絲絲雑記帳 2010

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7月6日(火) ラケッシュの華麗なる転身

 久しぶりに竹林に来訪する人は、驚くかもしれない。
 エプロンをして厨房に立っているはずのラケッシュ君が、母屋で機織りしていたり、外で糸染めしていたりするからだ。
 特に、インドランチを期待して来た人など、「いったいどうしちゃったの??」と思うに違いない。
 そう、彼は華麗(カレー!?)なる転身をしたのだ。

 一般のインド人からすると、ぜんぜん華麗じゃないかもしれない。
 「シェフから機織り??」…
 インド人にとっては手織りなど、たとえばお得意のIT産業などに比べると、ハイブリッドカーと牛車くらいの懸隔があるわけだ。なんで今さら牛車に乗り換えるの?って感じだろう。

 しかし来日して四年。
 弊スタジオの活動に親しく触れてきたラケッシュは、その牛車に秘められた曰く言い難い(いわくいいがたい)先進性を敏感に察知したのであろう。
 「僕も染織をやりたい!」と言い出したのであった。

 ラケッシュの両親はヒマラヤの麓、ウッタラカンド州の出身。そこから首都デリーに上京し、一家を営む。
 ラケッシュも首都デリー出身の、言ってみればシティボーイだ。ここ五日市に来た頃は、あまりに田舎すぎてずいぶん淋しい思いをしたらしい。
 しかし四年経つうちに、だんだん田舎の魅力を発見するに至る。
 そして昨年、意を決して両親の故郷ウッタラカンド州の片田舎に土地を購入。
 今年になってそこに染織工房を設けたのである。
 もちろん、その裏には真木千秋の全面的なサポートがあったのは言うまでもない。
 真木千秋にとっても、ヒマラヤの人々と未知なる染織素材が実に魅力的に映るらしい。

 ラケッシュ家の家族(父母姉妹)は最初みんな、「いったい何を考えてる。なんで便利なデリーを離れてあんな田舎に!?」と反対する。
 しかしラケッシュの揺るぎない信念と熱情には抗いきれず、今では一家揃って彼を応援している。
 工房の名前は、Ganga Textile Studio。
 Ganga(ガンガー)というのは近隣を流れるガンジス川のこと。そしてまた、ラケッシュの母親の名前でもある。
 現在は織り職人がひとりだけの、小さな工房だ。
 
 11月に竹林ShopでGangaのお披露目があるが、それに向けて、既に物づくりが始まっている。
 現在織られているのは、ウールのショール。
 素材となるウールは先日、ラケッシュが山奥の村に出かけて見つけてきたものだ。白、黒、茶、ベージュなどいろいろ。すべて天然色。柔らかくてショールには最適だ。(写真右上)
 ウール探しの旅はちょっとした冒険紀行だったようだ。その様子は晩夏に発行される「絲通信」にラケッシュみずから記事を書いているので、お楽しみに。
 彼が今試織しているのは、そのウールを使って真木千秋が新たにデザインしたものだ。写真右下の右側が完成品。左側はシルクと交織したもの。

 私ぱるばも来月初旬に現地を訪れるので、またいろいろお伝えしたいと思う。

 

 


7月11日(日) 竹林ブログと「日記の仕分け」

 みなさんつとにご存知であろうが、「竹林ブログ」というものができた。
 先月の4日からだ。
 もともと大村恭子の発案なのだが、じゃやってみるかと、わりあい気楽に始めてみた。
 スタッフが書くのだという。
 どれほど続くのかいささか疑問ではあったのだが。
 そもそも弊スタジオには、文筆系があまりいないのだ。
 それでも、もうひと月以上続いている。
 しばらくはこのまま行くのかな。
 最近は曜日ごとに分担して書いているようである。
 今日は真木千秋の番らしいが、今(18:48)ハタ織りしているし。更新はされないかも。
 先日はラケッシュまで日本語で書いていた。
 執筆者が8人もいるから統一性はとれないんだが、いろんな視点からMakiの実態を描くというのも面白いであろう。

 それに伴っていままで二つあったHPの日記(「竹林日誌」と「いといと雑記帳」)もひとつにまとめる。
 その書き分け基準も微妙だったので、ちょうどいいから、この機にリストラしてひとつにする。
 タイトルはいちおう「絲絲雑記帳」。そのうち変えるかも。
 ちなみに、初代タイトルは「MAKITEXTILEの日々好日」、次は「ぱるばのMaki的日記」、そして「竹林日誌」&「いといと雑記帳」。
 14年も書いているといろいろ変遷もあるものだ。
 右上のリンクを押すと、昔のものからいろいろ見られる。
 ま、ブログともどもよろしくおつきあいのほどを。
 感想などこちらにメールしてくれると、みんな励みになるであろう。


7月12日(月) アオゲラ

 先日の竹林ブログにキツツキのことが書いてあった。
 酒井美和がスモモの大木にキツツキの営巣を発見したのだ。
 鳴き声は前々から気づいてはいたが、私ぱるばはヤマセミだと思っていた。 (80円切手の鳥)
 美和がキツツキだというから、気をつけて見ていると、はたしてアオゲラのつがいだった。
 誉めてつかわそうと思って、美和に「あれはアオゲラだな」と言うと、
 美和、「いいえ、キツツキです」 とキッパリ。
 私、「だからアオゲラだよ」
 美和、「キ・ツ・ツ・キ。私ちゃんと見たんだから」(問答無用!)

 これが弊スタジオ、現在の番頭の実態である。
 布以外の話はほとんど通じないと思っていい。
 あとは推して知るべし…。

 と思っていたんだが、昨夕、同じことを最年少の浜野香に言うと、
 「やっぱりそうですか」と、そんなの当たり前じゃんという風情。
 私、「なんで知ってんの??」
 香、「こうちゃんが言ってました。このへんにいるとしたら、コゲラかアオゲラだって」
 ウ〜ム、こうちゃん、恐るべし。
 こうちゃんというのは、浜野香の彼氏で、野鳥の専門家なのだ。
 それを脇で聞いていた丸山佳代、「私もこうちゃんみたいな人がイイ〜」
 ほとんど話の脈絡のない弊社スタッフの面々だ。

 アオゲラというのは背部の緑色の美しい鳥である。
 その姿をみなさんにもご覧に入れようと、昨日から望遠レンズ持参で張っているのだが…。
 こういうときに限って、姿を現さないのである。
 もう巣立ってしまったのかな!?


7月15日(木) 明日からインド

 明日からひと月ほどインドだ。
 いや、私ぱるばの話。
 まずデリーで二泊し、それから南インドへ。
 7月31日にタミル州のインド藍産地を訪ねる予定。(7月31日)
 それからまた8月8日に北へ飛んで、ヒマラヤの麓、デラドンの新工房へ。
 折々、インドより発信すると思うので、請うご期待。
 竹林ブログは私のインド行きとは関係なく日々更新されると思うので、そちらもよろしく!!
 


7月16日(金) インド到着

 JAL749便にてインド到着。
 夏だから偏西風も強くなく、成田から8時間ほどのフライトだった。
 それにしても荷物が重かった。主に真木千秋から託されたものだったが、28kg!
 何が入っているのかと思って、宿について開けてみると、即席のきつねうどんとか、納豆ソバとか、山菜ソバとか…。
 それはまだ良いとして、なに、カレーうどん!?
 そんなもんわざわざインドに持ってくるな! インド人が泣くぜよ。
 (でも案外喜んで食ったりして)

 東京はなんか梅雨明けみたいな入道雲が出ていたが、こちらはまだ雨期の最中。
 午後5時の外気温は35℃であった。



7月17日(土) マンゴー・ランチ

 今日は昼ごろ、針場(はりば)へ行く。
 縫製工房のことだ。
 ここの女主人はアミタ。
 Makiのパートナーであるニルーの義妹だ。
 いつもMakiのスタッフのために、美味しい昼ご飯を作ってきてくれる。
 会長の私が久しぶりに出向くんであるから、さぞかし豪勢なインド昼食が出るであろう…
 と、秘かな期待を胸に宿を出る。
 パソコンのセッティングの仕事があったのだ。
 パタパタと回る扇風機の下、テーラーたちがMakiの衣を縫製している。
 そのミシンの音をBGMに、黙々と仕事に励む私。
 しかしながら、いつまでたっても昼食の声がかからない。
 そのうち、「ぱるば、おなか空かない? 今日は何も持ってきてないのよ。私ランチ食べないの。ハハハハ」
 と、屈託のない笑い。
 「ハハハハ」と言われても、空腹は癒えないのである。
 なんでも、最近ダイエットにトライしているらしい。
 たまたま近所にあったニルーの事務所へ行く用事があったので、どこか飯屋で済ますことにしよう。
 ここはデリーの下町で、狭い露地が縦横に走っている。
 とある街角に佇むフルーツの行商人。見るとマンゴーを売っている。
 ちょうど良い。コレにしよう。今年はまだほとんど食べてないし。
 マンゴーにもいろいろあって、LangraとDeseriという品種が今、旬であるらしい。
 二種取り混ぜ、5つほど買う。
 手前の大きい二つがラングラ、後方の三つがデセリ。
 ラングラは食べでがあり、デセリは甘味が強い。写真を見るだけでも香りが漂ってくるではないか。
 Vサインが嬉しそう。これが今日のランチ。
 すこぶる美味。
 ビタミンAも豊富。
 が、しかし、後にちょっと腹痛が…。

 教訓:郷に入りては、ほどほどに。
 


7月19日(月) ベイビーの偉業

 インドのMaki界隈でベイビーと呼ばれていた存在がある。
 一昨日登場した縫製工房主アミタの娘・ヤドビである。
 私たちが初めてヤドビに会った頃は、ほんとに小さな赤ちゃんで、みんなにベイビーと呼ばれていたのだ。
 とても人なつこく、チャキ・アンティ(チアキおばちゃん)ともよく一緒に遊んでいた。
 そのベイビーも先ごろ成人し、今は服飾デザイナーを目指して勉強中。

 なかなか頑張っているようだ。
 今春行われたインドのランジェリー・ファッションショーで、ヤドビはみごと一等賞を取る。
 右がそのときの写真だ。
 真ん中の小さなのが、ベイビー・ヤドビ。
 その左に立っているモデル嬢のランジェリー(緑)が、ヤドビの作品。
 手織りの布を使って、自分で縫製したんだそうだ。さすが、ニルーの姪、アミタの娘。
 9月にロンドンで本選があり、ヤドビはインド代表として参加する。アミタ夫婦もそれに乗じてイギリス見物をしてくるらしい。
 ちなみに、写真の中の小さい三人が入選したインドのデザイナー(の卵)たち、ランジェリーを着てる三人がブラジル人のモデルとのこと。

 まあ、すぐにウチの衣のデザインを…というわけにもいくまいが、こうしていろいろ経験を積むのも良いことであろう。
 ともあれ、母親のアミタはそれが嬉しくて仕方ないらしく、一昨日も作業中にだいぶ話を聞かされたものだ。
 どこの国でも親というのは同じようである。
 


8月1日(日) インド藍の里を訪ねる


写真1 藍畑でアンバラガン氏と


写真3 上下二槽の発酵プール


写真5 作業衣姿の人夫たち


写真7 煮沸後に濾過する


写真9 一月かけて乾燥させる

 



 現在、南インド滞在中の田中ぱるば。
 昨日は、インドに里帰りしたラケッシュと合流し、タミルナドゥ州の北部にあるインド藍の産地にでかける。

 亜大陸というくらい広いインドだから、北と南ではまるで違う。北インド出身のラケッシュにとっては、初めての南インド。ヒンディー語もほとんど通じず、まるで外国に来たみたいだ。

 さてここタミルナドゥ州の藍産地。四年ほど前に続いて二度目の訪問だ。
 製藍業者のアンバラガン氏が出迎えてくれる。(写真1。藍畑の中で)。伝統的な手法で藍を作っている人だ。
 製藍の季節は8月から11月ということだが、今年は一週間ほど前から操業を開始したということで、ちょうど良かった。
 多忙の中、あちこち連れ回し、いろいろ見せてくれるアンバラガン氏。

 まずは藍の収穫だ。(写真2)
 農婦たちが鎌で収穫し、トラクターに積んでいく。播種後90日から収穫できる。
 インド藍はキアイと呼ばれるごとく、マメ科の小灌木だ。葉っぱのついている上部を刈り取り、下の株を残しておく。するとそこからまた小枝が生え、もう一度収穫できる。今年はまだ雨が少なく、作柄はイマイチだそうだ。

 お次は製藍場。
 藍を作るための水槽は上下二槽の構造になっている。(写真3)。上の槽に藍草を漬け込む。午前中に刈ったものを昼ごろに入れて、水を張るのだ。そして木の棒を渡して押し込む。翌朝、自然発酵したところで、その液を下の槽に流し込む。
 昨日は午前11時ごろだったので、藍草はすでに引き上げられていた。(写真4)。匂いをかいでみると、ほのかな発酵臭。この藍ガラは堆肥にするという。
 下槽に流し込まれた発酵液は、人力で撹拌され、それによって藍は酸化・沈殿する。写真5が下槽で、既に撹拌作業が終わり、液は沈殿の過程にある。横に並んでいる男たちが脚を使って自転車のように撹拌作業にあたる。
 翌朝の5時に上澄みを抜き、沈殿物を集め、大きな鍋で1〜2時間、煮沸する。(写真6)
 それを濾過し、型の中で固め、切って乾燥させ、私たちの知るインド藍ができあがる。(写真7〜9)

 最近はこうした天然藍の需要が世界的に高まっているようだ。
 4年前には年産1トンにも満たなかったアンバラガン氏の生産量だが、今年は5トンを見込んでいるという。そのうち韓国への輸出高が1.5トンとはちょっと驚き。そのほかスイスとかブラジルへの輸出が多いそうだ。インド国内での需要も徐々に高まっているそうだ。
 しかしながら藍生産はタミルナドゥ州のみに限られ、業者数も3〜4軒ということで4年前と変わっていない。アンバラガン氏がひとりで頑張っているような状態だ。それでも契約している藍畑を拡張したりするなど、今のところは順調に推移しているようである。二番目の息子も今アメリカの大学で商学を勉強中で、いずれ父親の仕事を手伝うようだ。
 ともあれ、インド伝統の産業なので、しっかり守って欲しいものだ。我々も微力ながら応援したいと思う。

 そのほか、近年とみに需要の高まっている物に、藍葉のパウダーがある。これは藍の葉っぱをただ乾かして粉にした抹茶状の物体。これで白髪染めをするんだそうだ。ただ、藍葉粉のみだと青味ががるので、ヘナの粉と併用する。藍とヘナが半々だと黒色、4対6の割合だと茶味がかるということ。天然の染髪料として注目されているらしい。写真10がその乾燥場。
 髪の毛が染まるならウールや絹も染まるだろうということで、藍葉パウダーも研究してみることにする。

 
写真2 藍草の収穫


写真4 一晩置いて引き上げられた藍草ガラ


写真6 藍を煮沸する大鍋。煮沸中で煙い。


写真8 乾燥前の泥藍


写真10 藍葉の乾燥場

8月8日(日) 驟雨のデラドン

 南インド滞在を終え、飛行機を二つ乗り継ぎ、北部のデラドンにやってきた私ぱるば。
 飛行機でこの地を訪れるのは初めてだが、その緑の豊かさに驚く。
 ジャングルとはもともとヒンディー語だが、眼下にはまさにジャングルが広がっている。
 空港に降り立つと、わりあい間近に山々が連なり、なんとなく心安い。あきる野や我が故郷の信州に通じるものがある。

 空港にはラケッシュとその従弟ビーマが出迎えに来てくれる。
 Ganga工房は空港から十分ほど。交通至便だ。
 デラドンはウッタラカンド州の州都。しかしここは市心から20kmほど離れている。ヨガ道場で有名なリシケシの方が近い。

 工房は田園地帯のただなかにある。
 塀の向こうには田んぼが広がり、田植え後ひと月ほどたった稲がすくすくと育っている。
 日本人にはなつかしい風景だ。
 しかしコブラも出るというから、やっぱりインド。1kmほど先には自然公園があって、野生の象もいるという。

 Ganga工房には、ラケッシュとビーマのほかに、真木千秋と、二人の織師と、ラケッシュの父母と、祖父母と、妹夫婦と、その息子と、伯父と、大伯母と、それから誰だかわからない人々でにぎやかだ。
 なんでも、この辺にはこうした「事業所」がひとつもなく、村人たちが珍しがってやってくるのだそうだ。
 特に少女たちが興味を持って、手伝いたいと申し出る。
 そこでラケッシュの姉サンギータを中心に、外にコット(簡易ベッド)を出して、みんなで布のフリンジを整えたり、裂き織り用のヒモを作ったり。

 ときは今、雨のしたしるモンスーン。
 雲行きが怪しくなり、ほどなく天をひっくり返したような豪雨になる。
 あわててコットやら椅子やら布やらを軒先に入れて、作業継続。(写真右)
 なんとなく、村の協同作業所みたいな風情である。
 雨は夜になっても断続的に降り続く。
 稲もきっと喜んでいることだろう。


8月9日(月) ウッタラカンドの絹糸

 Ganga工房では、できるだけ地元ウッタラカンド州の素材を使いたい。
 ウールに関しては、北方の山中にあるドンダ村で手紡ぎの糸を見つけた。それを使って既にストールが織られている。
 次はシルクだ。
 ターゲットは、家蚕糸、そして野蚕のエリ蚕糸とオークタッサー糸。
 そこで今日は工房関係者五名で州都デラドンを探検することにする。
 
 探検といってもとりたてアテがあるわけではない。
 とりあえず、ネットで見つけたインド繊維省蚕糸局の施設に飛び込むことにする。蚕種生産場だ。
 所長に会わせてくれと言うと、簡単に所長室に通される。こういうとき日本人はトクだ。じつは私はそれに備えてヒゲも伸ばし、できるだけシニアの日本人ビジネスマンに見えるよう努めたのである。(あんまり見えないか)
 所長のカトーリ博士(上写真左)はそんな見ず知らずの私たちに対して、懇切丁寧に同州の絹糸生産の現状を説明してくれる。
 ここデラドンでは、野蚕糸の入手は難しいが、家蚕糸なら手に入るという。
 そして、生繭が欲しければ、この蚕種生産場の繭をわけてくれるそうだ。高品質の繭だというから、Makiで引いている座繰り糸と同じような糸がここGanga工房で引けるかもしれない。ここで生産している繭は中国♂と日本♀のハイブリッドで、四月と十月が繭ができるそうだ。

 カトーリ博士の紹介で、市内の別の繊維省機関も訪ねる。製糸関係の施設だ。
 ここの所長・シン博士からも州内の絹糸事情をうかがう。そして近所の製糸場を紹介してもらう。
 この製糸場で機械繰糸されている絹糸は、残念ながら細すぎてあまり使い道がない。Makiの好むような手引きの糸は、市内では生産されていないようだ。
 これはやはり自分たちで引くほかあるまい。幸いこの製糸場では乾繭もわけてくれる。さっそく座繰りの練習用に2kgほど繭を買い込む。

 さて、野蚕はどうなったか。
 州内では、オークタッサー(温帯タサール蚕)とエリ蚕が生産されている。
 しかしそれは山地の産業だという。
 そこで私たちは、明日から二泊三日の予定で、ヒマラヤ山中へ野蚕探しの旅に出ることにしたのである。
 朝の5時発だからね、そろそろ寝ないと。
 

桑の木とカトーリ博士(左端)


繭を仕分けする婦人

  8月10日(火) グプタカーシの夜

 朝の六時前、トヨタの六人乗りに乗り込んで出発。
 昨日の五名(真木千秋、ラケッシュ、工房長サンジュ、従弟ビーマ、私ぱるば)+運転手だ。
 行き先はウッタラカンド州北部のグプタカーシ。
 昨日初めて知った名前だ。
 当地でATIというNGOが野蚕のプロジェクトに取り組んでいるという。
 昨日会ったカトーリ博士は「ぜひ行ってごらんなさい」と言い、シン博士は「こんな雨期に出かけてもたどりつけないよ」と言う。
 たまたまデラドンに来ていたATIの担当者に会ったところ、「大丈夫、いらっしゃい」との答え。でも、宿を予約しようかと言うと、「いや大丈夫、この時期に行く人はいないから」とのこと。う〜ん、どういう大丈夫なんだろう!?
 しかし今こそが野蚕の収穫・製糸の時期だというから、ぜひ見てみたいものだ。それで急遽、タクシーをチャーターし、二泊三日の旅に出ることにする。

 工房からリシケシに出て、それからひたすらガンガー(ガンジス川)を遡ること八時間。
 ま、この中には、朝食とか、お詣りとか、お茶とか、昼食の時間も入っているのだが、ともかく午後三時頃、目的地に到着する。
 雨期(モンスーン)の最中だから、あちこち崖崩れがあったり水溜まりがあったり、とにかく道路の状態が悪い。
 そしてチャーターしたトヨタは四駆じゃないから、果たしてたどりつけるのか、ちょっと危惧したものだ。
 右写真のようなところを走るわけだ。雨期のせいで水かさは増し、河水は濁っている。谷側に座ると、大スペクタクルだ。
 ちょっと信州の峠道を思わせるところもあるが、やはりスケールが違う。
 真木千秋は怖がって、いつも山側に座っていた。落ちる時には一緒なんだが。

 ここグプタカーシは標高1500m。
 日中はなんとかもったが、夕方から雨が降り出す。
 時にはかなり雨脚が強まり、今(23:39)も降り続いている。
 こんなんで明日は動けるんだろうか…というか、果たして我々はデラドンに帰り着けるんだろうか。二駆の車で。
 停電してるし。
 ともあれ、ここATIは野蚕についてかなりおもしろい活動をしている。
 それについてはまた改めてお話したい。


8月11日(水) 雲上のチャパティ

 結局、昨夜は一晩じゅう雨であった。
 朝食後、断続的に雨の降る中、オークタッサーの探検に出かける。

 一番上の写真が、私たちの滞在するグプタカーシの町だ。
 すごいところでしょう。
 棚田が圧巻。稲や雑穀がつくられている。
 写真の中央上方、↓の白い建物が、今、私たちの居るところ。
 NGOであるATIの建物だ。
 左端に滝が見える。

 谷の向こう側に渡って、オークタッサーの機場(はたば)や、紡糸場、染め場を見学する。
 夜通し雨だったから道が心配だったのだが、案の定、危機が二度あった。
 一度目は機場の後。崖の崩落によって、道路がふさがっている。

 特に巨石がひとつがんばっていて、これはブルドーザーじゃなきゃ無理だろう。
 ところが、通せんぼを喰らった人々が力を合わせ、ほとんど素手ながら三十分ほどで巨石を排除。なんとか片側だけ車を通す。ウチのラケッシュ君やNGO職員も排除作業に奮闘するのであった。
 二度目は紡糸場の先。ものすごいぬかるみで、ウチのトヨタが進まなくなる。やっぱ二駆じゃダメなんだ。しかし、その場に居合わせたオジさんとウチの運転手とでぬかるみをいじくり、なんとか車を通す。やはりインドに不可能の文字はないのだ。

 やがて昼食。山奥の道路端にある簡易な飯屋に入る。
 飯屋の脇には滝が水しぶきを上げている。実際、今日はあちこちに滝があった。「日本の滝百選」クラスのも幾つかあって、そのたびに我々は歓声を挙げる。
 飯屋を切り盛りするのは若い夫婦で、農作業の合間にやっているそうだ。幼い子供が二人いる。
 手持ちの高度計(iPhone)を見ると、標高二千メートル。雨後で湿度が高いせいか、吐く息が白い。
 昼食の準備に一時間かかると言われるが、今日は時間があるのでOKする。
 ここはあまりに山奥すぎて、電気も来ていない。そして調理は薪のカマドだ。
 最初に運ばれてきたチャイは、少々、煙の匂いがする。薪でチャイを淹れるとそうなるのか。
 ヨメさんが飯屋の前を流れる雨水の小川でマメを洗っている。
 標高が高いからか、土のカマドの上には二つ圧力釜がのっかっている。恐らくは米と豆だろう。
 時間がゆっくり流れ、一時間半ほどして、やっと昼食になる。
 ジャガ芋のサブジとラジマ豆のカレーだけのシンプルなものだ。
 しかし、チャパティも薪のカマドで焼かれるのであった。
 これはご機嫌である。
 右側の写真にあるごとく、まずカマドの上の鉄板で両側を焼き、それからカマドの中に放り込んで、プッと風船のごとく膨らませるのだ。
 一番下の写真がその風船チャパティ。灰などがついていて、いかにもウマそうではないか。
 実際、香ばしくてウマいのである。これだけでも良いくらい。
 町場の飯屋ではまずお目にかかれない。
 昔はみんなこれを食べていたはずだ。今でも村に行けば人々はこれを常食にしている。まことにうらやましいことである。
 みなさんからご希望があれば、ラケッシュ君も竹の家のカマドでやってくれると思う。
 どう、食べてみたい? 炭火焼きチャパティ。

 


グプタカーシ望見


標高二千メートルの飯屋



薪のカマドでチャパティを焼く


炭火焼き風船チャパティ


8月13日(金) ウールの仕事

 昨夕、グプタカーシから戻る。
 ヒマラヤ山麓は一日雨模様だったが、こちらはわりあい好天だったようだ。
 一夜明けて、またいつもの工房の営みが始まる。
 毛糸の玉がゴロゴロしているのが、この工房の特徴的な風景だ。(上写真)
 左側には織り上がって水通ししたウールショールが干されている。
 現在はウールが主素材だ。
 前にも書いたように、ここウッタラカンド州の北部には良い手紡ぎウールがある。
 手紡ぎのウールのみで織物をするのは、Makiにとってこれが初めてだ。

 下の写真は新作の「ヒモつきマフラー」。
 マフラーの横からヒモが伸びている。
 このヒモは、何本かのヨコ糸をフェルト化して作られる。
 真木千秋がその実験をしているところ。

 この手紡ぎウールは、今年1月、ラケッシュとビーマがドンダ村へ出かけて見つけてきたものだ。
 そして今朝突如、私ぱるばの滞在中にもう少しウールのことを探ってみよう…という話になった。
 ホントは今夕のJAL便で帰国する予定だったのだが、こういう話にはすぐに乗るタチだ。
 ドンダ村というのは、チベット系住民の住む織りの村だそうだ。
 これは行くべきであろう。
 そこで武蔵五日市のスタジオに電話してJAL便を変更してもらい、急遽、準備にかかる。
 例によってインターネットで関係筋を調べ、男たち四人で車に乗り込み、デラドン市内の州政府機関に出向く。「手機手工芸振興公社」だ。
 担当のオジさんがいろいろ親切に教えてくれた。

 というわけで、明日はまた早くから、ヒマラヤに向けて出発だ。
 そういえば昨日、朝のニュースの中で、ドンダへ行く道が土砂崩れで通行止めという話があった。
 果たしてたどり着くのであろうか。

 







8月15日(日) ある羊飼いの物語

 Ganga工房にマンガルという織師がいる。
 ガンジス川上流にあるウールの里、ドンダから来た人だ。
 今年五十歳になるという。

 このマンガル、若い頃十年ほど、羊飼いをしていた。
 羊飼いというと、広大な草原でのんびり羊を追うというイメージがあるが、ここガンジスの谷ではちょっと事情が違う。
 その牧場(フィールド)は、ガンジス源流の標高三千メートルを超えるガンゴトリから、ヨガ道場で有名なリシケシ(標高340m)に至る、約250kmのジャングルだ。

 夏のこの時期、羊たちはガンゴトリの更に上で草をはんでいる。
 9月になると、ガンゴトリからやや下ったハーシルという町で、毛の刈り取りだ。
 そして、季節の進みに合わせて、ガンジスの谷を下っていく。
 下るといっても、道路を下るわけではない。急斜面のジャングルの中を、草をはみながら移動するのだ。
 もちろんジャングルの中に宿はないから、牧童たちは羊の背にテントや衣類、食料を背負わせながら一緒に移動する。調理用の水や薪は現地調達。夜は平らな土地を見つけて横になる。
 自宅のあるドンダは、ガンゴトリとリシケシのちょうど中間あたりだ。羊たちがその近辺を通過する時、牧童たちは久々に家族とまみえ、束の間の休息を取るのであろう。
 一番寒いのは12月末、そのころ羊の群はリシケシまで下り、1月には毛の刈り取りがある。
 刈り取った直後に雨が続いたりすると、ジャングルの中で凍え死ぬ羊も出てくる。
 そしてまた気温の上昇に合わせ、羊の群はガンジスの谷を遡る。

 16歳から牧童を始めたというマンガル。
 仲間4〜5人とともに、5〜600頭の羊を追った。
 白、黒、茶、グレー。いろんな色の羊がいる。
 一度旅に出ると、長くて六ヶ月、家に戻らない。
 六ヶ月も羊だけと過ごしていると、羊たちの顔を全部覚えてしまうという。消え去った羊がいると、それがわかる。
 仔羊が生まれると、すぐには歩けないから、4〜5日は牧童が抱いて移動する。

 牧羊犬も4〜5頭いる。
 ボティア犬という強靱なチベット種だ。(写真左)
 羊の最強の天敵、熊が現れても勇敢に立ち向かう。
 ただ、一対一だと、やがて闘いに敗れ、喰われてしまう。
 犬というのは美味いらしく、豹も羊や牛より犬を狙うという。

 妻を迎え、子供もできたマンガル。
 羊飼いを続けるのが難しくなり、織の仕事に転じる。
 昔の生活に戻りたくないかと聞くと、あんな大変な仕事はもう嫌だと言う。
 それでもガンジスの谷を辿ると、昔の思い出が甦ってなつかしいと言う。

 この地では今でも、そうした遊牧で羊が飼われている。
 Ganga工房で使われている羊毛も、多くがそうした羊たちからもらったものだ。
 南無阿弥陀仏。オーム・マニパドメ・フーム。

 

織師マンガル


黒い羊と白い羊


リシケシ近くのガンジス・ジャングル


8月17日(火) 黄繭をめぐる小旅行

 昨8月16日、デラドン市内の州立蚕糸場に出向く。
 何か使えそうな絹糸がないかと思ったからだ。
 ここには、今春、真木千秋も訪れているが、糸がイマイチだった。
 ここで引かれる生糸は細すぎて、Makiには馴染まない。
 玉繭から玉糸も引かれるが、屑繭と一緒に引くので、汚染され、あまり美しくない。
 玉繭というのは二頭以上の蚕がひとつの繭を結んだもので、そこから採れる玉繭は節ができて独特の風合いがある。
 上写真はその玉糸を見せてもらう私ぱるば。
 屑繭を混ぜずに玉糸を引くこともリクエストできるらしい。玉糸が欲しければここでオーダーできるようだ。
 上写真の両端にいるおじさんたちは、他州から訪れていた蚕糸専門家。こうした人々からもいろいろ情報を仕入れる。

 左端のおじさんは西ベンガル州のマルダから来ていた。
 マルダと言えば黄繭で有名。黄繭糸は細くてしなやかで、Makiでも非常に重宝している。実は私ぱるばはマルダを訪ねるべく、情報を集めていたところだ。マルダという町は西ベンガル州の中でも思いっきり田舎にあって、なかなか訪ねづらい。幸い、このおじさんからもマルダ糸が仕入れられそうだ。手づくり糸は供給が不安定だから、供給先は複数のほうがいい。
 もうひとり、隣州ウッタルプラデシュから来ているおじさんがいた。この人は糸繭商で、様々な繭からいろんな糸を引いている。タッサーシルクのギッチャ糸からナーシ糸、カティア糸から家蚕のモトゥカ糸、さらには黄繭糸まであるという。Makiで使う糸を網羅しているような存在だ。しかし、口では何とでも言えるのである。いったいどんな品種のタッサー繭を使っているのかと尋ねると、だんだんしどろもどろになってくる。もうちょっと勉強してくれたまへ。ま、ともあれ、どんな糸を作っているのか興味あるところだ。上記の糸サンプルを一式、郵送してもらうことになった。一週間ほどでGanga工房に着くというが、はたしてどうなることか。

 近所にも黄繭の産地があるよ、とおじさんたちが言う。隣州ウッタルプラデシュのチュトマルプールだ。そこある蚕糸普及所に行けば、黄繭があるという。チュトマルプール!? 聞いたことない名前だ。ラケッシュの従弟ビーマによると、デラドンから車で一時間ほどだという。そんな近くに黄繭があったのか。
 そこでラケッシュとビーマと私の三人は決然、デラドンから南へと車を飛ばし、チュトマルプールの探検に向かうのであった。
 州境の美しい森を抜けると、そこはウッタルプラデシュ州。デラドンに比べると、ぐっと田舎で、なんとなく雑然とした雰囲気だ。街はずれに蚕糸普及所があった。きっと支所なのであろう、ヒンディー語の表示しかない古ぼけた建物だ。
 来訪の意図を告げると、所長室に通される。所長は州都ラクナウの本部にいるらしく、不在だった。副所長も不在で、経理のハリッシュ氏が対応してくれる。とても愛想良いが、英語はできない。そのうち他の所員もぞろぞろ集まってくる。なんでもこの普及所に外国人が来たのはこれが初めてだとのこと。それで見物に来たらしい。(写真中・左端がハリッシュ氏)。最後にはゲストブックまで出てきて、記念に何か書けという。ホテルじゃあるまいし公的機関でこういうのも初めてだ。
 さて、肝腎の黄繭。確かに黄色い繭はあった。しかし、私たちの想像していたマルダ繭とはチト違う。やや大ぶりなのだ。写真下に写っている黄繭の中で、一番小さいのがマルダ繭のサイズだ。だいたいがそれより大きい。ニストリ種という品種らしい。それからもうひとつ、白い繭もあった。どちらもインドの現行主流品種よりも小さい。州都にいる所長に電話で聞いたところ、繊度も2デニール前後で主流品種より0.2デニールほど細いという。日本の通常品種の繊度は3デニールほどだというから、2デニールと言えば極細繊度繭と言えるかもしれない。そこから引いた糸も見せてもらったが、通常よりも繊細な感じだ。この糸は繭5〜6粒から引いた細い無撚単糸で、サリーには使えるが、そのままではMakiのストールには細すぎる。30〜40粒は必要だろう。
 ともあれ、この糸が使えるかどうか、私たちには即断できない。そこで首都デリーの工房にいる我らが偉大なるデザイナー真木千秋に電話でお伺いをたてる。(写真中の私)。
 真木千秋も関心ありそうだったので、繭と糸のサンプルをもらって帰ることにする。
 この試験場は気前が良くて、頼むと何でもホイホイくれる。また近所の撚糸所で希望の太さに撚糸してくれるともいう。
 この白黄の小型繭は年に二回ずつ繭を結ぶ。そのたびに生繭もわけてくれるというから、自分たちで希望の太さに引いても良いわけだ。
 というわけで、家蚕糸のバラエティも広がりそうだ。

 







9月14日(火) 藍印花布

 今、中国にいる。
 上海の北方150kmほどのところにある、南通という街。
 今春の北京に続き、アライラマこと新井淳一氏のお伴だ。
 ここ南通市で新井氏の展示会があるので、昨日、日本から飛んできた。

 一番上の写真が今朝の新井氏。
 着用のシャツが藍印花布でできている。これは「らんいんかぶ」と読むらしいが、寡聞にして私は知らなかった。
 氏によると、これは三十年ほど前に当地で染められ、仕立てられたものとのこと。それを今回のために持参してきたのだ。

 今日は時間があったので、現地スタッフの人々が、当地の藍染博物館に連れていってくれるという。
 藍というと日本とインドしか頭になかった私ぱるば。中国の藍染かぁ…と調べてみると、そもそも日本に藍が伝わったのは中国からなのだな。絹にしても藍にしても、このお国の世話になってきたわけである。
 ここ南通や上海といった長江河口地域が藍染のひとつの中心であったらしい。

 その博物館は市の中心部にある「南通藍印花布博物館」というところ。
 藍印花布というのは藍の型染めだ。
 この博物館には、その型染めの工程の展示と、藍印花布のコレクション、および売店がある。
 館長は呉元新という中国工芸美術大師(人間国宝)だが、残念ながら今日は北京出張中で不在だった。
 まず最初に糸車を使った木綿の手紡ぎ、および手機による織りの実演を見せてくれる。しかし、これはあくまでも過去の再現であって、現在は機械紡ぎ機械織りの布を染めているとのこと。
 実際の工房は一時間ほど離れたところにあるそうだ。
 当地では日本と同じタデ藍が使われている。
 中国にはそのほかに山藍(琉球藍)と松藍(タイセイ)があり、前者は福建省や広東省、雲南省、後者は山東省で栽培されているという。

 型染めには型紙を使う。防染材は大豆の粉と石灰を混ぜたものだ。それを水で溶いて、型紙の上から布に塗布する。(写真上から2)。
 そして藍甕に漬けて染織し、洗って乾かし、そして防染材を掻き落とす。するとその部分が白く残るというわけだ。(写真上から3)。
 しかし真っ白に残るというわけではなく、微妙に染まっていたりするところが手仕事っぽくて良い。インドネシアのバティックもそうだが、白い部分が多いほど上等なのだそうだ。だから、アライラマ着用のシャツなんかはけっこう上等の部類なのだろう。

 国家級非物質文化遺産だそうだ。さしずめ重要無形文化財か。こうした手仕事は文化大革命で消えてしまったかと思っていたが、まだ各地に残っているようだ。最近は中国でも藍染が見直されているという。
 私も記念に一枚購入。シンプルな紋様が良いかも。(写真一番下)。ちなみに周囲に侍る娘さんたちは今回のイベントスタッフ。
 

 








9月17日(金) 江北のアライラマ

 ここ南通は長江(揚子江)の北、江北と呼ばれる地にある。
 川向こうの江南は、古来より豊饒の地として知られ、上海を始め、蘇州、杭州、紹興、寧波など数々の大きな街を擁している。それに比べ江北は、やや淋しい後進地という印象を拭えない。
 その江北地方では昔から紡績が盛んだったが、近年、長江に橋が架かるに及んで、当地も大きく発展するに至る。特にインテリア織物において、この南通市は、ニューヨークやフランクフルトと並び、世界三大産地のひとつに数えられるまでになった。
 右上の写真が、南通市郊外・畳石橋にある繊維製品の問屋街。道の両側にずーっと並ぶ店舗がすべてインテリア織物のショールームだ。たとえば、手前部分は行けども行けども布団屋ばかり。これだけあると見る方も相当疲れるだろう。
 ここ南通では、年に一回、中国インテリア織物協会の主催による「中国国際家用紡織産品設計大賽」というのがある。平たく言えば、中国国際インテリアファブリックデザインコンペ。(あんまり平たくないか)

 その授賞式に合わせ、新井淳一氏の展示会が開催される。
 これはそもそも、中国インテリア織物協会の会長が、今春、北京・清華大学での新井淳一展を参観していたく感動し、是非ともここ南通で展示会を、ということで実現したのだ。
 中国でのアライラマ人気は尋常ではなく、初日の上海空港到着からして、わざわざ南通から医師・看護師・警備員まで帯同しての出迎えであった。

 右上から二番目の写真が、問屋街の中心にあるオープンスペースに設けられた新井淳一展。
 入口のタイトルいはく、「日本染織大師・日本繊維芸術界『鬼才』/新井淳一作品展/SLIT繊維50年の歴史と未来」。
 その奥には氏のプロフィールなどが掲げられている。
 内側はその下の写真の通り。氏の布がダイナミックに垂れている。北京展より少々狭い感じだ。

 その下の写真が授賞式の会場。
 バルーンが上がったり、60本に上る協賛の垂れ布、そして全体の色調など、いかにも中国風。そして今、壇上でアライラマが祝辞を述べている。(演壇中央の小さな人物)
 祝典が終わると、突如、轟音とともに五色の煙幕花火!! (その下の写真)。これもまた中国的で楽しかった。
 以上が昨9月16日のできごと。

 開けて今日17日はシンポジウム。題して「新井淳一教授作品学術検討会」。(右写真一番下)
 中国全土から大学の先生たちや染織関係者、およそ60人ほどが集まる。

 冒頭、アライラマはこんな漢詩を紹介する;

昨日到城郭 昨日、城郭に到る
帰来涙満巾 帰り来たりて涙、巾に満つ
遍身綺麗者 身、遍(あまね)く綺麗の者
不是養蚕人 是、蚕養う人にあらず

 張愈(ちょうゆ)による「蠶婦(さんぷ)」という詩だ。
 新井氏の先輩、福田貂太郎はそれを次のように現代語訳する;

昨日城下を歩いてきたが
あとからあとから涙が出たよ
絹着る街の人たちは
蚕の苦しみ知らなかろう

 これは氏の愛唱詩であるが、おそらくは当地の人が上海あたりに行ったときの感想だろう、と氏は語る。
 しかしながらこれは単なる自己憐憫ではなく、自分たちには染織の技があるんだという自負の表れでもあろう、というのが織物の里・桐生に生まれ育った氏の解釈であった。
 ともあれ、氏の願いは、こうした織物を通じての日中間の交流によって、少しでも世の平和に資することができれば、ということなのだ。
 だいたい我々日本人は一般的に、中国と言えば、ヒタヒタと日本を追い上げてくる得体の知れない怪物みたいに思っている人が多いんじゃあるまいか。しかし実際にこうして中国にやってきて現地の人々と触れてみれば、同じ血肉を具えた人間同士なのである。
 というわけで、単なる染織技術の話に終わらないのが、中国における氏の人気のゆえんなのかもしれない。
 シンポの最後には、氏を招聘したインテリア協会会長の長〜い熱弁がある。しかし、残念ながら近くに通訳がいなかったので内容は不明。やっぱ中国へ来たら中国語を学ばないとな。なんと言っても古来より中華思想のお国柄だ。中国語は話せて当然という雰囲気がある。

 下の写真は、全然関係ないのに氏に連なってVIP席に座る私。
 今回は氏の余録に与り、朝昼晩と中華料理のてんこ盛り。始めて目にする山海の珍味も多々あった。
 こんなに甘やかされちゃって、さて日本に帰ってどうしよう…と今から心配である。


 

 











9月23日(木) 国際野蚕学会

 9月21日から三日間、東京世田谷の東京農大で、第六回国際野蚕学会が開催される。
 日本、インド、中国を中心に、世界各国から研究者など野蚕関係者が集まった。
 当スタジオからは私ぱるば参加。Makiの布も展示し、真木千秋もちょっと顔を出す。
 日本で国際野蚕学会が開かれたのは、1994年長野県穂高町以来16年ぶりで、私たちもそれ以来の参加だ。
 右上写真は野蚕のいろいろ(学会資料より)。

 内容は専門的なことが主で、たとえば、今日の発表プログラムを見ると、『アッサム産アンテリア・アッサメンシス(ムガ蚕)の分類学的特色』とか『インド野蚕糸に対する低圧プラズマ処理の適用』とか『ムガ蚕の継続生産に向けての飼育地域の拡大』とか、かなりイマジネーションを働かさないと理解できないような内容だ。
 上記のタイトルからも想像できるように、今回はインド・アッサム州からの研究者が多く、ムガ蚕についていろいろ勉強になった。

 ムガ蚕というのはMakiでも使っている野蚕の一種。黄金のシルクと呼ばれるアッサム特産種だ。『インドのプライド』とも呼ばれ、インド以外では産出しない。
 最近はアッサム以外でも飼育が試みられている。たとえばガンガー工房のあるウッタラカンド州の北部でも飼育が始まったということで、私たちとしても大いに関心のあるところだった。
 ただ、このアッサム外への移出については、実は地球温暖化が関与しているらしい。気温上昇がアッサム州の植生に影響を与え、ムガ飼育のひとつの脅威となっている。特に夏場の採卵が不安定となる。
 それゆえ、アッサム外の、より冷涼な高地に飼育場所を求めるという試みがなされている。そのひとつがウッタラカンド州の北部だというわけ。

 それから、ムガ蚕というと、黄金の絹糸というイメージがあるが、それだけではない。淡金色の絹糸もあるという。この淡金色の糸は色つやが良く、古来から黄金の糸より珍重されてきたという。写真右下、左側が黄金のムガ蚕糸、右側が淡金のムガ蚕糸。映像資料をデジカメで撮影したものだから不明瞭だが、色味の違いはうかがえると思う。
 これは食樹の違いによるそうだ。左側がソム樹、右側がマンジュコリ樹で育てたムガ蚕。近年は茶園の造成などによりマンジュコリ樹が激減し、淡金のムガ蚕糸が極めて稀少なものになっているそうだ。

 というような話を、三日間にわたって聞いたわけだ。なかなか面白かった。
 ひとつ傑作だったのは、タイ東北部ではエリ蚕の幼虫やサナギが食材としても利用されているという話。中心都市コンケンでは毎年、幼虫や蛹を使った料理コンテストも開かれているとのこと。写真もいろいろ披露されたが、さすがタイ料理だけあって、美味そうではあった。しかし、サナギならまだしも、幼虫というのは…。ウチもラケッシュに工夫してもらうか。(嫌がるだろうな)

 ともあれ、国際野蚕学会会長の赤井弘先生はじめ、大会組織関係者のみなさん、ご苦労様。
 

 




9月27日(月) ムガシルクのサリー

 一昨日の9月25日。秋晴れの午後、竹林に珍客の来訪があった。
 インド・アッサム州から来たプラバカール博士(上写真・右から二人目)と同アーンドラプラデシュ州から来たジャヤプラカーシュ博士(同・左端)。
 今般の国際野蚕学会にインドから参加した研究者だ。御両人とも、今回の学会ではムガシルクについてたいへん興味深い発表を行う。

 じつはアッサム州は、私や真木千秋にとって、十数年来の憧れの地だった。ムガシルクの産地だからだ。ただ、治安上の問題で、かつては外国人の立入が制限され、なかなか訪れる機会がなかった。(インド人のニルーでさえ躊躇するほど)。
 アッサムにはムガ蚕のほか、カラフルなエリ蚕もある。最近は情勢も安定してきたようなので、そろそろ行ってみたいと思っていた。ただ、何の手懸かりもなかったところ、今回の学会でアッサムの研究者たち何人かと知り合いになれたというわけ。

 御両人とも初来日。池袋のホテルに滞在していて、二人だけで電車を乗り継ぎ、ここ五日市まで来るという。途中、新宿、立川、拝島で乗換がある。日本語もわからないのに果たしてたどりつくだろうかとだいぶ心配したのだが、さすが博士たち、ちゃんと到着する。
 先日発行のgangabook掲載の私の記事に、「ウッタラカンド州ではムガ蚕の飼育も試験的に行われている」という記述があるが、その仕掛け人がじつにこの御両人であった。それで意気投合したというわけ。

 上写真は、プラバカール博士持参のムガサリーを酒井美和が纏ったところ。インドでは最高のサリーのひとつで、アッサム州の婦人はみな二〜三枚持っているそうだ。自分の結婚式の時に一枚、その後、機会ある時に買い増すという。ただ、赤糸の織り込みがウチには合わないかな…。

 両博士のため、真木千秋が前日からダール(レンズ豆カレー)を用意する。お二人とも母国を思い出し、美味しそうに食べていた。
 下写真はムガ蚕の繭。今回の学会会場で、京都の下村輝(下村撚糸)さんから頂戴したもの。

 




9月28日(火) 深夜の来訪者

 今を去る二日前の真夜中。
 我が部屋の窓ガラスをトントンとたたく音がする。
 何かと思ってカーテンを開けると、巨大な蛾が一匹。
 部屋の灯火に向かってパタパタと羽ばたいている。
 さしわたし15cmはあるだろう。
 野蚕学会の直後であるから、きっと野蚕に相違あるまいと、記念写真をパチリ。
 翌朝調べてみると、限りなく天蚕に近い。
 というか、これはゼッタイ天蚕だ。
 山繭とも呼ばれる。
 学名はAntheraea Yamamai。

 この近辺でよく天蚕の繭を採取したという話は、地元の古老から聞いたことがある。
 戦後、その食樹であるナラ・クヌギ類はすっかり伐採され、杉や檜ばかりになる。
 そして山繭のこともいつしか忘れ去られたが、こうしてどこかに息づいているのだ。
 聞くところによると、現在、山繭の糸は家蚕糸の100倍、1kgあたり70万円もするそうだ。
 な〜んて下世話な話はやめといて、とにかく、どっしり存在感のある蛾であった。
 しばし窓ガラスの向こう側で遊んだ後、闇の中に消えて行った。

 そこで一句;
 闇夜から何の知らせか山繭蛾

 



9月30日(木) 結魂式

 昨日、東北・山形の「いのちのアトリエ」で、郷田和夫さんと大谷ゆみこさんの「結魂式」があった。
 ご存知の向きも多かろうが、この二人はつぶつぶという名前で雑穀を世に紹介している中心人物だ。
 今さらながらではあるが、ゆみこさんが郷田さんのもとに入籍するので、結婚ならぬ結魂式ということに相成る。上写真中央の長身男子が郷田さん、その右側の和服姿がゆみこさん。

 なんで私ぱるばがはるばる山形まで式に出かけたのかというと、そこには浅からぬ因縁があるのである。
 二人の出会いは今を去る31年前、エーゲ海はサントリーニ島でのこと。そのキューピッド役を演じたのがほかならぬこの私であったのである。あまりかわいくないキューピッドだという意見もあるが、ま、当時は今よりはマシだったのだ。
 また、つぶつぶ関係者はゆみこさんを筆頭にMakiの愛好者が多い。たとえば上の写真にはMaki布が十点あまり写っているのである。わかるかな!? これほどのMaki布密度は、竹林以外にはまず存在しないだろう。

 もともと東京・江戸川橋の印刷屋に生まれた郷田さんであるが、現在はここ山形・小国に移住して雑穀を育てている。今やその道の権威で、雑穀についての著書もある。
 「アトリエ」に併設された畑には、様々な雑穀が栽培されていた。
 雑穀と言えば、10月末からの竹林「gangaのはじめ展」では、ヒマラヤ地方の雑穀食を供する計画がある。ただ、インドの当地で広く栽培されている「ジャンゴーリ」という雑穀、それがいったい何なのか今までよくわからなかった。
 ところが、こちら山形の畑にはそのジャンゴーリがある。聞けば「ヒエ」だとのこと。そうかー、ヒエだったのか。ヒエと言えば田んぼの雑草を思い出すが、あれは正しくはイヌビエと言う。こっちのヒエは立派な人間の食べ物で、滋養も豊富だ。
 下写真はそのヒエを手にする郷田氏。
 そのほか、この畑には、タカキビ、アワ、シコクビエ、アマランサスなどいろいろあった。
 もちろん、結魂式にはそうした種々の雑穀を使ったオリジナルつぶつぶ料理もふんだんに供される。
 というわけで、天気にも恵まれ、まこと目出度き一日であった。
 

 




10月1日(金) 祝・四周年!!!!

 今日は竹林Shop開店四周年記念日だ。
 しかし…

 誰も気づいていない。
 私ですら、今(21:37)、思い出したくらいだ。
 みな、ganga展の準備やらで大忙し。
 そんな余裕がないのだ。
 おそらく、年末あたりに思い出すのであろう…そういえば四年たったなあ、とか。
 あるいは思い出しすらしないかもしれない。
 かわいそうに。せっかくの誕生日なのに。
 せめてもの祝いに、ロウソクを四本立ててやろう。

 来年は五周年だから、本物のケーキとロウソクを用意するからな。


10月3日(日) 砧の秘密

 今、竹の家。20:50。
 台所からドンドンと音が聞こえてくる。
 何事かと思ったら、真木千秋が砧(きぬた)を使っている。
 デラドンの織師マンガルから習った方法だそうだ。
 砧でぶったたいたり、揉んだりしている。
 布は、ウールと絹で織ったもの。
 それを縮絨(しゅくじゅう)させているのだ。
 これはポシェットになる。
 ただ、ここでは明かせない秘密がひとつあるのである。
 どういう秘密かは、月末の「gangaのはじめ」展でのお楽しみ!
 このハンディな木製の砧は、李朝の骨董。


10月7日(木) 木片の径

 竹林Shopに続く小径(こみち)を補修する。
 ウッドチップを敷いたのだ。

 2006年10月、Shopがオープンした時、ウッドチップの小径をつくった。
 四年も経つとほとんど跡形もなくなる。
 補給したかったのだが、あまり良いものが手に入らない。
 最初に供給してもらった近在の製材所が、チップ製造をやめてしまったのだ。
 なかなかワリに合わない仕事らしい。

 最近、奥多摩にチップを製造してくれる製材所を見つけた。
 もうじき「gangaのはじめ展」でもあるし、早速、敷き直すことにする。
 材料は奥多摩の杉と檜だ。
 量は2立米。重さにして2トンほど。
 スタジオの軽トラでは載りきらないので、奥多摩まで二往復する。
 (最大積載量は350kgと書いてあるが…)

 たちまちにして甦る木片の径。
 ヒノキチオールの香が初々しい。


10月17日(日) 秘蜜の話

 ハチミツだ。
 今年8月、ヒマラヤ地方の奥地で発見!

 ganga工房で使う野蚕糸を探しに、ガンジス支流のアラクナンダ川を遡る。
 その次第はこちらに記したが、野蚕の事業を行っているのが、ATIというNGO法人であった。
 このNGOは、また、ハチミツも手懸けていた。
 それで、手土産に幾つか購入し、Makiのスタッフや友人に手渡したのである。
 山奥のハチミツだから珍しかろうと思って。
 ところが…
 予想外に好評だったのである。
 香り豊かで美味しい!! と。
 竹林用に持参した500gびんも瞬く間に空になる。
 そういえば、責任者のネギ氏(下写真左端)も、これは特別のハチミツだと言っていた。

 標高二千メートル前後の高地で、農民たちが在来種の東洋ミツバチ(Apis cerana)を育てている。日本ミツバチと同種だ。
 オーガニック認定のハチミツ。
 とにかくものすごい山奥なのだ。化学肥料や農薬とは無縁で、豊かな自然が保たれている。
 下写真に見るようなところだ。左からネギ氏、真木千秋、ビーマ(ラケッシュの従弟)、サンジュー(ganga工房長)。滝はこのへんでいちばん大きなエルガッドの滝。雨期だったから轟々と流れ落ちていた。(今年8月11日の写真)

 予期せぬ好評に、急遽、インド滞在中のラケッシュに連絡。来日時に持参してもらう。
 今日も竹林でひとびん開けて、みんなでヨーグルトに混ぜて食したのであった。
 深山幽谷の風味。
 来週末に迫ったgangaのはじめ展でも、みなさんにご紹介致す予定。
 ただ、数量が限られているから、予約は無しね。

 




10月18日(月) ソフト・ストーン

 スタッフ総出で仕上げ作業。
 真木千秋も例外ではない。
 エプロン姿で、穴開きショールの穴部分をフェルト化して始末している。
 「あまりにタイヘンで、縫製した方がマシ」とか言っている。
 おそらくフェルトタイプの穴開きショールは今回のみのスペシャルになるであろう。

 同じ作業ばかりしていると飽きるらしく、作業の合間に、写真のような物体も出現!
 これは裁断クズでできている。
 クズと言っても、ヒマラヤで育った大事な羊の毛だ。
 羊毛クズを両手でひとすくい。それを石鹸水につけ、温水と冷水で交互に揉みしだくと、やがてフェルト化する。
 粘土細工のようなものだ。
 真木千秋は昔から粘土が大好きだったらしい。織物の次に好きだったのが土いじりだったという。

 そうしてできたのが、このソフトな「石」。
 触るとフカフカだ。
 インドのシヴァリンガ(シバ神の象徴)みたいでもある。
 糸クズのリサイクルだからタダで差し上げてもいいんだが、それだと有り難みがないから、なにがしか頂くことになるだろう。
 針山にもできる。

 




10月19日(火) gangaの招聘

 何度も言っているが、「ガンガ」とはガンジス河のことである。
 我々インド人には当たり前のことだが、日本ではあまり知られていない。
 ガンジスとは英語名であって、インドで「ガンジス」と言っても誰もわからない。マハトマ・ガンジーと間違われるのがオチだ。

 さて、せっかくganga展を行うんであるから、ガンガ本人も招待しようということになった。
 といっても、河じゃなくて、ラケッシュの母親・Gangaさんである。工房名の元となった人だ。
 Ganga上流の山里に生まれ育ったGangaさんが来れば、いろいろ心強い。たとえばヒマラヤの雑穀料理とか。
 ひとり旅じゃ心細かろうから、旦那すなわちラケッシュの父親グルデーブ氏も招くことにする。この人もやはりGanga上流の山里に生まれ育った人で、現在、ganga工房のために献身的な働きをしている。展示会場でも、チャイづくりとか、焚き火とか、出番は多い。

 じつは今日やっと来日のビザが取れたのだ。
 インド人を招くのは難しい。招聘理由書とか滞在予定表、身元保証書、所得証明書など、十点くらい書類を揃えてインドへ送っただろうか。もうちょっとどうにかならないものか。これだけ日印友好に貢献してんだから…。招聘を決めて三週間もかかった。
 というわけで、やっと計画が立てられる。

 インド航空には利点がひとつある。マイレージプログラムに加入するとエコノミークラスでも30kgまで運べるのだ。
 二人でしめて60kg!
 ちょっとご苦労だけども、これでいろいろインドグッズが揃う。

 



Ganga上流に架かる橋


10月20日(水) ラジマ・カレー

 今日のMakiスタッフ昼飯は、ラケッシュのラジマ・カレーだった。
 もともとラジマのカレーは好物なのだが、今日のはとりわけうまかった。
 ラジマというのは、キドニービーンズ。日本の金時豆に似たインドの豆だ。
 ダールすなわち豆の料理によく使われる。
 ダールはベジタリアンの多いインドでは、貴重なタンパク源なのだ。

 今日のラジマ豆は、ちょっと特別。
 20cm下↓にあるハチミツと同様、ヒマラヤ地方の奥地で栽培されたもの。
 そのせいか知らぬが、普通インドで口にするラジマ・ダールより美味であった。
 ラケッシュのウデが良いのかな。
 ラジマのほか、トマト、タマネギ、ニンニク+スパイスを使用。
 豆を煮てから半殺しにすると、豆の成分がソースにしみ出して、またひと味違ってくるのである。
 昨日の昼飯はラケッシュのチキン・カレーだったし、今日はラジマ・ダール。
 みなさんには申し訳ないなあ。
 カフェは閉まっているのに、自分たちだけ毎日カレーで。

 ダールにもいろいろある。
 ウラッド(黒豆)、ムング(緑豆)、アラル(レンズ豆)、チャナ(ひよこ豆)…。それぞれに調理法も異なる。
 gangaのはじめ展でラケッシュは久しぶりに厨房に立つ。雑穀とともにダールを出すことになっているが、さてどんなダールにするか、今思案中とのこと。

 



ラジマ豆とそのカレー


10月26日(火) 雑穀料理リハーサル

 一昨日の日曜、ラケッシュの両親が無事インドより到着。
 今日は竹林でヒマラヤの雑穀料理を作ってくれた。
 これは今般の催しで提供するものだ。
 まずは自分たちで食べてみないとね。

 今回は、ヒマラヤ地方の山地からジャンゴールとコードという二種類の雑穀をご紹介。ジャンゴールはヒエ(稗)、コードはシコクビエ(四国稗)だ。
 両親の出身地である山里では米がとれない。それでこの二種の雑穀が常食となっている。
 ジャンゴールは粒食だ。粒の状態で、ゆでて食べる。
 コードは粉食。すなわち粉にしてチャパティを作って食べる。
 どちらも白米より栄養価が高い。

 おかずとして、ウラッド豆のカレー、ダイコン葉の炒め物、ミント・チャツネが添えられる。
 ジャンゴールは、小さな粒々のごはんだ。これをウラッド豆のカレーとともに食べると美味。その粒々の食感が良い。
 コードのチャパティはピリッと辛みのあるチャツネと一緒に食べる。これも香ばしくてうまい。小麦粉のチャパティにはない滋味がある。豆カレーと共に食べてもいい。
 ダイコン葉の炒め物は箸休め。
 すべて、ラケッシュ母のガンガーさんが料理する。ラケッシュはプロの料理人だが、こういう料理は作ったことがないという。そもそもインドのレストランでジャンゴールやコードが出ることは、まずない。

 ちなみにこのジャンゴールは、山里でラケッシュの従兄が栽培したものだ。九月が収穫期だから、「新ジャン」なわけ。それを二人が持参してきたのだ。
 コード粉は私ぱるばが八月にインドから背負ってきたもの。
 滅多に口にできるものではないのだ。
 これを食べるだけでも、竹林に来る価値はあると思う。
 10/30-11/3の5日間のみ。ランチタイム。
 完全菜食。ヘルシー無比。予約不要。売切御免。
 

 


ジャンゴールを洗う


コード粉でチャパティを焼く


今日の夕食♪

10月27日(水) なんとなく学園祭

 

 今日は気持ち良い晴天。
 明日は雨で、なんと30日〜31日には台風まで襲来するというではないか!?
 ま、我々にできることは、貴重な晴天を有効活用すること。

 右上の写真は、ケヤキの大木に横断幕を下げているところ。
 これは絹地をスオウで染めたものだ。
 ちょっと早い木枯らしに、陽を受けた赤い手織布がへんぽんと翻るのであった。

 その下の写真は入口。
 今回の幡(はた)は、ganga工房で織った白いウール布。
 そこにイニシャルの「g」をフェルトであしらう。
 ちょうどラケッシュの両親がスタジオにやってきたので、酒井美和があいさつをしている。ラケッシュ父はナマステー。

 一番下は竹林Shopの内部。
 ganga作品を並べて、さあどう展示しようかと思案の真木千秋。
 これは夜の様子。
 スタッフもまだ(22:52)、忙しく立ち働いている。
 
 ついでに私ぱるば。(左写真)
 ここ数日は肉体労働の日々である。
 今日は天気が良いので屋根の掃除だ。
 なんとなく嬉しそうにVサイン。
 ××とニワトリは何とやらというが、その通りである。

 そうそう、初日30日の夕刻、「はじめのパーティ」を予定している。
 台風が来ちゃったら、どうするのだろう。
 雨天順延だ。
 それについては当日10時までにHPにてアナウンスするので、どうしてもパーティに来たい人は要チェック!!
 しかしながら、展示会に関しては、雨が降ろうが槍が降ろうが、開催だ。
 


 







11月1日(月) 謹告「はじめのパーティ」

 初日10月30日に予定されていた「はじめのパーティ」、ご存知の通り、台風襲来のため中止。
 本来なれば「雨天順延」ということだったが、翌日も雨だったりしたから、いっそのこと最終日の11月3日にする。
 この日は祭日だし、「晴れの特異日」だし、なにかと都合良いだろう。
 実際、初日でなくて良かった。パーティやってる余裕はなかったのである。

 久方ぶりに厨房に立つラケッシュがけっこうヤル気。
 何が出るかは当日のお楽しみで言わないんだけど、今まで竹林で出たことのない「ノンベジ」が振る舞われる模様。
 夕方の五時から。
 焚き火の周りで、みんなで踊る。
 自由参加。


11月3日(水) 最終日のプログラム

「gangaのはじめ展」最終日の催し物プログラムは以下の通り;

13:00〜 映像トーク「ガンガ源流に絲素材を探る」by 田中ぱるば
14:00〜 映像トーク「ガンガ源流に絲素材を探る」by 田中ぱるば
15:00〜 お話会「手紡ぎウールを織る」by 真木千秋
17:00〜 はじめのパーティ「ウッタランチャルの夕べ」


11月5日(金) 祭のシメ

 ほんと、ここのところ、晴天続きだ。
 後片付けにはちょうど良い。
 先週この天気だったらなァと思うのであるが、悪天にもかかわらず多くのみなさんに来訪いただき感謝!!
 おかげさんで、一昨日、無事「gangaのはじめ」展も終了したのであった。

 右写真は最後のパーティの模様。
 焚き火の周りで輪になってみんなで踊る。
 音楽はヒマラヤン・ミュージック。
 別に振り付けはなく、みんな好き勝手に踊る。
 この日はかなり冷え込んだのだが、焚き火と踊りとで、体温はたちまち上昇。
 Tシャツ一枚になりたいくらいだった。
 真ん中で踊っているのはラケッシュ父。ヒマラヤ人は寄ると触るとみんなで踊る。この辺はマキテキ人と同じ。

 料理もスペシャル。
 タンドーリ・チキンに、魚カレー。
 魚のカレーは内陸部では珍しいのだが、インドでは風邪を引くと食べるという。体が温まるんだそうだ。
 それから里芋のサブジとか、焚き火チャパティとか。
 そうそう、まず最初に、ラケ父による火の儀式があって、それから、Gangaの聖地から持参した河水でひとりひとりお浄めをしたのであった。
 それから、スライドショーとか。

 ね、なかなか楽しそうでしょう。
 だから、Maki Textile でパーティをやる時には、ちゃんと来ないといけないのだ。
 

11月22日(月) 茶綿作戦

 やっと日の目を見るかもしれない。
 茶綿。
 三年前の春、南インドで「発見」したものだ。
 上記リンクの記事↑を読んでもらえばわかるが、貴重な糸なのだ。
 私も茶綿農民を手助けしたいという気持ちで、帰国後、いろんな人々にサンプル糸を見せて回ったもんだ。
 写真の中の糸が、そのサンプル。いろんな太さ、形状がある。
 みなさん興味を持ってはくださるが、なかなか実際に使おうというところまで行かない。

 ところが今、真木千秋がganga工房で使ってみようかな、と言う。
 そうあってしかるべきである。
 そもそも真木千秋のリクエストで私が探してきたんだから。

 三年ぶりに茶綿組合長のアブドルに電話する。
 インド・カルナタカ州のウッピンバディゲリ村。
 ちゃんと私のことを覚えていてくれた。
 今でも粛々と生産しているようだ。
 というわけで、茶綿作戦、始動。
 

11月27日(土) 新作紹介

 トップページに「新作紹介」のリンクを設ける。
 前はもうちょっと下の方にあったのだが、一年以上も更新されていなかった。
 最近はブログで新作がちょくちょく紹介される。
 スタッフが頑張ってやっているので、一覧できるようにリンクをつけたというわけ。
 以前にホームページで紹介したものも下の方に掲載してある。
 16年前の新作まで見られる。
 今では織られていないのもある。
 気に入ったのがあれば、リクエストもOK。
 リバイバルするかも!?


11月29日(月) 欅の家

 ここ東京・五日市のMaki Textile Studioは、別名「竹の家」と呼ばれる。
 誰が言い出したのか知らないが、まあ、芸のない名前である。
 「竹でできている家」と勘違いする人もいる。
 「たけのや」と読む人もいる。料理屋じゃあるまいし…。
 そこで、故事に倣って「竹林精舎」というミヤビな名前を提案する。
 しかし一顧だにされなかった。
 だいたい、固有名詞の中に「の」の入るのが気に食わん。

 しかしながら、私(ぱるば)以上に快く思っていないのが、ケヤキたちだろう。
 敷地内に七本の大木があって、当スタジオの環境づくりに大きく貢献している。
 大きな木があると、なんか安らぐのだ。人間は。
 酷暑の候に木陰を作って人々を癒してくれるのもこのケヤキたち。
 にもかかわらず「竹の家」じゃ公平を欠くだろう。
 よって、これから「欅の家」と呼ぶことに致す。

 さて、晩秋〜初冬にかけてのケヤキの貢献といえば…
 落葉だ。
 幾十万という黄褐色の葉書が天から降ってくる。
 風のそよぐ時など、まことに壮観だ。
 そして私たちに運動の機会を与えてくれる。
 けっこう大仕事なのだ。落葉掃きは。おかげでフィットネスクラブに通う必要もない。
 敷地の片隅に積んでおくと、やがて良い堆肥となって畑作物を養う。

 ケヤキにも個体差がある。
 もうすっかり葉を落としたのもあれば、まだ半分くらい残っているのもある。(写真右)
 落葉掃きの日々は続く。


12月3日(金) アジト

 母屋二階に「会長室」を作る。
 今まで専用室がなくて、いろいろ不便していた。
 休眠中のカーテンや間仕切り布などを集め、二階の一角を仕切る。
 机も展示会備品の流用だ。
 「すぐ撤去できるものを」という真木千秋の要望もあったし…。
 わずか三十分で完成。撤去は五分でできるだろう。
 この「存在の耐え難き軽さ」が良い。
 とは言っても、布はタッサーシルク×綿の手織生地だし、椅子もレミー中村のMOTKA
 最初は疑惑の目で視ていた真木千秋であるが、自分も使いたいと言い出す。
 庭から見ると、なんか怪しいアジトのようだ。

 自分もMaki布のアジトが欲しいという人。
 じつはチャンスなのだ。
 来月9日から、「ハギレ+反物市」がある。
 通常、正月はハギレ市なのだが、先日、ストックから大量の反物を発見!
 そこで次回に限って反物もお得価格で並ぶのだ。
 写真の右側にその反物の一部が見える。


12月11日(土) 天蚕の商業的利用

 先月のこと、長野県・安曇野の天蚕関係者から、「天蚕の商業的利用」について講演を依頼される。
 しかしながら、我々は天蚕なんか使ったことがない。
 それで、「天蚕は無理だが、タッサーシルクを中心としたインド野蚕の商業的利用についてならお話しできますよ」と答えたところ、だったらそれでということになり、今日、安曇野市でお話し致してきた。

 それがケッサクで…。
 お互いちょっとした混乱があり、私は講演日が今日12月11日だと固く信じ込んでいた。
 ところが実際は、昨10日だったのだ。
 昨日は所用で栃木県の益子に遊ぶ。昼ごろ担当者から携帯に電話が入り、「今どこにいらっしゃいますか」と言うから、「栃木です」と答えたら、相手はしばし絶句。
 その沈黙がなんかヤバい感じで、もしかして……思っていたのだが、もしかしてだったのだ。講演直前の時間であった。
 天蚕関係者を相手にお話しするのは初めてだったから、私もけっこうリキを入れて準備をしていただけに、ちょっとショックであった。
 幸い、相手方が急遽日程を変更し、今日に延期してくれたので、つつがなく講演を行うことができた。
 長野県と言えば私の故郷でもあるし、なんとか力になれればと思ったのだ。

 しかし…
 天蚕糸はすばらしいのだが、いかんせん値段が…。
 kgあたり生糸が100万円するのだ。
 Makiのいちばん軽いショールを織ったとしても、天蚕生糸のみを使ったら、原料代だけで5万円かかる。
 真木千秋はかつて岩手県の関係機関から天蚕の絹紡糸を使った作品の委嘱を受け、いろいろ工夫したことがあった。
 しかし、天蚕の紡ぎ糸は、真木千秋にとって今ひとつ使い方が難しかったようだ。
 それで、使うなら生糸かな、という印象を持っている。
 ただ、試織するにも、現物が必要だ。
 そこで、どなかた1kgでも寄付してくれませんかと会場で言ったのだが、考えてみたら100万もするんだからな。チト難しいか。
 Makiにとって天蚕の商業的利用の道は険しい。


12月15日(水) 愛染明王

 愛染明王(あいぜんみょうおう)という存在がある。
 サンスクリット語でラーガ・ラージャ。
 我が故郷、別所・北向観音(常楽寺)にも御堂がある。
 愛染が藍染に通ずるということで、染織業者の信仰も集めているということ。
 そこで、染織業者のハシクレとして、お詣りしてきた。
 場所は大阪・天王寺の勝鬘院(しょうまんいん)。

 本尊は赤色の忿怒(ふんぬ)尊で、通常は秘仏。正月三が日と六月末の祭礼時にのみ開帳。
 境内には「愛染めの霊水」という湧水があって、染め物に使うと色彩よく染まったそうだ。
 かつては藍玉業者の信仰が盛んだったという。

 愛染というと「愛染かつら」という映画が知られている。
 川口松太郎の原作を映画化したものだ。
 勝鬘院境内に枯死した桂の大木があり、それが愛染かつらのモデルだという。
 う〜ん、変だなあ。別所・北向観音の境内にも桂の巨木があって、それがモデルだと言われているんだが…。
 ま、その辺は今後の研究課題としよう。

 愛染明王のテーマは煩悩即菩提だという。
 愛欲など人間の煩悩をそのまま悟りへと高めていってくれる有難い存在だ。
 また良縁をもたらす神として、最近は若い女子を中心に人気も高い。
 お守りもキティちゃん護符があったりして、忿怒尊にしてはぐっとソフトムードだ。
 私もひとつお札を頂き、竹林母屋の神棚にお祀りいたそうと思う。
 来竹の節にはお詣りするとよろしい。きっと御利益あるよ。


12月19日(日) 続・茶綿作戦

 先月もお伝えした茶綿作戦。
 粛々と進行中である。
 来月17日に南インド・カルナタカ州の現地に飛ぶことになった。
 産地の茶綿組合長アブドルや茶綿博士ベンカテッシュとも連絡を取り、現地までの足や宿を確保してもらう。
 向こうはまた熱烈歓迎してくれるようだが、あまり期待されてもなあ…。
 当スタジオのような零細企業では、取引量も微々たるものなのである。
 
 ともあれ、竹林では茶綿を使った試織が進んでいる。
 写真は今日織り上がったサンプル。
 ヨコ糸に茶綿糸および茶綿布を使っている。
 茶綿布はインドの産地で織られたもので、それを特別な切り方で裂いて、裂き織りにする。(写真の下半分)
 タテ糸は絹ノイルと木綿で、一部藍染を施してある。
 織師ラケッシュ。
 さてどんなふうに使うか。
 

12月22日(水) ケーキな日々

 本日のティータイム、大村恭子がいそいそとケーキを取り出し、キャンドルを立てている。
 ストロベリーケーキとブルーベリーケーキ。
 「なんだそれ?」と尋ねると、「あした千秋さんの誕生日だから♪」との答え。
 明日はスタジオが休みなので、今日お誕生会なんだそうだ。
 すると、明後日は丸山佳代(スタッフ)の誕生日であることが判明。
 さらに、本日から勤労奉仕に来た美大生M嬢の誕生日がまさに今日であることが判明。
 トリプル誕生会と相成った。
 M嬢は19歳、真木千秋と丸山佳代も年齢は敢えて言わないがそれぞれ歳をひとつ重ねる。
 三人には特典としてストロベリーケーキとブルーベリーケーキがそれぞれ一切れずつ供される。
 しかし二切れとも平らげたのはM嬢のみ。やっぱ十代は違う。
 というわけで、今日はM嬢、明日は真木千秋、明後日は丸山佳代、その次はイエス・キリストと、ケーキな日々が続く。



12月29日(水) 厳島ウェディング

 先日、来訪されたO夫妻。
 CDロムをご持参だ。
 実は、今年の夏、当スタジオの衣をまとって、安芸の宮島・厳島神社で祝言を挙げたのだった。
 CDにはその際の写真が多数収められている。
 右写真のごとくだ。
 衣裳の解説をすると;

 新婦
 ・上 スディナ 家蚕生糸 天然色
 ・下 カカン ムガシルク 天然色
 ・ストール 空羽(アキハ) 家蚕生糸 白地にうっすら多色

 新郎
 ・上 スディナ 家蚕生糸 ザクロ染め
 ・下 パー タッサーシルク ザクロ染め

 スディナというのは沖縄・八重山のゆったりとした衣。
 カカンというのは八重山スタイルの巻きスカート。
 パーも八重山スタイルの袴。
 カカンとパーは真南風の作品だ。(石垣昭子・真砂三千代・真木千秋によるコラボ)
 
 ときあたかも盛夏8月。列島が熱暑でうだっていた頃。
 涼しげな婚礼衣裳は大いに人目を引いたという。

 

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