
 その会話をちょっと採録すると;

ちあき「タヒールの新しい生地は落ち感があるから、何にあうかな〜?」
きょうこ「少しボリューム感のある春のコートなど、どうでしょう?」
ちあき「それにあうブラウスも必要よね」
きょうこ「薄手のモトゥカシルクでつくってみましょうか」
ちあき「そうね、いいかもしれない」

 てな具合に話をしていると、さしもの渋滞もなんのその、たちまちのうちに目的地に着いてしまう。
 写真左端のターバンを巻いている人物は、運転手のスレンデル・シン。
 延々と展開する意味不明な音声をBGMに、ただ黙々とハンドルを握り続けるのである。



1月27日 「デリー職人列伝」その二・織師ワジッド


 
今回はMaki的織師の中でも最も古株、ワジッドの巻。
 名著「タッサーシルクのぼんぼんパンツ」の中に、次のような記述がある;

…隣ではキレイ好きのワジッドが二重織りのストールを織っている。ワヒッドやナイームらとともに、最初から十人衆に加わっていた中堅織師だ。面倒見がいいので、お隣のデルモハメッドを始め、若手の織師たちに何かと頼りにされる。美男で愛想がいいから、やっぱりカオリのお気に入りだ…

 これは今から六年前の1997年に書いたもの。
 彼とのつきあいも、もう十年以上になる。

 現在のMaki九人衆の中で、ナイームと並んでただ二人、ジャカード機を操る織師。
 ジャカード機というのは、紋紙を使って柄を織り出す紋織り機だ。
 今彼の織っているのは、綿とシルクを使った厚手のベッドカバー。

 普通、こうした厚手の布を織る職人は、薄手のものは苦手である。
 手の加減が違うから難しいのだ。
 しかし腕に覚えのワジッドは、そのどちらも織りこなす。
 たとえば、薄手のショールでいうと、「モザイク」や「スノー」といったウールの二重織り、また「ふくれ織り」ショールが、彼のジャカード機から生まれ出る。

 六年たってもやっぱり真木香のお気に入りであるワジッド。(ワリと進歩がない!?)
 香とは目と目で会話できるアヤシイ関係なのである。
 往時の美男も多少シブくなったが、性格の良さは相変わらず。
 何を言われてもポジティブで、いつもニコニコマイペースなのがいい。



1月28日 The stuff you do between coffee breaks


 
近年のインド、特にデリーの変貌ぶりには、まことに瞠目させられる。
 原宿や青山と見まごうばかりのショップも次々とオープン。
 スタバも真っ青のイタリアン・テーストなカフェまで出現!

 BALISTAという名のその店へ、今日は仕事帰りにみんなで繰り出した。
 カプッチーノからカフェラテ、カフェモカからエスプレッソ・マッキアートまである。
 私はラテを注文したが、うかつなことに「リストレットで」と言うのを忘れた。
 (ま、言っても通じなかったろうが…。スタバじゃないんだし)

 主力商品のカプッチーノが40ルピー。
 日本のスタバよりは安いのだが、一般の感覚からはかなり高目であろう。
 なにしろ織師たちの飲むチャイは、一杯2ルピーなのだから。

 壁には洒落たポスターがあって、西欧人とおぼしき男女がコーヒータイムを楽しんでいる。
 そのコピーにいわく、「WORK. The stuff you do between coffee breaks
 ちょっと訳すと、「しごと。 それはコーヒーとコーヒーの合間にやるやつ」

 なるほど。
 値段は20倍違うが、やはりインドだ。
 ウチの機場と同じ精神が脈々と息づいている。
 わが織師たちの基本姿勢も、上掲のコピーとたった一語違いなのである。
 「WORK. The stuff you do between chai breaks

 あ、同じ精神は海を越えて、わが五日市は「竹の家」まで脈々と息づいてるみたいだぞ。
 なにしろ、9:30始業で、10時には第一回お茶タイムなんだから…

  教訓
   茶は水よりも濃し



1月29日 AA7記念ストール

 Maki青山店もおかげさまで、今春めでたく七周年を迎える。
 その記念に、いつもと違うストールをつくろうということになった。
 さて、どのように違うのか !?

 タテ糸は赤系と青系の二本。
 今日はその青系のタテ糸づくりだ。
 サンプルを見ながら、スタッフの金森愛とともに糸を選ぶ真木千秋。

 手前の生成糸は、ノイル糸(絹紡糸)。
 奥の紺色は、マルダ絹とバンガロール絹をインド藍で染めたもの。
 1200本にもおよぶタテ糸を、一本一本、勘を頼りに選ぶ。(じつに右脳的ワークだ)
 タテ糸整経台から糸を引き出し、綾を取る。
 この右側に大きなドラムがあって、そこにタテ糸を巻き取る。
 今回はストール50本分、約90メートルだ。

 写真中央の人物は、伝説のタテ糸職人・パシウジャマ。
 耳は聞こえぬながら、その鋭い感覚で、当スタジオにはなくてはならない存在である。
 人一倍好奇心旺盛で、パソコンにも興味津々。写真に収まり嬉しそう。
 こちらは数日前につくった赤系のタテ糸。
 既に機にかかっている。
 これは「織り出し」というプロセスで、感覚を頼りに、一本一本ヨコ糸を指示する。
 この赤系の色は、インド茜や、八重山の紅露などで染めたものだ。

 織師はタヒール。
 名手シャザッドの従弟だ。
 まだ若いが非常に手が良い。
 本日掲載の写真五葉のうち、これだけが一昨日撮影。他は本日のもの。
 タヒールに託した赤系の実作サンプルが、今朝、織り上がる。
 さっそく機から下ろして、出来栄えをチェック。
 まだ水通ししていないので、張りがある。
 (たまたま真木香が美女に写ったので、大きめの写真を掲載いたそう)

 青山七周年記念なので「今までにないストールを…」という企図だが、ではどこが新しいのか?
 そのひとつは、タテとヨコにノイル(絹紡)糸を使ったこと。
 これは当スタジオでは始めての試みだ。
 単繊維のノイル糸使用により、ふっくらした風合いと、カジュアル感が醸し出される。

 それからこの斬新な格子デザイン。
 種を明かすと、その手本は昔の織りにある。
 当スタジオスタッフの大村恭子が岡山のお祖母ちゃんの家を訪ねた折、古い箪笥の中から、一枚の布が出てきた。
 おそらくは絣の残糸を利用したのであろう、「やたら絣」の座布団地であった。
 その格子柄が「すごいステキ」だったので、それを参考にする。
 できあがった実作サンプルを前に、さて本作をどうするか検討。
 同じタテ糸でも、ヨコ糸の通し方によって、いかようにも違ってくるのである。
 ヨコ糸には現在、ノイルのほか、マルダ絹、バンガロール絹、そしてボディーをつくるために中国および韓国の柞蚕糸を入れている。
 
 「格子じゃなくて、縞だけのもいいね」
 「デュピオン(玉糸)を打ってみたらどう?」
 「最近のデュピオン、細いから、いいかもね」
 「マルダを黒く染めて入れてみようか」
 「ムガシルクっていう手もあるね」
 「あんまりいろいろ入れると、八周年になっちゃうかも…」

 
さて、どんなものができるか、請うご期待。


1月30日 「デリー職人列伝」その三・織師ワヒッド


 
当スタジオ専属織師の中でも、最も有名な織師ワヒッド。
 名著の中にもたびたび登場するごとく、ニルー工房最古参&最も腕利きの織師として、長らく機場に君臨してきた。
 かつては工房のストライキを組織し、ニルー一家を震撼させたことも。
 その往年の闘士も、もう六十五歳…。
 (これはあくまで自称であり、真木千秋は「ほんとかな〜、もっと若く見えるけど…」と首を傾げている。ま、時間のあってないような国だからね。なお「ニルー工房労働争議」に関する迫真のドキュメントは名著「タッサーシルクのぼんぼんパンツ」中に収録)

 ここ十数年、一貫してMaki の布のみを織る。
 主に服地や反物だ。
 その名も「ワヒッド」と呼ばれる彼の手織は、Maki 界隈ではすっかりお馴染みになっている。
 いくつもの杼(ひ)を飛ばし、ペダルを踏み分けて織るその布は、一見シンプルだが、実はかなり繊細微妙なものである。

 現在、機にかかっているのは、「ワヒッドシルク」と呼ばれるベージュの絹織物。
 タテ糸にバンガロール生糸、タッサー絹紡糸など。
 ヨコ糸には、バンガロール生糸、タッサー絹紡糸、ナーシ糸など十二種類の糸が使われ、それが七つの杼に収められている。(写真にはそのうち四つが写っている)
 そしてペダルの数は八つ。
 どの杼を飛ばし、どのペダルを踏むか? それによって、布の表情がまるで変わってくるのである。

 かくして織られる「ワヒッドシルク」も服地。
 これを使った衣は四月に登場の予定。



1月31日 すくも &「住む」


 
冬のデリーとしては珍しい雨模様の一月晦日。
 全世界的に荒天のようで、「アブダビでさえ雨だ!」とワールドニュースを見た赤木氏が嬉しそうに言っている。
 風も吹いて寒い機場には、久しぶりに炭火が入る。
 作業はやりづらいが、ほこりしずめになるし、それなりに趣もあって、ま、たまにはいいか。
 湿気があるので、吐く息は真っ白。
 こんな日は、お茶の合間に仕事である。(いつもそうか)

 機場では毎日様々なタテ糸をつくる。
 今日は、すくも藍で染めた赤城の節糸を使ったタテ糸。
 これは昨夏、五日市「竹の家」で藍建てし、染めたものだ。
 三度、六度、九度と重ね染めして、濃度を変えてある。(私の染めた糸も入っている)
 そのほか、インド藍で同じく三段に染め分けたマルダ絹、更には「黄金のシルク」ムガ絹 (真木千秋の腰あたりに見えるボビン)、中国柞蚕糸、バンガロール生糸を使用。

 すくも藍で染めた糸を使うのは、これが初めてだ。
 「やっぱり色が違うね〜♪」という声が挙がる。
 これは織師シャザッド用のタテ糸。すなわち、今織っている「藍生葉ストール」の後に織られる。
 下の写真に見えるのが、ドラムに巻きつけられたタテ糸の一部である。

 ところで、下写真の中央でカメラを構えている人物が、写真家の小泉氏。
 季刊誌「住む」の取材のため、昨夜、来印したばかりである。
 ライターである漆芸家・赤木明登氏は既に一週間前、私ぱるばとともにデリー入りしている。

 この小泉氏、実家が八王子で機屋(はたや)を営んでいたという。
 つまり機屋の息子なのである。
 カッタンコットンという機音(はたおと)を聞くと、機屋のDNAが騒ぐらしい。
 きっと良い写真が撮れるであろう。
 被写体の真木香は織師イスラムディン用のヨコ糸を準備しているところ。
 レッドチャンダンで染めた赤褐色のバンガロール生糸だ。
 
 赤木氏はこの小泉氏とコンビを組んで、『美しいものってなんだろう』という記事を連載している。
 前号で多治見「ももぐさ」安藤夫妻が登場したのは記憶に新しいところ。
 三月発売の次号がヨーガンレール。
 そのお次が「インドのMaki」というわけだ。
 この日のために、みんなで工房の掃除をしたりしたのだ。
 インドの工房が取材されるのは、これが初めて。
 掲載される「住む」第六号は6月27日発売。さてどんな記事になるか!?



2月1日 指示書 & Dogi パンツ


 
現在デリーに滞在しているMakiスタッフ六人のうち、私と真木千秋を除く四人が明日、帰途に就く。
 それで今日は、恒例の指示書づくり。
 インド滞在中、最も忙しい日だ。

 機場には出かけず、一日中、宿の部屋で、指示書の作製に勤しむ。
 指示書というのはすなわち、ヨコ糸に何を打ち込むかを指示するファイルだ。
 この作業が延々、夜中までかかる。

 四月頭に再び来印するまでの約二ヶ月間、織師はMakiスタッフなしで織り続ける。
 その間のタテ糸は、すべてこの滞在中に作製する。
 そしてヨコ糸については、このファイルで指示を与えるわけだ。

 間違いの起こらぬよう、縮小図に糸サンプルを添えての作業。
 それを頼りに織師たちは、一本一本ヨコ糸を打ち込むわけだ。
 新作についても、すべていったん機にかけて織り出しまで終えているので、指示書さえきちんとできていれば織ることができる。
 写真は、織師ナイームの新作「春コーズ(仮名)」のためのヨコ糸選び。
 自然光で色を見るため、窓辺に陣取っての作業になる。
 (しかし新作ができるたびに、後に大きな宿題が残るのだ。すなわち何という名前にするか…。みんな言語中枢が未発達なもんだから、新作づくりより命名のほうがタイヘンなのである)

*****


 新作ついでに、パンツのニューフェースもひとつご紹介しよう
 じつはこれには私ぱるばも貢献しているのである。

 今を去る二月ほど前、養沢の茅屋を訪れた大村恭子が突如、「きゃー、カワイー!」という歓声を挙げる。
 何がカワイーのかと思いきや、なんと我が道着(どうぎ)パンツを見て叫んでいたのである。
 (肥田式修練のため、近所のスポーツ屋から柔道着の下だけ買って着用していた)
 その太くて短いスタイルが新鮮でかわいかったらしい。
 今までのMakiにはない形だ。

 そこで道着を手本に、太めでスッキリ見えるパンツを作製。
 ゴムやボタンなどを使わず、ヒモでぎゅっとしばる。
 パリッと決まる硬質なイメージ。
 それでレディースでは初めて、綿タビーの生地を使用する。(写真左側の黒・織師タヒール)
 右手のベージュはもう少し柔らかなワヒッドのウール地だ。
 企画段階では「ちょっと特殊なものかな…」と思っていたが、実際に着用してみると「意外にいろんな人々に着てもらえそう」というのが、製作者・大村恭子の感想であった。
 命名だけは早々に行われる。人呼んで「Dogi」。



2月2日 「デリー職人列伝」その四・織師ナイーム


 
この人も古い職人である。
 もう十二年もMaki のものを織っている。
 ジャカード(紋織り)機では工房随一の腕前。
 名著にも随所に登場する、いつも飄々、マイペースな織師、ナイームだ。

 この人の機(はた)には、Maki の歴史が刻み込まれている。
 たとえば、1992年から始まった「コーズ」シリーズも、このナイームが織る。
 「コード織り、畝(ウネ)織り」とも呼ばれるこのシリーズ、AからEまで六種類つくられている。
 その第一作はすべてこの機から生まれたものだ。
 最近では、マルダコーズ、春コーズ(仮名)という新作も現れている。
 
 また95年頃から織られた「シャディ」シリーズも忘れられない。
 薄手の地にタッサーギッチャ糸を織り込み、透明感と柄をともに楽しめる初めての試みだった。
 これも色や柄を変えて5〜6年織り続けられ、Maki の中では一時代を画した作品となった。
 (「ご要望があればまた織りますよ」… 真木千秋)

 下の写真は、タッサー生糸を使った新作。
 マルダ絹やバンガロール生糸、タッサー絹紡糸などの細い糸を縦横に使い、そこにタッサー生糸で小さな柄を織りだしている。
 
 柄物としては久しぶりの新作で、一昨日、ナイームの機から下ろされたばかりの実作サンプルだ。
 名前はまだない。
 さきほどホテルの屋上で撮影したもの。

 このモデル、真木香は、きっと今ごろデリーのインディラ・ガンディー国際空港の出発ロビーで、成田行きJAL472便の搭乗を待っていることであろう。
 真木香以下、四名のスタッフが、同便で帰国の途につく。
 (そのうち二名は昨晩徹夜して指示書づくりに励んだという…。もっと早くやればいいのに)

 取材班もラジャスタンに旅立ち、にわかに静かになった首都デリーである。
 (真木千秋と私は四日後に帰国予定)



2月3日 糸巻き娘


 右の写真に見覚えはあるまいか?
 そう、拙著「タッサーシルクのぼんぼんパンツ」口絵に掲載の写真だ
 場所は最初の工房、ムニルカ。
 もともとはデリー近郊の小村で、隣に牛小屋があったりした。
 その工房の周りを、織師の子供たちが遊んで回っていた。

 それを真木千秋が写真に収めたものだ。
 幼い弟を抱く少女の無邪気な笑顔が印象的。
 背後にいるのはその兄だ。

 この少女の名前はケルン。
 織師サクールの娘だ。
 これは八年ほど前の写真。
 その後、あの子はどうなったろう…

***

 さて、久しぶりに晴れたデリー郊外の機場。
 娘(?)たち四人が去ってしまったので、いささかの寂寥感がある。
 人気者のタテ糸職人・パシウジャマも、ちょっと気抜けの体だ。

 さきほど、真木千秋が携帯電話で、日本にいる真木香と金森愛に連絡を取る。
 (右写真・日本のケイタイと比べるとちょっとデカイ)
 なんでも、ベッドカバー「アンデス」のサンプルはどこかとか、日本から持参の木灰はどこかとか、聞いている。
 後に残されると、いろいろ不自由なものだ。

 しかし、機場から日本に直接電話できるなんて、やっぱり隔世の感。
 音質もけっこうクリアなのである。
 ともあれみんな無事帰国したようだ。

***

 機場の傍らでは、いつもの通り、織師の妻や娘たちが糸を巻いている。
 糸は通常、カセの状態で供給され、また染めを施される。
 しかしカセの状態では機にかからない。
 そこで糸車を使って、ボビンやギッタに巻き取るのだ。
 それが女たちの仕事である。

 その中に、あのケルンがいた。
 今年から糸巻きに加わったという。
 歳は十五になる。
 母親と並んで、父親のために糸を巻いている。
 
 実は今日、拙著を持参したのだ。
 その口絵写真を見せると、大喜び。
 母親譲りの器量よしで、仕草もすっかり大人びてきた。
 でもその笑顔には、昔日の面影がうかがえる。




2月4日 孫弟子


 機場にかつて、バサントという名の工房長がいた。
 染師も兼ねていたこのバサント、仕事熱心で誠実な人柄ゆえ、職人たち&Maki の信望も厚かった。
 ところが一昨年、心臓の病で急逝してしまう。
 三十代後半の働き盛りであった。
 職人たち、そしてMaki の悲しみは限りなかった。
 失ってみると、今さらながらその存在の大きさを知る。
 現在、三人の若者がその跡を継いでいるが、三人束になっても、なかなかその穴は埋めがたい。

***

 今から十余年前のこと。
 私たちがインドに通い始めた頃、工房の染めはすべて化学染料が使われていた。
 もともと植物染料の宝庫であったこの地も、20世紀中葉まで続いたイギリス統治下で、その伝統がほとんど途絶えてしまった。
 そこで不肖・私ぱるばが、インドで草木染めの指導を行ったのだ。
 隣州のジャイプールに一軒、植物染材を扱う店があったので、はるばるタクシーで出かけて、いろいろ仕入れてきたりした。
 その間の事情は、拙著に詳述してあるので、ご参照のほどを。

 そして、そのときの生徒が、バサントだった。
 彼は化学染料でも染めていたが、やはり草木染めの方が気に入ったらしい。
 飲み込みも早く、楽しそうに染めていた。
 爾来、Maki のたとえばショール用の糸は、ほとんど植物材料で染められるようになった。

 数年前から、キシャンという若者が染場で働くようになった。
 バサントのもとで、その助手を務めていた。
 そしてバサントのいなくなった今、その跡を継いで、工房の染め主任となる。
 すなわち私の孫弟子にあたるわけ。
 なかなか色出しが上手と、真木千秋の評判もいい。
 一見イカツイ顔立ちだが、心根の優しい若者だ。
 今でも「バサント」という言葉を耳にすると、Makiスタッフ金森愛とともに涕泣するのである。
 (ちなみに彼は金森愛のお気に入り)

 写真は AA7(青山店七周年記念ストール)用の糸染めチェック。
 ベンガル産のマルダ絹を、インド茜で染めたものだ。
 「ちょっと黄味が弱いわねー」とか言っている。
 もちろん日本語も英語もわからないから、間に通訳が入る。
 (キシャン君、ちょっと英語の勉強も必要だねェ)

 インド茜は日本の染料店にも入っているので、ご存じの方も多かろう。
 左側の手に載っている長細い物体がそれだ。煮出した後だから膨らんでいる。
 (ちなみにこの手は今回初出演の私の手)
 右側の手はキシャン。染液に漬けた後のマルダ絹を持っている。
 (私がそもそもの大先生だとは知らぬ様子)

 もともとが黄繭だから、茜で染めるとオレンジ色になる。
 それを媒染によって色出しする。
 今日の媒染剤は灰汁。
 この灰は私が日本から持参したものだ。
 それも、養沢の暖炉で薪を焚いた後の灰。
 その薪は私が五日市の山野をかけずり回って集めてきたものだ。

 みなさん、もし御縁あってAA7ストールを手にされることがあったとしたら、そのあたりの輪廻転生というか、有為転変というか、空即是色をば、思い起こしていただけたらと思う。



2月5日 群像


 季刊誌「住む」取材班の赤木&小泉両氏が、再び機場を訪れる。
 天候がすぐれなかったので、二日ほどラジャスタンに遊び、マハラジャの宮殿を泊まり歩いたのだという。
 (宮殿をリフォームしたホテルの客室は妖艶な雰囲気に満ち満ち、にわかやもめ同士の同室はいささか辛いものがあったらしい)
 両人は昨日、無事デリーに帰着。

 その間に天気も回復し、今日は絶好の撮影日和となった。
 雲ひとつない青空。気温は20度くらい。
 日本に帰りたくなくなるような陽気だ。

 右の写真は、取材のひとこま。
 右端の白い人物が赤木氏、その左側にカメラを構える小泉氏。
 左側の白い建物が工房の一角。
 その前に立っている人々が、Maki 専属の織師たちだ。
 真ん中に白い衣の真木千秋がいる。

 この写真ではよくわからないが、織師たちはそれぞれ自分の織った布を携えている。
 滅多に写真に撮られることのない人々で、しかも遠国日本からスゴイ機材を持参したカメラマンがやってきたものだから、みんないつになく緊張しちゃって、直立不動の体である。
 しかし撮影されるのは基本的にイヤじゃなかったらしく、緊張の解けたあとは、けっこう嬉しそうにはしゃぎだして、布を羽織ってみたり、頭に巻きつけたり、そもそも衣服の趣味も壮絶だったりするから、さてどんな写真になることやら…。
 この写真は取材記事の扉を飾るみたいだから、まことに楽しみなことである。



2月6日 ニルーのいる最終日


 今、インド時間午後6時44分。
 デリー国際空港出発ロビーで、成田行きJAL472便を待っているところ。
 右の写真は、二時間ほど前に撮ったものだ。
 やっぱ最後だからね〜、肝腎な人物を忘れてはならない。
 そう、ニルー姉御である。(photo by Y.Koizumi)

 場所はニルー家のリビング。
 空港の近くにあるから、帰りには必ず寄って、後事を託すのである。
 現在の Maki Textile が存在するのも、そもそも今から十七年前、真木千秋とこのニルーの出会いがあったからである。(詳しくは拙著参照)

 私ぱるば(写真右)が首から垂らしているのは、さきほどニルーからプレゼントされたもの。
 タテ糸にシルク、ヨコ糸にパシミナを使い、ニルー工房で手織したショールだ。
 このパシミナはもともと、ラダック地方に棲む山羊の毛。それをクル谷で手紡ぎしたものだという。

 よく似合うでしょう。
 姉御のお見立てだからね。
 同行の赤木氏・小泉氏もそれぞれニルー工房の手織ショールをプレゼントされたようだが (うらやましい!?)、やっぱ私のが一番上等みだいだな。
 ただ、空港内は暑いので、首から外し、ターバンみたいに頭に巻いている。
 けっこう妖しい魅力を放っているが、ちゃんとイミグレは通過できた。

 …というわけで、今、8時29分。デリー空港を離陸したところ。
 あと6時間30分後に成田到着だそうだ。

 機長からのアナウンスによると、強い西よりのジェット気流に乗って飛行しているそうで、時速千百キロを超えている。
 すげーはえー! (標準語訳「すごく速い」)
 それでは久々に和食を頂戴して、それから一眠りするとしよう。




2月9日 番外篇 ― My Office in India


 というわけで、四年ぶりのインド実況中継であった。
 実際、ほかにすることもなかったので、ちょうどよかった。
 (すなわち、布づくりが滞りなく順調に進んだということ)

 「どうやってインドから中継するんだろう」と首をひねった方もおられるだろうから、ここでちょっと種明かし。
 いや別に難しいことではない。

 右写真が工房内での私の事務所である。
 じつはここ、糸の倉庫なのだ。
 糸巻きギッタの麻袋がいっぱい。
 その薄暗い一角で、ただひとり、薄暗く、パソコンごっこ。
 外だと明るすぎて画面が見づらいのだ。
 もちろん机などないから、籐の丸椅子をテーブル代わりに使う。
 ちなみに写真中の私は藍染の作務衣を着ている。
 窓外の人物は真木千秋であろうか。

 そして夕方、ホテルに帰ると、ネットに接続し、記事をアップロードする。
 わりあいに簡単だ。
 六年前に初めてインドから現地中継したときには、ほとんど「離れワザ」という感じだったが、今回はだいぶ状況も改善されている。

 インドでは、モデムや電話のモジュラージャックなど、日本のものがそのまま使える。
 ホテルの部屋からネットする場合、接続は日本の場合と基本的には同じ。
 すなわち、部屋の電話線をパソコンにつなぎ、ゼロ発信で市内のアクセスポイントに接続する。
 プロバイダはローミングでもいいだろうが、ウチはインドに長期滞在するので、現地プロバイダと契約している。
 二年ほど前からnow-indiaという民間のプロバイダを使っているが、今回はすべて一発接続であった。

 以前、国営プロバイダを利用していたときは、ダイヤルしてもほとんどいつも話中で、五つ六つあるアクセスポイントをとっかえひっかえトライし、苦闘数十分の後、やっと接続……てなこともたびたびだったから、それに比べるとやっぱ隔世の感である。
 ただ、速度はあまり出ないけどね。
 一度、測定してみたところ、20kほどだった。
 それでも1M以上ある添付ファイルも受信できたし、インドのインターネットもだいぶ使えるようになってきたという感想。

   PC:Macintosh PowerBook G4 / Camera:Canon IXY Digital200
  



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