絲絲雑記帳

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いといと雑記帳 12夏/12春/
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竹林日誌 10前/09後/09前/08後/08前/07秋/07夏/07春/06秋/06夏/06春/05秋/05夏/05春/04秋/ 04夏/04春/03秋/03夏/03春/02後/02前/01/99-0
0/「建設篇」


10月1日(月) 誕生日iiiiii

 本日10月1日は、竹林shopの誕生日。
 お陰様で満6歳!!
 近所の料理自慢Sさんにブルーベリーケーキを焼いてもらって、ロウソクを六本iiiiii立てて、みんなでお祝い。
 実は先週東北出張中に私ぱるばの誕生日もあって、それといっしょくたにやったのであった。(今さら私単独でお誕生日ってのも照れくさいし、ちょうど良い)。
 思えば昨年は五周年ということで、けっこう盛大にやったのであった。
 今日は内々でささやかにお祝い。
 あ、そういえば来週末(13日)、夕方から「つむぎの秋」展パーティがあるので、そのときみなさんと一緒にお祝い致すとしよう。

 



10月3日(水) 発掘品

 北インド、ヒマラヤ山中。標高1500mの高地にある山村。
 ここに、工房スタッフ・サンジューの実家があった。
 家族はずいぶん昔に首都デリーへ移住し、かつての家は既に崩れて廃墟となっている。
 久しぶりに村を訪れたサンジュー一家。
 崩れた家を整理していると、壁龕(壁の凹み)に何やら黒い物体が…。
 織物に使った杼(ひ)だ。

 同行した父親に聞くと、曾祖父の使っていたものだという。
 底のある舟形の杼だ。保湿性があり、沖縄の苧麻織りなどでも使われる。
 ここヒマラヤ山村では、ウールが織られていた。
 自家の羊から採った羊毛だ。
 粗いブランケットなどを織っていたという。
 
 当時、この辺に衣服は存在しなかった。
 寒い時、人々はブランケットを羽織って過ごした。
 各戸には地機が据えられ、男たちが布を織っていた。(女たちが機に向かう日本や中国、インド東部のアッサムなどとは対照的)。
 やがて里から機械織りの柔らかい木綿服が伝わり、その伝統も徐々に消え去る。そして自家製の粗い毛織物は旧習や貧困の象徴となっていく。
 それでサンジューなども、曾祖父が機織りをしていたのは知らなかった。

 経済成長の最中にあって、埋もれていくばかりの手仕事。
 「なんで今さらそんなことを…」と馬鹿にされることもしばしばだという。
 しかしこうして土の中から曾祖父の杼を見つけ、サンジューは誇りに思うのだった。
 自分も今、父祖と同じことをやっている、と。
 

 



10月11日(木) つむぎ展・秒読み

 明後日からに迫った「つむぎの秋」展
 今朝は5時に拙宅を出て成田空港へ。
 ganga工房スタッフのサンジュ&サンギータ夫婦がインドから到着したのだ。(写真上)。右端サンジューは工房長。前回の記事にも登場したが、篤実な人物である。真ん中のサンギータは手先が器用で、仕上げ担当。針仕事もする。昨日ganga工房を出発した時には泣きの涙だったが、今日は無事到着で嬉しそうな笑顔。実は彼女、ラケッシュ(左端)の姉である。そういえば何となく似てるでしょう!?
 海外が初めてという二人のため、帰りはちょっと遠回りして東京湾アクアラインを通る。ラケッシュが姉に「海、見たことある?」と聞くと、「うん、デバプラヤグでちょっと」という可愛らしい答え。デバプラヤグとはヒマラヤ山中にあるガンジス上流の聖地だ。そのあたりのガンジスたるや、この辺で言えば青梅の多摩川上流くらいささやか。もちろん海などない。
 ついでに日本のマーケットを勉強してもらうため、今月下旬に展示会開催予定の銀座松屋を見学する。

 彼らと一緒に、できたての布もいくばくか到来する。
 その中にはヤクウール混紡ショールも。
 ヤクというのは別名チベット牛。パシミナと同じくらいの高冷地に棲息する。
 その冬毛はふんわり柔らかく、パシミナよりコシがある。その濃い色合いとともに、真木千秋お気に入りの素材だ。

 インド食レストラン「ナタラジ」銀座店(おススメ!)でランチを摂り、昼下がり、竹林に到着すると、みんな展示作業におおわらわ。
 写真中はshopの写真。高処の得意な大村恭子であるが、落ちないようにやってほしいものだ。
 もう三日前から作業している。幸か不幸かお客さんもほとんど来ないから、まさに傍若無人の体だ。(さすがに明日金曜は臨時休業)

 下写真は母屋二階。
 こういうイベント時だけ、プチ博物館になる。
 今回の展示は、ズバリ、Makiのつむぎ糸とその素材。
 様々なウールやシルク原料。こうして盆に盛られると、どうしても触りたくなるものだが… う〜ん、OK、当ホームページを見ている人に限り、触っていいことにしよう!
 なおこの二階スペースでは、13、14、15日の三日間、午後2時より、田中ぱるばによる映像トーク「つむぎの糸による布づくり」、ならびに14日の午後3時より真木千秋によるお話会「くらしをつむぐ — ganga工房の今」を開催予定。(いずれも参加自由)。

 今、午後6時。
 キッチンからは良い匂いが漂ってくる。
 夜行便の疲れもものかは、サンギータ&サンジュー夫婦がシェフ・ラケッシュとともにキッチンに立って料理をしている。
 まずはインド料理の基本、ダール(豆カレー)。
 料理上手なサンギータであるが、日本の野菜は初めてなので、手慣らしだ。
 これがおそらく今夜の私たちの食事だろう。
 かくして秋の夕べは深まっていくのであった。

 

10月18日(木) 竹林 de ヒマラヤ山村

 つむぎの秋展も本日を含め、あと二日。
 サンジュー&サンギータ夫婦も来日して一週間、日本見物もおあずけで朝から竹林に出勤。そもそも働き者であるから、そういうのはまったく平気なようである。若いしね。

 上写真、チャイ屋の準備をするのはサンジュ。
 ラケッシュとともにganga工房を立ち上げた人物である。
 手織工房というと、経済成長著しいインドでは、「時代遅れ」と見なされがちだ。今を去る四年前、青雲の志で工房開設を企図したラケッシュであるが、両親はじめ親類縁者・友人知人はこぞって異を唱える。その中で唯一、最初からラケッシュに賛同したのが、この義兄サンジューであった。当時は首都デリーに暮らしていたが、もともとはヒマラヤ山村の生まれである。
 逆風の中、この義兄弟はあちこち奔走し、ヒマラヤ山麓にささやかな工房を設けるのであった。

 下写真は、姉のサンギータとラケッシュ。彼女もヒマラヤ山村で生まれる。その直後に両親はデリーに出て、二つ違いの弟であるラケッシュはデリー生まれだ。
 サンギータはランチのチャパティ生地をこねている。
 シコクビエと小麦のチャパティだ。
 小麦だけのチャパティはインド中で食されるが、シコクビエは珍しい。かつてヒマラヤ山村では常食されたが、今では「近代化」によって稀になってしまった。シコクビエと小麦を半々くらいで配合するのだが、私ぱるばや真木千秋は普通のチャパティよりこっちのほうが好きで、ganga工房の滞在中はいつもコレだ。カリカリして香ばしいのである。
 サンギータも15歳くらいの頃より、母親に倣ってチャパティを焼き始める。このシコクビエ入りチャパティについても、今では母親に負けないくらいの腕前だそうだ。夫のサンジュや子供たちもシコクビエ入りを好むので、自然に腕を上げたらしい。
 今回のランチは特別に豆入りだ。十種類のインド豆がアンコみたいに中に入っている。インド国内でも珍しい一品なので、食べてみたい人は明日の最終日に!!。 (豆なしもイケる)。

 

10月20日(土) カオリ近況

 昨日、つむぎの秋展が終わる。
 今日はお勉強も兼ねて、gangaスタッフを引き具し、山梨・昌福寺で開かれているえみおわす展を訪ねる。日蓮宗の寺院で開かれている展示会だ。あさって23日までなのだが、お寺のたたずまいがなかなか芳しい。お近くの方はドライブがてら出かけてみると良い。

 更に足を伸ばし、八ヶ岳山麓「蕪(かぶら)の森スタジオ」を訪ねる。
 ご存知、真木千秋の実妹・真木香の工房だ。
 十年ほど前からこの高原で染織に励んでいる。

 久しぶりに訪ねると、自宅とは別棟にアトリエが新設されている。
 パートナーであるR(写真右端)が一年がかりで設計・施工したものだ。Rは私ぱるばの旧友なのだが、最近は大工をやっているという。昔はミュージシャンだったはず。多芸な男なのだ。
 静かな森の中にあるスタジオ。うらやましいくらいの環境だ。
 カナダ製の手機に向かう真木香。サンジュ&サンギータ夫婦が興味深そうに見学している。
 蕪の森スタジオのホームページはこちら
 

 



10月23日(火) 金色姫のものがたり

 常陸国(茨城県)筑波山の近く、小高い山の中腹に鎮座する「蚕影(こかげ)神社」(写真右上)。
 ここには不思議な物語が伝わっている。
 昔々、天竺の国に金色姫という王女がいた。継母にいじめられ苦難の生活を送り、流浪の末、常陸の海岸に漂着する。地元の老夫婦に助けられ可愛がられるも、ほどなく帰らぬ人となる。その恩返しとして、唐櫃(からびつ)に入った姫の亡骸が蚕に変わり、そこから日本に養蚕が広がったという。
 同名の神社は関東甲信の各所に散見されるがいずれも当蚕影神社の分社であり、広く各地養蚕家の崇敬を受ける。

 右下写真が当社に奉納された額。唐櫃を開けた老夫婦が描かれている。
 奉納者は「長野県信濃国小県郡神川村大字国分/国分蚕業会社員/蚕種製造人/山邉六兵衛」とある。この国分とは現在の上田市国分であり、この地名と氏名を見ると、どうやら私ぱるばの親戚筋かもしれない。わざわざここまで参拝に来たのだ。調べてみると上田市国分には確かに蚕影神社がある。上田もかつては蚕都と呼ばれた町であった。

 今はかなり寂れた古社である。
 まさに日本蚕業の盛衰と歩調を合わせてきたのだ。
 参道にある茶店で販売している蠶影羊羹(写真左上・蠶は蚕の旧字体)は、昭和初期の最盛期には一日二千本も売れたこともあったそうだ。今は一日一本も売れるんだろうか…?
 パッケージには繭玉と桑葉があしらわれ、側面には「養蠶大當利」(養蚕大当たり)と書いてあって、養蚕家は思わず買ってしまうに違いない。

 養蚕の起源は中国・長江上中流あたりと推定され、それが弥生時代に中国東岸ないしは朝鮮半島経由で日本に伝わったと考えられている。
 それゆえ、天竺インドから金色姫が養蚕をもたらしたというのは、かなり???な話である。
 あるいは、インドには多化性の小さな黄色種が存在しているから、(Makiでも「マルダシルク」として重宝している)、あるいはそれが黄金姫として伝わったのか。
 写真左下はシルク入り化粧石鹸「金色姫」。

筑波峯(つくばね)の新桑繭(にいぐわまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲しも  (筑波絹の新しい衣は持ってるけれどもあなたの衣がとっても着たい!!…万葉集・東歌)

 

10月28日(日) 美濃・多治見にて

 昨10月27日より、岐阜のギャラリー百草にて展示会。
 こちらでの展示会は今回で八度目になる。
 このたびは染織家・谷口隆さんとジョイントだ。

 谷口さんといえば、今年初めganga工房にも招聘した紡ぎのスペシャリスト。
 この展示会にも手紡機を二台持参し、実演やワークショップを行う。
 写真は昨日、閉展後の模様。
 谷口氏(左端)から木綿手紡ぎの手ほどきを受ける真木千秋と秋田由紀子。
 明治期の竹製糸車だ。台はヒノキ。重石に砧を使っている。竹皮も有効に利用されており、古人の知恵を感じる。
 谷口氏もツム(紡錘)に工夫を加えるなど仕事をしやすくしている。夜なべに時を忘れて紡ぐのだそうだ。
 私ぱるばもやらせてもらったが、一週間も練習すればかなりやれるかも。

 右端は今や国際的陶芸家となったギャラリー主・安藤雅信氏。2007年には竹林でも展示会を開催。最近は台湾はもちろん中国本土からも引き合いが来るという。こういう御時世だからこそ善隣友好のためにも活躍して欲しいものだ。
 その隣が衣作家・安藤明子さん。2003年にはMaki青山店で展示会を開催。その時お腹の中にいたフキ君、今はもう小学生だ。
 百草での展示会には、いつもと同様、明子さんがMaki布を使って作ってくれた衣や座布団なども展示されている。11月11日(日)まで。
 

 



10月30日(火) マスミツ氏のヒモ問題

 造形作家・増満兼太郎氏来竹。
 12月1日よりここ竹林で氏の展示会が開催される。
 その日のため、氏は年初にインドganga工房を訪問するなど、着々と準備を重ねて来た。(はずだ)

 本日は展示会キュレーター石田紀佳と連れだっての来訪であった。
 写真右上は母屋二階。
 今回は久々にこの50畳スペースを使って何かをしようという趣向。
 いったい何をするのか!?
 それは、「何かが降ってきたら」だという。
 ということは、降ってこなかったら何もしないわけだ。
 というわけで、何が降ってくるかは当日までのお楽しみ!

 竹林shop一階も増満ワールドになる。(写真右下)
 高さ5mの天井を見て、「ここは牛にしようかな…」
 牛!?
 まあ、牛はインドでは聖なる動物ではあるが。
 さて、どんな牛が出現するのだろうか。

 秋の日もとっぷりと暮れ、母屋の台所。
 やおら真木千秋が奥から糸々を持ち出し、撚りをかけ始める。

 増満氏のヒモ問題だ。
 氏は金工もよくするが、たとえばペンダントにつけるヒモに苦労するらしい。
 その辺は真木千秋の得意技だ。
 インドネシアのアタカス(ヨナグニサン)糸や、家蚕の玉糸、タッサーシルクのギッチャ糸…。
 そうした糸々を撚ってヒモを作り、増満氏持参の洋白(洋銀)製ペンダントに通してみる。(写真左)
 増満氏もまんざらではなさそう。
 当スタジオも今までいろんな野蚕糸を使ってきたが、アタカスは初めて。
 はたしてMaki史上初、与那国蚕糸のデビューなるか!?

 

11月9日(金) 世界の織機

 西日本出張の合間に、勉強のため、奈良国立博物館と国立民族学博物館を訪ねる。
 前者は「正倉院展」、後者は「世界の織機と織物展」を開催中。
 晩秋の一日どちらを観覧しようかと迷っている向きもあろうが、本ページ読者には、ズバリ、後者がおススメ。
 まず、正倉院展は、混んでいる。そして、今年の染織関連宝物は小粒である。

 大阪万国博記念公園にある民博(民族学博物館)の特別展示館で開かれている「織機と織物」展。手織機を中心とした展覧会だ。
 そもそも織機は多種多様で、分類も難しい。
 本展覧会では、とある革新的な定義によって、織機を分類する。
 その定義とは、「織物とは張力をそなえたタテ糸にヨコ糸を組合せたもの」。
 その定義に従って、伝統的な手織機が、からだ機、手機、腰機、芯機、弓機、杭機、錘機、重石機、棒機、枠機に分類される。ややこしい!?
 ま、分類など実はどうでも良いかもしれない。が、ただヤミクモに織機を陳列しても国立博物館的な展覧会の体はなさないから、こういうことも大事なのである。
 とにかくものすごい数の手織機が展示され、その多くが民博の所蔵品なのだ。たいした博物館だと思った。通常こうした織機は展示されていないから、特に染織研究者にとっては貴重な機会だろう。
 惜しむらくは、繊維素材および手作り糸についての展示が乏しいことだ。なんとなれば、手機の分類以上に布の出来を左右するのが、素材となる糸そのものだからだ。次回はそちらの方面に焦点をあてた展覧会を要望したい。
 今後の参考のために、展示会の目録が欲しいと思ったが、まだ出来ていないという。かなりの大冊になるようで、出来上がりは来年春になるらしい。

 ともあれ、染織に関心ある人には興味の尽きない展覧会だ。本館展示も含め、一日ゆっくり過ごしたい。同じ公園内にある大阪日本民芸館も要チェック。

 
「世界の織機と織物」展入口


11月13日(火) 島原とインドの意外な関係

 来週水曜から展示会が開かれる、長崎県の島原。
 下見に訪ねてみた。
 場所は、島原市の中心部にある猪原金物店
 江戸・安政年間の建物で、店先に泉がある。
 金物屋の奥には、ギャラリースペースとカフェ。
 写真がそのギャラリーだ。ご案内は今回の主催者・高瀬愛子さん。
 来週水曜の初日には真木千秋&ラケッシュもお邪魔して、昼にはインド・ランチも提供する。(満員御礼!!)

 街の真ん中には、不相応なほど大きな城郭がある。島原の乱で名高い島原城だ。
 再建された天守閣は歴史博物館になっている。
 ここで意外な事実を発見!

 島原はかつて日本におけるキリスト教信仰の中心地だった。
 戦国時代には、キリスト教の初等教育機関であるセミナリオ、および高等教育機関コレジオがここ島原半島に設けられる。
 そのセミナリオに学ぶ若者の中から四名が選ばれ、天正遣欧使節としてポルトガル船によってローマまで送られている。
 天正遣欧使節といえば、記録に残る日本人初のインド渡航とされている。ローマへの途上、当時ポルトガル領のゴアに立ち寄ったのだ。ゴアと言えばインド東岸の名高い保養地だ。
 ということは、島原とインドとは、昔から深い縁で結ばれていたことになる。

 それで初日のインド・ランチも早々と売り切れてしまったのかな!?
 初日以外は猪原金物店のカフェがオープン。カレーもあるし、島原名物の餅もウマい。(11/21 — 11/26 島原市上の町912 猪原金物店)

 
猪原金物店のギャラリー。庭の泉水には亀も。


11月15日(木) 国分寺にマスミツ氏を訪ねる

 真木千秋はじめMakiの面々は、増満作品の愛用者だ。
 その出会いは、2008年えみおわす展の折、増満氏が作品を持参して竹林に登場した時に遡る。
 爾来、Makiの面々は、増満氏の工房や展示会に出かけては、サボ(サンダル)やバッグなどを手に入れるのであった。

 東京・国分寺のとある路地に面して、増満氏の工房「ハウス」がある。
 十年ほど前にここをオープンした時には、奥で寝起きもしていたという。
 かつては店舗も兼ねていたが、今は仕事場のみだ。
 このような場所から、あの増満作品が生まれるのである。
 鹿児島出身の増満氏、都内某美大の建築科を出るが、卒業製作は靴だったという。「中村好文さんの後輩だなんてとても言えません」と笑う氏であるが、いやいや立派な後輩である。

 私ぱるばが訪ねた時は、床革カバンの底を製作中。(写真上)
 床革(とこがわ)というのは、ツルツルした表面を除去した革だ。
 これも竹林shopでの展示会に登場する。
 完成品は左上の方にちょっと見える。
 工房には様々な工具や材料が並ぶ。(写真下)

 今日は、真木千秋の作った糸紐を届ける。
 増満作のペンダントに通すシルク紐だ。
 「やっぱり手作り品は良いですね」と増満氏。
 展示会は12月1日からだから、あと半月だ。

 昼は増満氏と連れだって、近所のカフェスローへ
 その厨房には4月のチクチク展でサモサを作ってくれた北村朋子さんもいて、Makiともご縁のあるところだ。増満作品も飾ってある。
 広々とした店内で、野菜を中心とした健康的な昼食が提供される。
 都内の駅から近いところにこんな店があるなんてチト感動的。
 サービスもスローかと思ったらそんなこともなく、これはおススメである。

 

11月22日(木) タイで野蚕学会

 現在、田中ぱるばは、タイで開かれている国際野蚕学会に参加中。
 場所はタイ東北部にあるマハーサラカム大学だ。(写真上)
 第七回目を数える同学会であるが、前回は二年前東京で開かれ、そのときは当スタジオも展示参加をしている。おかげでインド・アッサムの研究者と懇意になり、エリ蚕やムガ蚕が豊富に使えるようになったという経緯もある。
 今回はチト遠いので、私ひとりで参加だ。
 アジア各国を中心に世界から二百名ほどが、ここタイのかなり僻遠の地に参集。
 会場の一角に仏壇がしつらえられ、開会式は学長による仏陀礼拝に始まるという、仏教国ならではの学会であった。
 その後、朝の9時から夕方5時まで、講義や研究発表がびっしり組まれている。
 我々にも興味深い応用的な報告から、手も足も出ない分子生物学的な研究まで様々だが、総じていろいろ勉強になる。

 多方面の蚕糸関係者と交流できるのも国際学会の魅力だ。
 その中のひとつが、中写真にあるエリ蚕糸。
 タイでもエリ蚕業は盛んであるようだが、我々も見たことのない野性的な糸がある。
 併設の展示会場で見つけたものだが、出品者によると、エリ蚕の手挽き糸だという。
 エリ蚕は基本的に穴開き繭で、糸挽きはできないことになっている。インドではすべて真綿にした後、紡がれる。タイでは一部、糸挽きが行われているという話があるが、それがこの糸なのだそうだ。写真を撮ってその場で真木千秋に送ったところ、ぜひ欲しいというので、いくばくか購入する。

 一日しっかり勉強した後は、大学の中庭で歓迎パーティ。タイ料理でもてなされる。
 舞台と花道がしつらえられているので何かと思ったら、そのうちタイ舞踊が始まる。
 大学の女学生たちが、シルクのタイ衣裳をまとって登場。きっとこのときのために練習したのだろう。じつに愛らしいステージであった。が、それはまだ前座。
 圧巻は大学総出のタイシルク・ファッションショー。(写真下)
 副学長(青色男性)を先頭に、理学部長(右隣のピンク)、教授連、博士連、留学生まで、シルクの衣裳をまとって次々に登場。そのたびに会場の周りにいた学生たちから歓声が起こる。三十人ほども登場しただろうか。かなりプロフェッショナルなモデルウォークをする教授もいる。よくこんなにたくさんの衣裳を揃えましたねと理学部長に尋ねると、みな個人の持ち物だという。「私のも五年前に買ったのよ、でも色が色だから着る場面は限られるわね、結婚式とか…」。Makiシルクとはだいぶ趣の異なるブライトな色調だが、これはインドも同じこと。舞台も教員や学生の手作りだそうだ。私にとっては、彼らの衣裳より、理系の行事でもこうなるというタイのオープンな風土が印象的だ。
 「こんなメチャメチャな学会はない」とは、関西から出席した古参教授の弁。研究者のほか、生産者や流通業者、メーカーから工芸作家まで幅広く参加する同学会ならではの趣向かもしれない。

 というわけで、まだ勉強の日々は続くので、今日はこの辺で。
 

 

11月25日(日) エリ蚕の一生

 タイ・マハーサラカム大学で行われた第七回国際野蚕学会も、盛会のうちに終了。
 参加者の多くはこの学園町を去る。
 私ぱるばは、ひとつ気になる場所があったので、車を仕立てて訪ねることにする。

 ポンペット夫妻の家だ。
 彼らに出会ったのは三日前。野蚕学会でのことだった。
 展示会場の一角で、野太いエリ蚕糸を出品していた。前回の雑記に書いたごとく、繭から「挽いた」糸だという。
 いわば「エリ蚕の生糸」。今まで誰も耳にしたことのない類の糸だ。
 「タイの某処でエリ蚕から糸を挽いている」という話は野蚕学会の会報で読んではいたが、それがこのポンペット夫妻の処だったというわけ。

 場所はマハーサラカムから北東に100kmほど行った、バンノンスン村。
 なだらかな山々に囲まれた、美しい農村であった。
 タイのエリ蚕はインドから伝えられたものらしい。
 この地方では、タピオカの原料となるキャッサバが広く栽培されている。キャッサバの葉は通常は捨てられるが、その葉でエリ蚕は育つ。
 そこでこの村にもエリ蚕が導入され、多くの農家が手懸けるようになる。しかし、思うように買い手が現れず、結局すたれてしまう。
 夫妻がエリ養蚕を始めた今から5年前は、村人たちがエリ飼育から離れる時期だったという。まだ三十代だと思われる夫妻は、ウェッブページを開く(タイ語)など独自の活動で販路を広げ、当地でただ一軒エリ養蚕を続けている。

 夫妻のユニークな点のひとつは、前述の通り、エリ蚕の繭から糸を挽くということ。
 これは「エリ蚕は挽けない」という常識を覆すものだった。当地では昔から養蚕が行われていたが、家蚕の糸挽きをエリ蚕にも適用したのだ。そうして「エリ蚕の生糸」が挽かれている。
 残念ながら今は稲刈りシーズンで糸挽きは見られなかったが、80〜100粒から挽くという。おそらく家蚕のようには繊維がキレイに解舒しないのだろう。家蚕の100粒よりずっと太く、また不均一な糸になっている。

 夫妻の蚕室を見せてもらった。
 自宅の横に作られていた。まだ仮設だという。屋根は草葺き。天敵である鳥や蟻を防ぐ工夫もなされる。 (写真1)
 その蚕室の中に、仕切りが設けられ、様々な段階のエリ蚕が飼育されている。
 エリ蚕は孵化して1齢、それから成長して脱皮するごとに2齢、3齢と段階を踏むが、写真2が2齢。1cmほどだ。食べているのがキャッサバの葉。
 写真3が最終齢の5齢。この写真のように黄味を帯びると熟蚕で、繭を作る段階となる。ちなみにこの手は私の手。トゲトゲ見える部分も別に痛いものではない。
 写真4が、紙マブシの中に結ばれたエリ蚕繭。紙マブシのほか、竹で作られた美しい伝統的な円形マブシもあったが、繭の品質は紙製が勝るようだ。
 写真5は採卵用の繭から羽化したエリ蚕成虫。成虫はここで相手を見つけ、交尾し、繭上や側壁に卵を産み付ける。下には蛾の遺骸がたくさん落ちていた。交尾産卵すると速やかに逝くのであろう。なんかうらやましい。桜花の如き散り際だ。
 孵化から産卵まで45日ほどだという。そして卵は10日ほどして孵化する。エリ蚕は多化性で一年中休み無くそのサイクルを繰り返す。だからこの蚕室でも休み無く、常に様々な段階のエリ蚕が飼われている。

 繭は冷蔵庫の中、5℃以下の状態で保存され、状況に応じて、他の農家で挽いてもらう。
 また夫妻は、エリ蚕サナギの食品化にも取り組んでいる。既に缶詰として製品化されているが、試食したところ、かなりイケるものであった。(糸挽き後の家蚕サナギのような特有のニオイがない)

 というわけで、様々な努力を重ねながらエリ蚕飼育に取り組んでいるのであった。
 タイ東北部はイサーンと呼ばれ、タイの中でも一番開発の遅れた地域だ。そのイサーンの中でもラオス国境に近い、いわばタイの辺境で挽かれていたエリ蚕生糸。果たしてMaki布の中で活かされるであろうか。

 ところで、このバンノンスン村で、エリ蚕缶詰にも劣らぬ、ある驚くべき食品に出会ったのであった。それについてはまた機会あったら述べることにしよう。

 


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11月26日(月) イサーン・驚きの食材

 昨日の続き。
 タイ東北部「イサーン」を訪れたのは今回が初めて。
 実はあるお目当てがあった。カオニャオ、すなわちモチ米だ。イサーンではカオニャオが常食にされている。私はこれが大の好物で、タイ国内はもちろん諸外国のタイレストランでも常に「カオニャオ」を注文する。置いてないところの方が多い。
 日本の餅も好きだが、タイ米(長粒種)のモチ米はじつにウマいものだ。

 ところが、このイサーンでも、ホテルのレストランには置いてない。
 野蚕学会でも毎食けっこうな御馳走が振る舞われるのだが、やはりカオニャオは無い。いつも普通の米だ。田舎食として差別されているのか…。
 イサーンに到着して五日目、今日こそは絶対カオニャオを食べるぞと心に決めて、ポンペット夫妻の村に向かう。
 昼飯時になって、「カオニャオが食べたい!」と言うと、「ウチにもありますが…。では一緒にレストランに行きましょうか」と車で案内してくれる。レストランと言っても村の飯屋だ。一軒目には置いてなく、二軒目にしてやっとご対面。待望の本場イサーンのカオニャオ!!
 私が写真を撮ったりして大感激していると、同行したポンペット妻の妹イギーさんが、「ウチにはもっと良いカオニャオがあるわよ」と言う。
 どんなカオニャオかと聞くと、黒米カオニャオだという。へぇそんなの初耳!と驚いていると、じゃ持って来ましょうと、ポンペット夫が妻の実家へ一走り。姉妹の父親が作った黒米だという。昼用に炊きあがったホカホカのを持って来てくれた。写真上、皿上の左が普通のカオニャオ、右側が黒米カオニャオ。右上に小カゴが見えるが、これがカオニャオのお櫃。
 この黒米カオニャオ、食してみると、白米よりプチプチした感じで、いと味わい深い。滋養も豊富だという。
 こんな素晴らしい食材なのに、イギーさんは昼食にしかカオニャオを食べないという。なぜかと言うと、重たいし、ダイエット向きではないからだそうだ。重たいかどうかはわからないが、たしかにカオニャオは美味すぎて、どうしても食べ過ぎてしまう傾向はある。(日本の餅と同じ)

 ともあれ、今イサーンは、そのカオニャオも含め、稲刈りのシーズン。あちこちの畑で農民たちが収穫に勤しんでいた。といっても、やはり日本に比べるとのんびりした感じ。(写真下)
 それでも彼らにとっては一番大事な作物だから、糸を挽いている暇はないわけだ。それで私もエリ蚕の座繰りは見学できなかった。糸作りが再開されるのは、12月になって稲刈りの一段落する頃だという。
 

 






11月28日(水) 晩秋のganga工房

 タイからインドに移動した田中ぱるば。
 今回は南インドのバンガロールで糸素材の探究だ。
 (それについては明日あたりご報告いたそう)

 ついでに、ちょっと所用もあって、北インドのganga工房に足を伸ばす。
 デリーからローカル飛行機に乗って北を目指すと、遥か前方に雪を頂いたヒマラヤの峰々が陽に輝いている。
 11月にインドを訪れるのはこれが初めて。実に気持ち良い季節だ。
 雨期はとうに終わって空は晴れ渡り、今日の最高気温は22℃だった。
 山麓だからさすがに朝夕は冷えるが、それでもまだ火を入れるほどではない。
 田畑の収穫は終わり、サトウキビくらいしか残っていない。

 午後二時過ぎに工房を訪ねると、女たちはみな外で仕事をしている。
 左側の二人は糸紡ぎ。右側の二人は仕上げ。(写真1)
 うらやましいほどの、のどかな仕事風景だ。
 何を紡いでいるのか近寄ってみると、これがまた新しい混紡糸だった。
 ヤクウールと、ムガ蚕と、エリ蚕。これは世界広しと言えども、インドでしかできないブレンドだろう。
 写真2の手前側で私が持ち上げているのが、そのフリース(梳った混合物)。フカフカでまことに気持ちいい。7割がラダック産のヤクウール。3割がアッサム産のムガ蚕とエリ蚕だ。すべて天然色。ヤクウールの濃褐色が美しい。そこに混じる金褐色がムガ蚕、白色がエリ蚕。
 手前で紡いでいる人がカンタ、奥がその叔母で紡ぎ主任のバギラティ。
 この混紡糸はやがてショールに織られることになる。

 そのショールを織っているのが織師ママジ。(写真3)
 晩秋の日を浴びながら機の前に座っている。
 機にかかっているのがパシミナと絹の混紡ショール。これも7対3の割合だ。工房長のサンジューが織りをチェックしている。
 これを織り終えると、上掲のヤク混紡のショールを織ることになる。長繊維である絹が混じることによって生地が薄手となり、パシミナやヤク100%より季節的に長く使える。

 機場の奥に陣取るのは、ウールのスペシャリスト織師マンガル。(写真4)
 元遊牧民だ。上記のバギラティの夫。
 今日も元気に大機を操っている。
 メリノウールのタテに、ヒマラヤウールを打ち込む。パンツを機の上で織出している。

 中庭ではディネッシュがムガ蚕の繭を乾かしている。(写真左)
 一週間ほど前、インド北東部のアッサム州から届いたものだ。
 今までムガ蚕は、生糸や真綿は使ったことがあるが、繭は初めて。
 見ると上質の繭だから、これは生糸に挽くのだろう。
 ムガ生糸と言えば「インドの至宝」と呼ばれるくらい貴重な糸だ。インド国内でもアッサム州以外ではなかなか手に入らない。
 はたしてganga工房でどんなムガ生糸が挽かれるのだろうか。

 おそらく一年でいちばん良い季節。
 工房のみんなはそれぞれ自分の職分に励むのであった。

 帰り際にカレーリーフを手渡される。ラケッシュに頼まれたのだ。柑橘系灌木の葉っぱで、インド料理には欠かせない。工房の周りには、そこらじゅうに自生している。
 日本では乾燥葉は手に入るが、生葉は難しい。乾燥葉と生では効果がまるで違うのだ。この生葉は、12月1日から始まる増満兼太郎展のランチに使われるはずなので、諸君、注目!!

 


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12月4日(火) シルクシティを訪ねる (やや専門的)

 一週間ほど前のこと、野蚕学会参加のついでにインドを訪ねる。
 南インド、カルナタカ州だ。
 カルナタカ州と言えば、インド28州のうち、最も養蚕の盛んな州である。
 インドの蚕糸研究や行政を統括する繊維省蚕糸局の本部も、同州の州都バンガロールに置かれている。
 Makiも今から二十年ほど前にバンガロールを訪れて以来、同州に産する家蚕糸をずっと使い続けている。絹素材の供給地として欠くべからざる存在なのだ。
 今回はganga工房長のサンジュを伴い、バンガロール郊外の街ラマナガールに赴く。紡織工房を預かる者にとって、糸素材の出所をしっかり把握するのは必須の仕事である。
 訪問先はアフサル・カーンという糸屋さんだ。

 ラマナガールはバンガロールから西に50kmほど。別名「Silk City」と呼ばれる。カーン氏によると、インド第一の繭の集散地で、日量54トンの繭が搬入され、3500の工場が製糸に携わっている。カーン氏の一族も祖父の代、1952年にこの仕事を始めたという。
 カーン氏のユニークな点は、通常の製糸のほか、繰糸屑も扱っているところだ。繭から生糸を挽く際、その様々な段階で屑や残余が出る。その量は微々たるものでも、3500も工場があると、かなりの量となる。そうした残余を扱う業者が5〜6軒あって、彼もそうした中のひとつなのだ。
 繰糸屑と言えば、私たちも非常に興味あるところだ。Makiが愛用してやまないナーシ絹やカティヤ絹も、そもそもはそうした繰糸屑から紡がれる「副蚕糸」なのである。

 ここラマナガールで扱う繭の9割以上が、コラル種と呼ばれる淡黄緑色をした中型の多化性繭だ。同地方で長年にわたって養蚕されている品種という。おそらくインド土着の多化性小型黄繭(ニスタリ種)を品種改良したものだろう。(写真1)
 繊度2.75デニールという細繊度で、同地方では通年養蚕される。
 カーン氏の工場では、乾繭ではなく、生繭のコラル種から糸を挽く。Maki竹林工房でも毎年春繭から糸を挽くが、生繭から引く糸は色艶が美しい。

 コラル種から挽かれる糸は、写真2のごとく繭と同じ淡黄緑色をしている。この淡黄緑色は何年経っても褪せないという。写真の糸は、細い単糸で、サリーに使われる。
 Makiにとって必要なのは、細繊度蚕糸による双糸だ。つまり、単糸を二本撚り合わせて作る糸。はたしてこのコラル種単糸から望み通りの双糸ができるか!?
 Makiの使ってきた細繊度双糸「マルダ」は、前述のニスタリ種を使っている。繊度が2デニール前後の極細繊維だ。コラル種より細い。おそらく乾繭から挽かれている。
 カーン氏兄弟は撚糸場も持っている。私たちの持参したサンプル糸と比べると、このコラル単糸はやや細い。あと2〜3デニールほど太くして双糸を作れば同じくらいだとカーン兄弟は言う。つまり繭ひとつぶんか。
 ただ、ニストリ種に比べると、コラル種の糸はキレイ過ぎて、真木千秋好みではないかもしれない。ニストリ種の生繭からも双糸を生産するというので、やはりニストリ種でサンプル双糸を作ってもらうことにする。
 またコラル種単糸を三本撚りにすると、Makiで使ってきた「バンガロール・クリーム」という糸になるようだ。
 ここラムナガールでは、量は少ないが、二化性の白繭も流通している。日本種や中国種などを用いたハイブリッドだ。繊度は3.5デニールというしっかりした繭だ。この糸で双糸を作るとMakiのいわゆる「ホワイト・マルダ」になるという。

 カーン氏の工場では、コラル種の玉繭から玉糸も挽かれていた。(写真3)
 玉繭とは1頭以上の蚕がひとつの繭に入ったバロックな繭だ。この繭から挽かれる糸は玉糸と呼ばれ、節があってチト面白い。
 玉糸はデラドンの蚕糸普及所で挽かれていたが、技術的な問題で、イマイチ良い糸ではなかった。
 こちらの玉糸はそれに比べて上質に見える。さて、Makiで使えるかどうか。

 さて、糸とともに、Makiにとって興味あるのは、真綿だ。
 ganga工房には専任の紡ぎ手がいるので、真綿から糸が紡げるのだ。
 また、羊毛やパシミナ、ヤクウールなどと混紡して、新しい糸を作ることもできる。

 まず家蚕の真綿。
 養蚕や繰糸のいろんな段階で、いろんな真綿ができる。
 カーン氏の工場でも五種類ほどの真綿が見られたが、いちばん目を引いたのは写真4の真綿。
 これはカセ上げの段階で出た屑から作られたものだ。屑と言っても、もともと上質の生繭から生糸として挽かれたものだ。それを機械的に梳っただけなので、繊維の変質が少なく、生糸に近い光沢を保っている。コラル種がほとんどなので繊度は細く、それが混紡にどのような影響を与えるかは興味あるところだ。
 この写真右側の人物がカーン氏。髭面のイスラム教徒で、当年とって49歳。見かけはイカツイが、なかなかの好人物であった。

 野蚕糸の真綿もいろいろ。
 写真5はタッサー蚕のナーシ真綿。これはタッサー繭のヘタの部分に由来する。およそ「シルク」の中でも天然状態で最も濃色なのがこの部分。タンニン分が多いのでこうした濃色を呈する。Makiでも最も人気のあるシルク素材だ。
 タッサー蚕の産地はインドの中でも僻地であり、またヘタという限られた部位であるので、こうして真綿として入手できるのは稀なことだ。繊維長はかなり短い。使い方には工夫が必要だろう。

 写真6はカティア。タッサー繭の繰糸屑だ。この真綿から紡がれるのがカティア糸で、Makiでも様々な場面で使われる。タッサー繭の外側および内側の、繰糸できない部分だ。これも入手するのは難しい。
 繊維長は長く、手触りも野性的だ。パシミナやヤクのような柔らかな繊維と混ぜるのも一興だろう。
 このナーシやカティアなどタッサー素材はどこから来るのかと聞くと、アッサムだという。ちと??な話だが、まったく有り得ないことでもない。

 写真7は正真正銘のアッサム産。ムガ蚕真綿だ。ムガ生糸のような黄金色の輝きはなく、柔らかい光沢を示している。手触りもソフトで、ややコシがない。ワイルド好みの真木千秋の気に入るかはイマイチ定かではない。
 これら真綿類は、当地から50kmほど離れたところにあるカーン氏の別工場で生産されるという。今回は残念ながら時間的な制約で訪問できなかった。

 その他、ニストリ種の玉糸、タッサー絹紡糸、ナーシ絹紡糸、絹ウール混紡糸など、様々な糸サンプルを入手する。はたしてMakiで使える糸はあるだろうか。

 というわけで、長々と書いたけれども、これは皆さんに当スタジオ活動の一端をご紹介するということもあるが、新鮮なうちに書いておかないと自分でも忘れてしまうのだ。そのためいささか枝葉末節にわたるところもあるが、その辺はご寛恕を。

 


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12月5日(水) 五日市!

 当スタジオ最寄りの駅は、JR武蔵五日市駅。
 かつて当所は東京都西多摩郡五日市町だった。(現在は東京都あきる野市)
 西多摩の物資の集散地で、昔はその名の通り、五のつく日に市が立った。新宿や渋谷あたりより賑わったそうだ。
 今はその痕跡もほとんどないが、それでも毎月五日になると、檜原街道に面した広場で骨董市が開かれる。

 久しぶりに市を訪れた真木千秋。とある店の前で面白いモノを見つける。
 竹筬(たけおさ)だ。
 明治時代のものだという。埼玉の日高地方で、着尺を織るのに使われていたそうだ。
 目がすごく細かい。インド・アッサム州では竹筬がまだ作られ、売られていたが、こんなに精巧なものではなかった。(最近人気のエリ蚕チャダルは竹筬で織られている)
 店のおじさんが安くしてくれたので、参考用にと三本買い求める真木千秋。(写真)。ここだけの話だが三本で阡円。作る手間から考えると破格の値段だが、もはや使う人が誰もいないのだ。
 それから、竹筬を載せている木製の容器。これは箕(み)だ。材は檜か杉だという。曲げ物で、なかなかの珍品だ。これも貳阡円。箕として使うことはあまりあるまいが、布のディスプレーなどに役立つかも。
 その他、竹枠の篩(ふるい)や古布など、掘り出し物いろいろの五日市であった。

 



12月11日(火) メンズ・クルタ

 12月も中旬に入った或る日。
 朝の最低気温は氷点下3℃を下回る。
 竹林のスタジオではインド行きの準備だ。
 今日は衣デザインの検討。
 パタンナー田村朋子さん(画面中央)の持参した縫製サンプルのひとつに、メンズ・クルタがある。

 クルタというのは、インド男子の上衣。
 主に薄手の木綿で作られ、軽快で気持ちいい。
 日本男児にも宜しかろうと企画する。
 直線を多用して布のロスの少ない合理的なデザインだ。
 ただ、インドのカタチをそのまま持って来ても、なかなか日本には馴染まない。
 脇のあたりがちょっと窮屈だ。
 インドの雰囲気をどこまで残しつつ、パターンに変更を加えるかがポイント。

 小柄な女子ならその雰囲気を活かしながら上手に着こなすかも。
 男子はまず着心地だろう。
 というわけで、カディ(手紡手織木綿)を使って男女兼用でイケるクルタを作ろうと検討を重ねる真木&田村のコンビ。
 年明け早々からインドだ。

 



12月15日(月) ニスタリのミステリ

 当スタジオで最も良く使う家蚕糸は「マルダ」と呼ばれる黄繭の糸だ。
 このマルダというのはインド東部にある地名で、実際の黄繭の名前は「ニスタリ種」である。
 この黄繭糸の調達がなかなか難しい。先月末に南インド・バンガロールまで足を伸ばしたのも、ひとつにはこの糸が目的だった。しかしながら養蚕の先進地バンガロールでは、主に改良種であるコラル繭を使った糸を生産している。(12月4日の記事参照)。ニスタリの糸はわざわざインド東部から取り寄せるのだそうだ。
 Makiではコラル種の糸は「キレイ過ぎて」あまり好まれない。その理由は長年の謎であったが、最近少しずつわかってきた。

 ニスタリというのは、インド土着の熱帯性多化蚕。(多化とは年に何度も孵化するということ)。東南アジアの「黄金繭」カンボウジュと近い品種であろう。
 繭が小さく、繊維は細くて短い。インドの専門家によると、繊度は1.7デニール、繊維長は400-500m。日本種のざっと半分だ。セリシン(ニカワ質の保護層)の様相も異なっているかもしれない。繊維が細くて短いと繰糸機に馴染みにくく、均質な糸が作りづらい。そうしたこともあって先進地バンガロールでは、ニスタリ糸は「質が劣る」と言われるのだ。しかしながら不均一を好む人もいるのだ。
 更に、糸の細さや柔らかさなども相俟って、Makiで最も重宝される家蚕糸となったのであろう。

 先日、タイ国で開かれた国際野蚕学会で知り合ったインド人研究者のひとりに、パッチャウ博士という人がいる。インドの東端ミゾラム州の人で、顔は我々と同じモンゴロイドのミゾ人だ。そんな民族があったとはラケッシュも初耳。インドは広い。
 山がちの同州では農民たちが今でも焼畑農業を繰り広げ、環境や生態、経済面で問題になっている。そこでなんとか養蚕を広めようと挺身している同氏が、「ミゾラム州の絹糸を買ってくれないか」と持ちかけてくる。「ニスタリの糸なら興味あるよ」と答えたら、送ってきたが右写真。しっかりニスタリがあるではないか。ただし、単糸のようだ。我々の欲しいのは、単糸を撚糸して二本重ねた双糸だ。それには撚糸機が必要。幸い同州の養蚕局には撚糸機があるようなので、もしかしたら東の果てミゾラムからニスタリの双糸が届くかも。(まあウチの使用量など微々たるもんであるが)

 蚕の原産地は中国・長江の中上流とされるが、こうした熱帯性多化蚕はどのようにして生じたのか? これは今でも謎である。ともあれ、かなり原種に近い蚕であることは間違いない。
 熱帯性なので暑さに強く、インドでは飼いやすい。しかしながら糸の生産性が低いので、この先どうなることか。


 

12月21日(金) Makiの次元上昇

 今日は冬至。
 巷では次元上昇の起こる日と言われたりしているが、みなさんはどうだったであろうか。
 当スタジオでは、次元の上昇は、あったみたいである。

 毎年、この時期になると、インドのビザを取得する。
 数年前までは東京・千鳥ヶ淵のインド大使館へ赴いたが、最近は茗荷谷のインドビザ申請センターへ出向く。
 今日はその受領日だ。午後五時、寒風の中、外で10分ほど待たされる。
 当スタジオも長年にわたりインド経済に多大なる貢献をしている(と自分では思っている)んだから、本来なれば招待されてしかるべきなのに…とか思いつつ、六人分のビジネスビザを有難く頂戴する。有効期限は1年(のはず)。
 これがないと当スタジオは仕事にならないのだ。
 いそいそと地下鉄・茗荷谷駅まで戻って、しかし、ちゃんと発給されてるんだろうなぁ、と心配になって、パスポートをチェックしてみる。

 すると…
 我が目を疑った。
 ビザの有効期限が December 2015 となっているではないか!
 …まてよ、今年はたしか2012年…
 ってことは、有効期限、3年!?
 6名が6名、December 2015 。
 二十有余年ビザを取り続けているが、こんなの初めてだ。
 言うなれば、一次元が一挙に三次元へとupしたような衝撃。

 というわけで、Makiもめでたく次元上昇!?

12月23日(日) アライ・ラマ邸訪問

 今日は天皇&真木千秋誕生日。
 この目出度き日に、スタッフ二人ともども群馬・桐生の新井淳一さん宅を訪ねる。
 氏は真木千秋の師だ。というか、千秋は氏のおしかけ弟子だ。
 というわけで、今日も一方的におしかける。
 年末のあわただしい中、いつもの通り氏は温かく迎えてくれる。

 実は来月1月12日から、東京オペラシティにて氏の個展が開かれる。
 我々も多少かかわっているので、インドに行く前にお顔を見に行こうと参上したわけ。
 写真上は、そのポスターを前に氏と真木千秋。
 「新井淳一の布 伝統と創生」というタイトルの、かつてない大規模な展示会なので、みなさんもぜひご観覧になると良い。

 尊顔を拝した後、新井邸内の倉庫に押し入る。(写真中)
 もと機屋(はたや)であった氏の家には、倉庫が幾つもある。
 そこにはかつて氏の手がけた布が山と積まれているのだ。
 真木千秋にとっては宝庫のようなものである。
 実は、来月1月9日から竹林Shopにて恒例のハギレ市が開かれる。
 その中で氏の反物をご紹介したいと、特別に頼み込んだのだ。
 今日案内された倉庫は、今まで入ったことのないところだった。
 床から棚上まで、反物でいっぱい。
 その中から真木千秋厳選の反物十数反を拝借する。
 もうちょっと準備期間があったら…と悔やまれるのであった。

 氏の仕事部屋も布の館だ。
 林立する棚にサンプル布がいっぱい。
 その中の数点を見せてもらう。
 「あぁ、コレっ!!」と指さす真木千秋。(写真下)
 なにやら思い出のある布らしい。
 この部屋だけで七百点のサンプルがあり、そのうちオペラシティに持ち出されたのは六十点ほど。
 真木千秋にすれば、みなさんに広く見てもらいたい新井布がもっともっとある。
 非力ながら竹林Shopにて特別展を開き、新井先生に親しく解説を願いたい、と希望を表明。いつまでたってもおしかけ弟子だ。
 そばでリコ夫人が「じゃ、それまでは死ねないわねぇ」と笑う。
 アライラマにはそう簡単に死んでもらっても困るので、特別展も二十年くらいのシリーズにして、小出しにやるかな。
 第一弾は来夏!(と勝手に決める。ちなみにアライラマのスケジュールは11月まで埋まってるらしい)
 というわけで、請うご期待!!
 

 

12月26日(水) 熊くんの土器

 最近、Makiの周辺によく熊が出没する。
 その中のひとり、熊谷幸治氏。通称・熊くん。
 増満兼太郎氏の紹介で知り合った工芸作家だ。
 今日はその増満氏とともに、山梨・上野原の熊谷氏宅を訪ねる。
 熊くんは今、土器を作っている。
 土器!?
 縄文や弥生じゃあるまいし、今どき!?
 あるのだ、それが。

 熊くんの場合、焼成温度が800〜900℃。
 柔らかい手触りだ。
 陶器でも木器でもない独特の風情。
 そぞろになつかしい質感だ。
 思えば我々の祖先は1万5千年以上にもわたって土器とともに生きてきたのだ。

 縄文の精神性と弥生の実用性を兼ね備えた土器。
 それが現在、熊くんの目指すところのモノらしい。
 土の産地によって異なる色合い。釉薬は使わない。
 石や布で磨きをかけることもある。
 焼成も窯ではなく野焼きだ。
 炎の当たり方によって、地に炭素が透入して黒色を呈する。
 焼き上がった後、蜜蝋を滲み込ませて水漏れを防ぐ。これは西方の技法らしい。
 
 熊くんの姿勢と作品にいたく感銘を受けた真木千秋。
 土器を十数点を購入する。求めやすい価格も嬉しい。
 さっそく家に持ち帰って土器体験だ。
 さて、どんなふうに食卓を演出してくれるだろうか。
 熊くんの土器は来年5月、竹林に登場するかも!?
 

 

真木千秋の持参したインドのチャイカップに興味津々の熊くん。右端は増満兼太郎氏

真木千秋の購入した熊くんの土器


12月30日(日) 松本ラボラトリオ

 信州第二の街、松本。
 国宝・松本城のすぐ近く、目抜き通りにたたずむギャラリーショップ・ラボラトリオ。
 木工作家・井藤昌志(いふじまさし)さんの店だ。
 ここラボラトリオでは、今月中旬より当スタジオのganga製品が展示されている。(写真上)

 故郷の岐阜・郡上八幡で仕事をしていた井藤さんだが、二年ほど前から活動の拠点を松本に移す。
 この店も松本在住の木工作家・三谷龍二さんのツテで見つけたそうだ。もともとは薬屋だったという。趣のある三階建ての「洋館」だ。
 それを改装してラボラトリオが誕生する。
 改装の設計にあたったのは福原正芳クン。じつは当スタジオスタッフ・大村恭子の夫君なのである。前々から建築家だという話は聞いていたが、ホントだったようだ。
 Makiの作品が展示されているのは、二階の展示スペース。
 その隣がカフェになっている。
 カフェでは細君マキコさん特製のマフィンがいただける。
 
 一階がShopだ。
 井藤昌志さんの木工作品や、衣料品、装飾品が置いてある。
 井藤作品の中心はオーバルボックスだ。日本で言うと曲げわっぱ。薄い板を曲げて作る。(写真下)
 オーバルとは楕円という意味。井藤オーバルボックスはアメリカのシェーカーが源流だ。あちらではメープル材が主だが、日本では桜材が人気だという。桜材は経年によって濃色になる。井藤氏の向かって右手に積んであるのが年を経たやつ。棚の最上段がメープルで、あとは桜だ。
 ところでこのオーバルボックス。妙に馴染みがある。じつは何年か前に真木千秋が購入し、糸入れとして愛用しているのだ。やはり年を経て良い感じの濃色になっている。
 そのほか、机や椅子、鏡台などの木工作品がある。

 この昌志さん、大学では人類学専攻で、フィールドは東アフリカだったという。なんとなく学究っぽい雰囲気。役者志望だったという三谷さんもそうだが、木工作家には変わり種が多いようだ。
 井藤作品にも、来年五月、竹林でお目にかかれるかも!?