絲絲雑記帳

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0/「建設篇」


 

1月7日(水) トワルチェック

 当スタジオも5日から仕事始め。
 明後日9日からの「ハギレ市」準備に並行して、今月後半からのインド出張に向けて準備に余念がない。

 今日は衣服担当の田村朋子さんが来竹。
 年末年始にかけて自宅スタジオで作ってきたトワルを山ほど持参して、トワルチェックだ。
 トワルというのは耳慣れない言葉だが、要するに、シーチングで作った衣服の原型。(シーチングとは生成の木綿布)
 それをモデルに着せてチェックするのが、トワルチェックだ。
 私ぱるばもメンズのモデルとして、パンツやジャケットを着せられる。写真はジャケットで、手にしているウール地で縫製する予定(織師マンガルによるツイード)。シーチングで作った原型を頭の中でツイードジャケットに変換するのは、けっこう修業が必要らしい。パンツも今までに無く裾のつぼまったカタチで、若々しい雰囲気だ。
 しかし、婦人モノのトワルの方が遥かに多い。真木千秋や大村恭子がとっかえひっかえモデルとなり、いろいろ検討している。

 この田村朋子さん(写真中の人物)、Makiにかかわって四年になるが、服作りにかける情熱は尋常ではない。ちょうど真木千秋の衣版みたいな人だ。デリーに住んでも良いというくらいインド好きなのも有難い。
 







 

1月18日(日) 大理石

 昨17日夕刻、田中ぱるばインド着。
 真木千秋は既に14日からここganga工房に滞在している。
 そして、建築家ビジョイ・ジェインの一行も昨日から当地に滞在中。

 私ぱるばは一月半ぶりに工房を訪れる。
 冬期は気温も涼しく、連日晴天で安定しているから、建設工事には最適だ。
 今までに比べ、進捗状況も芳しい。

 今朝はまず、皆で石材店を訪ねる。
 大理石の専門店だ。(写真左上)
 専門店と言っても、道路脇の野天に石材を並べているだけなのだが。

 インドは大理石が豊富だ。
 この店の石は、西部の砂漠地帯ラジャスタン州・アジメール産だという。
 写真左上の大理石はピンク系。ただ、裁断したままで研磨していないから、白っぽく見える。

 今ビジョイは大理石を使おうと考えている。
 左中写真は製織工房の内部。
 大理石を使ってのシミュレーションだ。
 まず、天窓が大理石。薄くスライスしてあるから、ある程度、光を通す。東京五日市・竹林Shopの天窓はガラスだが、ここインドではガラスだと暑すぎる。
 床と壁面下部も大理石だ。大理石敷きの工房ってのもチトぜいたくだが、インドでは石材のほうが木材より安かったりするのだ。
 大理石はマット(無光沢)の状態で使う。機械で磨かず、日常の中で育てて行くようにするという。ちょうど弊スタジオの布のようだ。
 ただ、ビジョイはいろんなことを考えるので、このまますんなり大理石の工房になるとは限らない。
 この大理石構想も最近出現したもののようだ。師匠の豊富な発想に呼応して、アシスタントたちは今宵もまた、夜の更けるまで机に向かっていることであろう。








 

1月20日(火) 竹の足場

 今回気づいたのだけれども、建設現場の足場は竹で出来ている。
 最近はインドも、日本と同じく足場は鉄パイプで組むようだ。
 しかし、昔ながらのgangaの現場では、足場も竹。
 そういえば竹の豊富な北東インドでも、建築現場の足場は竹だった。

 上写真は本日の昼下がり。
 ギャラリーとなる建物の縁に腰かける左からカビータ(環境デザイナー)、真木千秋、そして椅子に腰かける建築家ビジョイ。左方からアシスタントのペドロ君(ポルトガル人)が走ってやってくる。

 この辺りにも竹はあるのだが、あまり大きくない。
 工事に使うような竹は、隣州(南東)のウッタルプラデシュ産だという。
 街の竹材店から運んでくる。(写真中)

 日本の竹に比べると、肉厚。(写真下)
 強度のわりに細いから、取り扱いは楽であろう。
 足場の骨組みのみならず、並べて足場板にしたり、ハシゴにもする(写真上に見える)。
 竹には縁のあるMaki Textile Studioである。

 明日ムンバイに帰るビジョイだが、最終日の今日もいろんなアイデアが現れる。
 たとえば、床は牛糞土間にしようとか。
 一昨日は大理石だったと思うんだが…。
 牛糞土間というのは、牛糞と土を混ぜて固めた土間。伝統的な農家の土間がソレだ。しっとりした感触で、メンテも容易だ。
 しかし、大理石から一転して牛糞ってのもスゴい。この両者が同格だというのが、いかにもインド…というか、いかにもビジョイ・ジェイン、ないしは真木千秋。(価格はチト違うが)

 住居も牛糞土間になりそうだったから、「我が部屋はタタミが良いなあ」と私が言ったら、「うん、タタミもできるよ」とビジョイ。
 インドに畳があるのか定かではないが、日本を良く知るビジョイが言うんだから、きっと似たようなものがあるのだろう。

 ともあれ、ありとあらゆることを言う天才建築家だから、はたして床が牛糞になるのか、大理石か、はたまた砂岩か、木か、布か、漆喰か…。完成するまでは誰もわからないのである。








 

1月22日(木) エリの里帰り

 本日早朝…というか丑三つ時の午前二時過ぎ、日本からMakiスタッフが工房到着。服部謙二郎、秋田由紀子、檜山佳子の三名だ。

 それとともに、珍客が到来する。
 エリ蚕の幼虫だ。
 エリ蚕糸と言えば、当スタジオでも、様々な場面に登場する重要な素材である。私ぱるばなぞはシーツや枕カバーに至るまでもはや生活に欠かすことができない。
 そして檜山佳子クンは、今や日本でも屈指の「エリ蚕の母」なのである。エリ蚕にかける愛情は端倪すべからざるものがある。

 エリ蚕の語源は、ヒンディー語の「エランダ」、蓖麻(ひま)のことだ。
 「麻」がつくから繊維材料となるのだろうが、その実からは蓖麻子油(ひましゆ)が採れる。その葉に付く蚕だから、エリ蚕。日本語ではヒマ蚕とも呼ばれる。
 ヒマ以外にもキャッサバやニワウルシなど様々な葉を食うが、その名の通り、ヒマが第一の食樹だ。

 エリ蚕の故郷は、インド北東部・アッサム州だと言われる。佳子クンの持参した虫も、一年前、アッサム州から日本に渡ったものだ。
 ただ、佳子くん宅の近辺にヒマがなかったので、ニワウルシやキャッサバや人工飼料で育てる。今回の幼虫は8代目だそうだ。1代が1月半という計算になる。桑蚕と違って休眠しないので、ずっと育て続けないといけない。日本には四季があるので、その点が難しいところだ。
 
 今回、佳子クンがエリ蚕を連れてきたのは、まず第一に、当地でエリ蚕が越冬できるか見るためだ。
 ここ北インドには、ヒマがいくらでも自生している。
 上写真はそのヒマの若葉を摘み取る佳子クン。近所の道路脇に野生のヒマが山ほどある。ヒマは草だと思っていたが、このあたりのは灌木だ。ヒマにもいろいろあるらしい。

 中写真は持参のエリ蚕。白黒のツートンカラーがなかなかおシャレである。
 周囲に散らばる褐色のキャラメルみたいのは、大豆が主体の人工飼料。
 その虫たちにヒマの葉を与えてみる。
 一番の好物のはずだが、今まで食べていないので不慣れなのか、あるいは気温が低すぎるのか、なかなか食いつかない。

 工房のスタッフも、生きているエリ蚕を見るのは初めてだ。
 桑蚕とはまったく違う姿形に、インド人もびっくり。(写真下)

 エリサンが越冬し、また夏も越えられるようなら、ここganga工房でもエリ養蚕が始められるのだが、さてどうなるか。
 








 

1月23日(金) ハットリ君の七変化

 昨日、東京は雨だったようだが、こちらもときおり雨のちらつく寒い一日であった。
 そして今日、雲は多目ながら、晴天に復する。
 ここ北インドは、日本の関東地方みたいに、冬場は安定した晴天が続くものである。ただ、標高が六百メートル前後あるので、寒暖の差が大きい。昼間は20℃前後まで上がり、日向では汗ばむほどだが、夕方からグッと冷え込む。日本みたいに暖房機器が発達していないから、夜間などかえって日本以上に寒く感じたりする。

 そんな冬晴れの中、近所の畑では人々が打ち揃ってサトウキビ刈に勤しんでいる。(写真上)。日本と違って、農婦の衣がカラフルだ。
 そもそもサトウキビはインド原産で、このあたりでもあちこちで栽培されている。今の時期、収穫を控えて、人の丈以上に伸びている。象の好物で、ときどき出没して人々を驚かす。
 写真上の手前は麦畑。コサギが餌をついばんでいる。春になると麦が実って、麦刈り。その後、同じ畑が水田となり、秋には稲が実る。二毛作だ。

 ganga工房はそうした田園の中に立っている。
 中写真がその全景。
 左端が母屋で、二階が客室。今私ぱるばはその客室でキーボードを叩いているというわけ。
 真ん中の平屋が機場。手前に地機(じばた)のワラ屋根が見える。その右、背の低い灰白色が水場で、染めや洗濯が行われる。
 右奥の青っぽい建物は隣家なんだけど、ここも今は工房の一部だ。建物ごと借り切ってゲストハウスにしている。今、日本から来たスタッフ四名がここで寝泊まりしている。(そして画面右端がサトウキビ)。

 さて、昨日やってきた一人に、服部謙二郎という染織作家がいる。
 昔からのMakiウオッチャーなら聞き覚えのある名前だろう。
 そう、2005年に弊スタジオに加入し、三年ほど真木千秋の染織アシスタントを務め、それからどこへともなく消え去ってしまった。
 風の便りによると、南米ペルーに行ったらしい。
 それ以降、ハットリ君は、染織の術を究めながら、Makiと付かず離れず関わってきた。具体的に言うと、DMや冊子など、当スタジオ印刷物のグラフィックデザインを手懸けてきたのである。だから、原稿の締め切り間際など、インド・日本・ペルー間を頻繁にメールが行き来したものだ。
 爾来、幾星霜。気がつくと、今日は整経機を前にしてタテ糸を作っているハットリ君がいる。(写真下)
 ハットリという名前は、子供を持つインド人ならみんな知っている。忍者ハットリ君というテレビアニメが流行っているのだ。

 さて、このハットリ君、今後どんな変化(へんげ)を見せてくれるか、楽しみなことだ。(あまり早々にドロンされるのは困るが…)
 


1月24日(土) 工事現場の人間模様

 新工房の現場では、土日も関係なく人々が働いている。
 多くは州外からの出稼ぎだ。ここウッタラカンド州の賃金はインド平均に比べてかなり高いので、いろいろな所から人々が集まって来る。
 インドの建築現場は日本ほど機械化されていないが、特にここは古代遺跡を思わせる手作り現場だ。ほとんどが手作業で行われるので、建築現場とは思えないような静かさである。その点は、手織作業場のganga工房とちょうど同じだ。
 


スタジオムンバイから派遣された現場監督のシャリフル。西ベンガル州のマルダ出身。マルダと言えば黄繭の産地だ。その故郷から二十名ほどの村人がやってきて、現在、主工房の建築に携わっている。画面左、レンガがひとつ宙を舞っている。

 


マルダの若者たち。彼らも故郷では黄繭の養蚕に携わっている。イスラム教徒だ。休憩の間、スマホで音楽を聴いている。彼らの働き方は日本人みたいにあくせくしていない。もしかしたら休憩時間ではないのかも。


居住棟の建設に携わるのは、ネパール人の労働者。ネパール人はインド各地に進出しているが、ここウッタラカンド州は境を接しているためその数も多い。真面目で勤勉という評判。顔カタチも我々に近い。

 
同じく居住棟。ネパール勢は主にヒンドゥー教徒。男ばかりでなく女たちも逞しい。かなり重たいモノを頭に載っけて運んでいる。かつて日本の農婦たちも米俵を平気で担いでいたが、それに近いものがある。

西部ラジャスタン州から来た石工。砂漠地帯であるラジャスタンは石材の産地だ。金槌とタガネだけで石版を切り出そうとしている。


 
石材はおそらく石灰質の砂岩。線に沿って行きつ戻りつタガネを打ち、十分ほどでキレイに割れる。壁の支持材としてレンガの中に埋め込まれる。








 

1月25日(日) 朝霧の針場

 朝から濃霧に閉ざされた日曜日。
 もうじき昼の11時半になるのだが、外はまだこんな感じ。(上写真)
 これが首都デリーも含む北インドの「冬将軍」と呼ばれるもので、航空機や自動車の運行に多大な影響を及ぼす。近所のデラドン空港も、まだ一機の発着もないようだ。湿気があるので、肌は潤って良いのだが…。

 ganga工房では、日曜返上で人々が立ち働いている。
 日本からMakiスタッフが来ている時は、しばしばそんな具合だ。
 朝霧と同様、抗えない運命だと思って諦めるほかない。

 針場(はりば)という場所がある。縫製室だ。
 昨年夏、ganga工房内にスペースを新設して、ぐっと広くなる。
 中写真が今朝の様子だ。陽が出ないのでみんな厚着している。

 左端では縫製担当の田村朋子が真木千秋と生地を見ている。
 織師マンガルの機から下ろしたばかりの服地サンプルだ。
 タテに麻を混ぜ込んだヒマラヤウールの薄手生地。
 これでパンツを作ったらどうかと検討している。

 田村朋子の後方に居るのが、マスターテーラーのビレンドラ。
 新作ボートネックワンピースをボディに着せている。
 ganga工房初の格子柄生地で、タッサーナーシ絹やウールなどを素材に、織師グラムが織り上げた薄地だ。
 
 gangaの針場も、今やテーラーが3名と助手が1人。
 下写真は、最近加入したテーラー、ビカースだ。
 もともとヒマラヤ山中の町ルドルプラヤグで縫製店を開いていたが、一昨年夏のガンジス源流洪水で一切合切が流されてしまう。
 仕方なく妻子ともども麓の街リシケシに下り、運動靴のメーカーに職を得てしばし糊口をしのぐ。しかしながら縫製への情熱もだしがたく、人づてに当針場にたどりつく。
 まだ若く、真面目な性格で、腕も確かなようだ。
 真木千秋と針場主任サリタの見守る中、JUKIミシンでナプキンの縁を縫製するビカース。田村朋子が日本品質を指導している。
 田村は前職でインドの縫製工場に派遣され技術指導にあたった経験もあるので、こうした仕事は慣れている。

 首都デリーの針場は機場(はたば)から離れていて赴くのも一苦労だったが、ここganga工房では同一敷地内。おまけに職住接近だから、真木千秋もちょくちょくチェックできる。(気分転換になっていいんじゃないか)
 広いと思った新設針場であるが、人やミシンも増えて、たちまち狭くなってしまった。新工房の完成が待たれるところである。


1月26日(月) Make in India!

 今日はインドの共和国記念日(憲法記念日)。
 国民の祝日だ。働くと逮捕されるらしいので、工房も休み。
 ま、昨日が日曜出勤だったので、ちょうど良いか。

 さて、この日の呼び物は、首都デリーでの大パレード。
 インド門近くのラージャ大通りに設けられた主賓席には、インド首相に並んで、訪印中の米国大統領が座る。去年は日本の首相だった。
 パレードはライブで全国中継され、どのチャンネルを回してもそれしかやっていない。ganga工房のラケッシュ家もテレビ参観だ。それがなかなか面白い。(残念ながら写真はないのだけれども…)
 まずは軍事パレード、そして各州を紹介する山車(だし)が続く。そして、現代インドの挑戦を紹介する山車が次々に登場する。ガンジス川浄化計画、デリー・ムンバイ高速鉄道計画、宇宙開発、農村振興、健康増進…。
 そして、モディ首相肝煎りの「Make in India」も出てくる。山車の上に鎮座するのは、無数の歯車で出来ている巨大なライオン。

 このスローガンは文字通り、インドでモノを作ってね!ということだ。今回の米大統領訪印も、インド側の主な狙いは、米国からの投資呼び込みにある。
 今朝の朝日新聞にも「第66回インド共和国記念日」という全面広告が掲載され、ディーパ駐日インド大使がMake in Indiaについて次のように呼びかけている — 「中小企業から大企業まで、すべての日本企業の皆様には、是非この唯一無二の機会をご利用になり、インドで製品を作り、萌芽期にあるインド市場の隅々にアクセスできる流通産業を開発し…云々」

 ま、弊スタジオも、中小にすら入らない零細企業なんだけども、四半世紀前からMake in India に励んでいるのである。
 写真は昨日の様子。
 秋田由紀子が織師ママジと、ヒマラヤウールのマフラーを作っている。
 アフリカの織物を思わせる今年の秋向けの新しいデザインだ。

 昨日の午後、ヒマラヤ山中の村、ドゥンダから羊毛が届く。(写真下)
 ドゥンダというのは、マンガル・バギラティ夫妻の村だ。
 下写真右端で糸をチェックするのが織師マンガル、左端が紡ぎ主任バギラティ。この夫婦は遊牧民の村に生まれ育ったウールのスペシャリストだ。今はganga工房のスタッフとして近所に住んでいるが、ヒマラヤ山中のドゥンダ(標高800m)とハーシル(同2500m)の両村に家を持っている。羊は毎年9月に高所のハーシルで毛刈りされ、主にドゥンダで手紡ぎされる。
 昨日来たのは焦げ茶とグレーの羊毛。すべて天然色だ。
 今年の羊毛糸はどうかと聞くと、なかなか良いとのこと。

 というわけで、Maki in India。ま、インド政府の期待するようなハイテクじゃないんだが、亜大陸の片隅にひっそり咲く野の花という感じか。

 







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1月27日(火) 早春の一日

 どうも天気がおかしい。
 晴天が続く冬の北インドのはずなのに、昨日も今朝も雨が降る。
 ラケッシュ母によると、ちょっと早めに春が来たのだという。一雨ごとに野原の緑が増していく。
 そういえば、東京も一月末なのに天気が周期変化しているようだ。日印ともに春の訪れが早いのかな。

 工房の庭は菜の花の盛り。
 ミツバチがせっせと蜜を集めている。(写真1 — 見えるかな?)
 小さなハチだから、おそらくは東洋ミツバチであろう。
 東洋ミツバチの蜂蜜はコクがあって美味。いつかこのハチで養蜂をやってみたいと思っている。

 そして小さな虫がもうひとつ。
 エリ蚕の幼虫が孵化する。(写真2)
 一匹だけ見えるが、わかるかな?
 上の緑葉の左端に取りついている。
 「エリの母」檜山佳子が数日間、昼も夜も胸元で暖め続け、ようやく今朝、孵化したもの。佳子クンは今日帰国の途につくので、その前になんとしても孵化を見届けたいと頑張っていたのである。
 白いのがエリ蚕の卵で、他にも孵化が始まっている。卵の下に敷いてあるのは家蚕の布。虫たちもシルクが大好きなようである。(当たり前か)
 エリ蚕の幼虫たちには、工房内に特別の部屋がひとつ与えられる。針場の隣の真新しい物置だ。
 泣きの涙で母が去った後、工房のスタッフが面倒を見ることになっている。

 そのワリを食ったのが、チベット犬の花子。
 今、妊娠中なのだが、その真新しい物置が産屋になる予定だったのだ。
 今朝、花子が変わった行動を取る。物陰に入り込み、穴を掘り始めたのだ。スワッ、出産かっ! ということで、急遽、こしらえた産屋が写真3。エリ蚕の部屋に比べ、だいぶ見劣りするのである。
 そのうち、花子の異常行動も収まり、とりあえず今日の出産は無かったのであった。
 しかしこの花子、1年と2ヶ月前は、こんなだったのである
 それがもう母親!
 写真3の手前は、熊五郎。これが父親かもしれない。
 雄犬はもう一頭いる。ブラックタンの松五郎だ。こっちが父親かもしれない。
 あるいは両方かもしれない。(…ということはあるのか?)

 エリ蚕の影響は別のところにも出ている。
 写真4は、なごやかなティータイム。
 時刻は午前11時43分。
 ティータイムにしてはチト遅すぎやしないかい!?
 工房では、午前と午後にティータイムがあり、インド式のチャイが振る舞われる。
 ところが今日午前のティータイムの際、そのチャイの中に、エリ蚕の母・檜山佳子が愛し子の糞を添加したのであった。
 エリ蚕の糞はビタミン・ミネラル豊富で、健康に良いらしい。檜山桂子としては何ら不適切なことをしたわけではないが、それを伝えられたインド人スタッフは飲用を辞退したのであった。それで新たにチャイを作り直しているうちに、こんな時間になってしまったというわけ。
 おかげで我々日本人スタッフは、栄養豊富な特製チャイをしこたまご馳走になったという次第である。

 かくしてganga工房、早春の一日が過ぎていく。
 






 

1月28日(水) gangaの若者たち

 小さな工房であるが、さきほど人数を数えてみたら、24人ほど働いていた。そこで今日のタイトルは「24の瞳」 — にしようかと思ったが、よくよく考えると瞳の数は48であった。
 ともあれ、竹林スタジオみたいな小所帯でもなかなかまとまらないのに、こんな異国の片田舎でよくやっているものだ。これもきっと真木千秋とラケッシュの人徳なのであろう。(!?)

 その瞳の半分くらいは近所の主婦や娘たちのパートタイムだが、中には将来を嘱望される若手のスタッフもいる。
 たとえば、シュルティ嬢。上写真、真木千秋の隣で絹糸を選り分けている。
 もともとパートタイマーだったが、英語ができるし利発で気立ても良さそうだったので、今回からフルスタッフに取り立てる。製織作業のアシスタントも務められるよう、真木千秋みずからいろいろ指導している。高校を出たての19歳。すぐ近所に両親と住んでいる。さてMakiの期待に応えることができるか?
 ついでに、写真中の作業台も先日新調したものだ。もともとは結婚式用のヒナ壇。ヒマラヤ杉製。この上に新郎新婦が据えられ来賓と記念撮影するくらいだから、頑丈この上ない。安価だし、不要時には折りたたんで収納できるので便利。左側でラケッシュがサンドペーパーをかけている。

 下写真は事務室に座るソヌ君。
 工房が成長すると事務量も増えるものだ。
 ソヌ君は24歳。学校で会計学を学び、首都デリーでコンピュータ関係の仕事についていた。染師ディネッシュの縁者だった関係もあり、一昨年秋デリーから呼び寄せ、経理担当のスタッフに迎える。ソフトな性格でチト頼りなげなんだけど、今のところ大過なくやっているようだ。こうした裏方がしっかりしていないと、工房も立ち行かないのである。
 背後にある糸サンプルは、糸の在庫一覧。これは先週作ったもので、ソヌ君が管理している。これがあれば布作りもよりスムーズに進むであろう。








 

1月29日(木) 建築顧問再訪

 Makiの建築顧問・丹羽貴容子さんが、ganga工房にやってくる。
 二年前に続き、二度目の来訪だ。

 丹羽さんとのお付き合いは、もう20年になる。
 Maki青山店(1996年)、養沢アトリエ(同)、竹林母屋(1999年)、竹林shop(2006年)と、Makiの建築工事すべてに関わってもらっている。
 そして今回の新工房計画についても、ビジョイと出会うキッカケとなったのが丹羽さんだったのであった。
 それでなにかと気に掛けてくれる。今回も旦那さんと一緒の来訪だ。この旦那さんは野口整体の先生で、真木千秋もよくお世話になっている。インドでいろいろ無理も重ねているので、旦那さんの来訪はちょうど良いタイミングなのである。

 丹羽夫妻が前回来訪した時は、ビジョイが設計を開始した直後で、土地はまだ手つかずだった。
 二年ぶりに現場にやってきて、びっくりだったという。「巨匠にしては進みが早いわね」とのご感想。う〜ん、ビジョイは二年前、「建てるのはすごく簡単。一年でできるよ」と言っていたのだが…。「たぶん、やっているうちにいろいろ浮かんできたのかもね」と丹羽さん 。このあたりは建築家じゃないとわからないところだ。

 現場をひと通り案内しながら、いろいろ説明する真木千秋。丹羽さんからもいろいろフィードバックがある。
 写真上は、補助棟。
 手前がスタッフのキッチンで、皆の立っているところが付属の物置となる。
 
 写真中は夕陽に照り映える居住棟。
 左から、ラケッシュ、真木千秋、丹羽貴容子さん、旦那さん。
 五日前(1/24)の写真に比べると、だいぶ壁が高くなった。

 写真下も、五日前にご紹介した石工。
 なんと、こんなデカい石を、手作業で平らに割ろうというのだ。
 二人がかりでやっている。
 いつ割れるのかと聞くと、明日の昼ごろだという。
 ホントに割れるのか、明日ちょっと見に行きたいものだ。






 

1月30日(金) ペドロ君の場合

 毎朝、ラケッシュの母親が、食後にミルクチャイを作ってくれる。
 今日のチャイはいつもよりミルキーでウマい。きっと牛乳を多目に入れたのだろうと思い、ヒンディー語で「このチャイ、いいね!」と言うと、傍に居たラケッシュがしてやったりという顔で、「これは水牛のミルクで作りました」と言う。水牛のミルクは普通の牛乳より濃厚なのだ。聞けば、近所の農家から入手したのだという。これからは毎朝水牛ミルクチャイで行きたいものだ。

 昼前にペドロ君が工房にやってくる。
 スタジオムンバイのインターン生で、今、こちらの現場に張り付いている。
 ポルトガル生まれで、スイスの大学で建築を勉強中にビジョイの教えを受け、弟子入りを希望する。何度も断られたのだが、禅寺の掛塔のごとく、しぶとく押し掛けインターンになる。爾来、現場ではビジョイの命令下、走ったりジャンプしたり若々しく活動している。

 今日は工房の一角に時ならぬ人だかりが。(上写真)
 ペドロ君がパソコンで映像ショーをやっているのだ。
 正しく言うと、新工房の3Dフルタイムレンダリング。
 工房の設計図を、3Dで、あちこち動き回りながら見ることができるのだ。
 石やレンガなどの素材も入れ込むことができる。
 下写真のパソコン画面は主工房の内部。左側、柱列の向こうに中庭が見える。
 この3Dレンダリングはペドロ君が自前で勝手にやっているらしいが、完成時の様子がよりリアルに感得できて便利。
 現場の主工房は、今、壁ができたところ。床と屋根をどうするか、今ビジョイがいろいろ考えている。予算が予算だからいろいろタイヘンだろうが、それがまた建築家のチャレンジである。建築顧問の丹羽さん曰く、予算が低いほど良いモノができたりするそうだ。
 ペドロ君もいつまでスタジオムンバイに置いてもらえるか定かでないが、我々もこうしていろんな国の若者と協働できるのが楽しいところだ。








 

1月31日(土) ゴールデン・チークの謎

 久しぶりに街に出る。
 近在のドイワラという街だ。
 目的は、材木探し。
 新工房屋根の支持材だ。
 gangaスタッフとスタジオムンバイスタッフ、それに木工職人の総勢8名で、馴染みの材木屋にでかける。

 木材について、ひとつ謎があった。ゴールデン・チークという材だ。
 ただのチークだったらみんな知っている。インドや東南アジア産の銘木だ。新工房の敷地にも数本生えている。
 ゴールデン・チークというのは、それより軽量で黄みがかった材で、価格も安い。それで屋根を支える材として検討されている。ただゴールデン・チークというのは当地の俗称で、そもそもどういう樹木なのか誰も知らない。
 それで材木屋に出かけたわけだ。主人はグルヴィンダ氏。上写真の赤いターバンの人物だ。ちなみに、インド人は皆ターバンを巻いていると思っている人もいるようだが、本ホームページの諸写真にも見るごとく、ごく一部分だ。主にはヒンドゥー教から派生したシーク教の信徒が巻いている。

 グルヴィンダ氏の店にもゴールデン・チークはあった。何という樹木なのかと聞くと、mirintiという木だという。それで皆でmirinriを調べてみたのだが、やはりわからない。氏によるとマレーシア産の外材だそうだ。ただ氏は外材はなんでも「マレーシア産だ」と言うから、ホントにそうかはわからない。このあたりのローカル商人はけっこう原産地に無頓着だったりするのだ。
 もうひとつ注目すべき材があった。ヒマラヤ杉だ。これは当地ウッタラカンド州の高地に産する。これがそうだ。値段はゴールデン・チークの倍近いが、軽くて丈夫で防虫性があり、屋根材としては好適だ。なによりヒマラヤウールと産地が同じというのが心強い。スタジオムンバイチームは、グルヴィンダ氏からゴールデン・チークとヒマラヤ杉を少々分けてもらい、同行した木工職人のチャンドラモハン氏に渡して、サンプル製作を依頼するのであった。
 中写真はグルヴィンダ氏とその愛娘。可愛かったので特別掲載。

 氏の家でもうひとつ興味深いものを発見。「じんとぎ」だ。これは「人造大理石研ぎ出し」の略だそうだ。昔、日本ではよく流しなどに使われた。氏の家では外の床に使われている。大理石の小片をコンクリートで固め、研ぎ出したものだ。
 新工房の床も今どうするか検討中だ。コンクリートの代わりに漆喰を使ってじんとぎにするのも良いかもしれない。
 床については、当初は漆喰を考えていたが、漆喰のみだと乾くのに時間がかかり工事に支障が出る。大理石片と組み合わせれば乾燥時間の短縮も図れるのではないか — 。
 ちなみに、今までの床候補は ;
 漆喰、木、砂岩、大理石、牛糞土間…
 さてどこに落ち着くか!?








 

2月1日(日) 絹の村の木工所

 ganga工房から数kmのところに、マンジュリという村がある。別名、レシャム・マンジュリ。レシャムとはヒンディー語で絹だ。
 ここデラドン地区は昔からインドでも屈指の養蚕地帯であった。そしてこのマンジュリ村はわけても養蚕の盛んな場所で、「レシャム」の称号を賜っている。

 この絹の村に木工所がひとつある。
 ganga工房とも縁が深く、織機や、タテ糸整経機、椅子や各種道具類、最近は蚕棚(エリ蚕用)まで作ってもらっている。
 上写真がその木工所。数年前までは養蚕もやっていて、家の前に大きな桑の木がある。手前に写っているのがその桑の木。日本の桑は矮小だが、本来はこんなに大きくなるのだ。
 作業場は家の前に設けられている。床は牛糞土間だ。石の床より暖かいという。
 主(あるじ)は木工職人のチャンドラモハン。
 昨日も街の材木屋まで同道してもらっている(昨日の記事参照)。
 選んだ二種の材で、彼に木枠のサンプル作製を依頼している。

 スタジオムンバイのスタッフ&丹羽夫婦とともに、今日はその打合せだ。
 中写真は、電動カンナで材を削るチャンドラモハン。
 材はヒマラヤ杉だ。防虫効果のある木で、独特の微香がある。
 ganga工房のウール織師であるマンガル夫妻の家も、この杉を屋根の支持材として使っている。たいへん丈夫で「百年だってもつよ」とのこと。
 ただ、ところどころに節があり、その部分が弱点となる。

 下写真、モハンの指さすのがヒマラヤ杉。木肌がなめらかだ。
 その下が謎のゴールデン・チーク。やや硬質で、導管が目立つ。
 モハンによると、強度は同じくらいだという。ヒマラヤ杉の方が軽量で、価格は倍近い。できるだけ地元材を使いたいところだが、節の問題もあり、微妙なところだ。
 まずはサンプルを作って検討が必要であろう。
 木の継ぎ方など、丹羽貴容子さんの指導を受ける。

 ところでチャンドラモハン家の前にある桑の大木。
 邪魔だから切ってしまうという。
 桑と言えば日本では高級材だ。
 桑材は使わないのかと聞くと、使わないという。
 立派な木だし、養蚕の象徴だから切るのももったいない。思わず「この倍の太さになったらマルティが一台買えるよ」と口走ってしまったが、さて桑の運命やいかに。マルティというのはインドのトップシェアであるSuzukiの車。ホントに買えるかは定かでないが。








 

2月2日(月) 五周年!!

 昨夜はganga工房創設五周年のパーティであった。
 ホントの五周年は2月4日なのであるが、その日だとスタッフに欠員が出るので、昨日・日曜夜に挙行する。
 もう五年経ったのかという感慨とともに、そもそも何をもって創設と言うのか疑問だったりもする。
 ラケッシュによると、最初の織機に糸を掛けて織り始めたのが2010年2月5日だったのだそうだ。
 だから毎年2月始めの或る夜、×周年パーティがあるというわけ。
 インドのパーティは夜にならないと盛り上がらないし、「午後6時開始」とアナウンスしても人々が集まるのは午後8時過ぎだから、毎年、寒い最中の夜間野外パーティとなる。何でわざわざこんな時期に工房創設したのか悔いが残るのであるが、せめて新工房の開設は3月とか10月とか、北インド最高の時期にしたいものだ。

 まずはインド料理のご馳走。昨年まではラケッシュが自らシェフを務めて饗応したのだが、今回は外から呼んで料理を作ってもらう。もともとこのウッタラカンド州はシェフの産地なので、人材は豊富だ。(日本のインド料理店の厨房を覗くと必ずひとりくらいは同州出身者がいる)。
 上写真はその準備風景。タンドール (炭火竈)から勢いよく炎が上がっている。タンドールを準備するには、まずその中で薪を燃やす。そして炭火を作るのだ。北インドではこれがないと始まらない。
 今回は工房関係者やその家族など七十人を超える人々が集まる。

 楽しい食事が終わると、メインのダンスタイム。
 毎年、ヒマラヤ山中の村から太鼓師二人を招いて、みんなで踊る。
 音楽はこの二人の太鼓と歌だけ。かなり原始的で単調なリズムなのだが、かえってそれが良いのか、人々は時が経つのも忘れて踊り興じる。(中写真・ひょっとこが参加しているのにも注目)。インド人ばかりでなく、日本人スタッフも皆12時過ぎるまでフィーバー(古い!?)。「仕事よりキツイ」とかのまたう御仁も。しかしこれは決して強制参加ではない。現在、当スタジオではスタッフを募集中だが、ご覧の通り、生半可では勤まらないのである。

 明けて本2月2日の月曜日。
 いかに前夜遅くまでパーティだったからといって、休みにはならないのである。(始業を一時間だけ遅くはしたが…)
 昨夜とは打って変わった真面目な表情で仕事に打ち込む面々。(下写真)
 ウールの達人・マンガル&バギラティ夫婦を中心に、メンズ・ジャケットに使う生地の検討だ。今年1月7日の記事で私ぱるばが着ているモノである。








 

2月3日(火) イスラムとババジ

 最近、「イスラム」の文字が世上を騒がせている。
 当スタジオにとって、イスラムは身近な存在だ。
 というか、イスラム教徒なしには成り立たない。
 インドでは手仕事を生業にする人には、イスラム教徒が多い。ganga工房でも、カリスマ織師シャザッドや名手タヒールがイスラム教徒だ。
 そしてもうひとり、織師グラム。(写真上&中)

 この人も真木千秋とのつきあいが長い。
 もともと、インド中部のジャールカンド州出身。
 故郷は戸数二千ほどの村だったが、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒とアディバシが混住していた。アディバシというのはインドの先住民で農耕に携わり、ヒンドゥー教徒は商業、イスラム教徒が製織を業としていた。
 グラムの両親も織り手だったが、父親は村で唯一のアユールヴェーダ医でもあった。6人きょうだいで、長兄がアユールヴェーダ医を継いでいる。
 現在の体型からはチト想像つかないが、若いころ痩身であったグラムは、織らせてもらえなかったそうだ。織りは体力が必要だからだ。村には仕事がなかったので、16歳で上京(デリー)。やはり蛙の子は何とやらで織工として働く。
 Makiのデリー工房に現れたのは今から15年ほど前。当時、真木千秋は麻織りに目覚め、そのせいで織師が次々に辞めていた。麻糸は伸縮性がなく切れ易いのだ。かくして放置されていた織機に、新入りの織工グラムが配される。そのグラムの織った布が真木千秋の目に叶い、爾来、Makiの織師として機に向かい続けてきたというわけ。
 大きな身体を活かし、ganga工房では広幅の機で主に服地を織っている。
 奥さんひとりに、子供ひとり。インドのイスラム教徒はアラビアなどと違って複数の妻を持つことはないようだ。
 ちなみにこの工房には、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒のほか、仏教徒、キリスト教徒、そして日本人と、いろいろ居る。みんな寛容というか良い加減なので、イスラム織師たちも居心地良いようだ。「メッカに向かってお祈りするの見たことないぞ」と私が言うと、「金曜日にお祈りしているよ」とグラム。

 さて、現在、工房のマスコットはナヴィア。ラケッシュの姪っ子だ。もうじき二歳。みんなに可愛がられている。(下写真)
 ところが、私ぱるばが可愛がろうと近づいていくと、逃げて行ってしまう。
 逃げながら「ババジ、ババジ」と言っている。
 ババジというのは、ヒンドゥー教の僧侶や行者だ。中には超能力を駆使する奇っ怪なのもいる。
 数日前に近所の床屋で頭を剃ったのがイケナかったか!?
 ま、そのうちババジにも慣れてくれるだろう。





 

2月18日(火) 松屋のHONMONO

 松屋百貨店のHPにMakiの記事が掲載される
 昨年12月、ここ竹林スタジオで取材を受けたものだ。
 編集者やフォトグラファーなど総勢5人の大取材陣であったが、それに見合うだけの力作となっている。
 一読して、う〜ん、なるほど、と思う。
 我々にとっては日常であるが外側のみなさんの目にはそんな風に映るのか…
 弊スタジオのシルクストールが、「天女の衣」と形容されている。これは初めての讃辞であろう。ホントにそうか実地に確かめてみたい人は、是非、銀座松屋へ!! 
 3月4日〜3月17日Maki Textile Studio展示会






 

2月25日(水) ハナの仔犬

 昨日、真木千秋、一時帰国。
 「一時」というのも、今回は一週間してまたインドへ戻るからだ。
 新工房建設が正念場を迎え、放っておけないのだ。
 その真木千秋のお土産写真。

 今月初旬、私がインドを去って数日後の2月9日。工房の愛犬、ハナが仔を産む。
 すべて黒系。母親みたいにベージュのはひとつもいない。父親が黒系だからな。チベット犬は黒が優性なのかもしれない。
 全身黒いから、父親はオールブラックの熊五郎であろう。
 ♂三匹。♀四匹。
 写真上が生まれた当日の様子。1月27日に作った産屋の中で出産する。
 母は仔犬の排泄物を全部なめてしまうから、下のラグも汚れることはない。その衛生観念に感服。

 下写真は一昨日。出発前の真木千秋に抱かれるポチ。二週間たってだいぶ犬らしくなってきた。
 この一匹だけは、他の六匹とやや毛色が違い、ちょっとブラックタン系。松五郎がブラックタンだから、もしかしたらその仔かも。性格も松五郎似だ。(犬はどうやら一夫一婦制ではないらしい)

 ラケッシュ家では♂を二匹手許に残す算段をしている。そのうちの一匹はこのポチに確定。ラケッシュ父のお気に入りらしい。ポチという名前はさっき我々が考えた。ラケッシュ家もOKのようで、さっそく発音練習を始めている。
 あと一匹はどれにするかまだ決めていないが、これも名前だけは決めた。ハチ。さて期待通りの忠犬なるか。







 

3月5日(木) オカベマサノリの古代ビーズ・アクセサリー

 オカベマサノリ氏、来竹。(上写真・右端人物)
 ゴールデンウィーク展の打ち合わせだ。
 今年5月1日〜6日、ここ竹林で開催されるスタジオ展の特別ゲストが、このオカベマサノリ氏なのである。
 古代ビーズを使ったアクセサリー作家として広く知られるオカベ氏。沼田みよりさん(上写真・中央)の夫君でもある。

 ビーズというのは、穴の空いた石や玻璃(ガラス)だ。
 石は、メノウ、ガーネット、トルコ石、水晶、珊瑚など。
 時代は、メソポタミア、インダス文明、古代ローマ、ササン朝ペルシアなど。
 ビーズ(beads)とは古英語のBiddan(祈る)を語源とするそうで、 もともとは精神的な色合いを帯びているようである。

 オカベ氏は、そうした古代ビーズを使って、ネックレスやブレスレット、指輪、イヤリングなどを作っている。
 氏はそもそも紐編みが好きで、アクセサリーの紐も自作である。
 日本で古代ビーズのアクセサリーを手懸ける作家は十指に足りないほどだが、オカベ氏の特徴は、「一玉」だ。下写真に見るごとく、ひとつのビーズを主玉としてアクセサリーを作っている。
 極限までシンプルにすることによって、たとえば、着衣の素材感に寄り添う存在となる。だからMaki布とも相性が良い。
 真木千秋も十年来のオカベアクセサリー愛好家だ。前回の記事で仔犬を抱く真木千秋の腕を飾っているのも、オカベ作だ。主玉(縞メノウ)は隠れて見えないが、留め玉の水晶が仔犬の脇に見える。この水晶も古代ビーズだ。

 ビーズのほか、下写真中央にある古代ペルシアの玻璃香油壺などもある。これなど正倉院の世界だ。




 

3月12日(木) Maki布つきメンズ革バッグ

 昨年末に 登場したテーラーの高橋良至氏
 Maki布を使った革製ビジネスバッグ製作を依頼したのであった。
 爾来二ヶ月半。
 ついにバッグが出来上がり、自身で納品におでまし。(写真左)
 ご覧の通り、表にはタッサー絹ナーシ布が張られている。
 型紙から裁断、縫製まで全部高橋氏の手になるものである。

 諸兄にはおわかりのことと思うが、男のビジネスバッグというモノは、仕事に必要な七つ道具を収める合切袋であるから、ポケットがたくさん必要なのである。
 そこで高橋氏には、できるだけたくさんのポケットを設けてくれるように依頼する。
 高橋氏、それに応えて、しこたま用意してくれる。一見シンプルなバッグだが、ポケットの総数は … 最初に数えたら17個、次に数えたら22個、もう一度数えたら21個 … 。というわけで、少なくとも22個はあるようだ。
 これだけあれば収納には困るまい。どこに入れたか忘れそうである。
 容積も大き目だから、2〜3日の出張にはコレひとつでイケそうだ。
 こういうのが欲しい人、あるいは旦那や彼氏にプレゼントしたい人は、梵天(048-522-7940)までご連絡のこと。





 

3月19日(木) 玉蚕

 今、北京滞在中。
 北京市内にあるMaki取り扱いshopである「失物招領」に用事があったので、インドへの道すがら、ちょっと立ち寄ったのだ。
 用が早く終わったので、中国国家博物館に赴く。
 
 日本で言えば東京国立博物館に相当する施設であろう。
 天安門の前にある真新しくて巨大な博物館だ。
 その「古代中国」の部門には、国中から集めた国宝重文級の遺物が収められている。

 その中に、「玉蚕」と表示されたものがあった。
 玉繭や玉糸ならお馴染みだ。玉繭から繰られる玉糸には私たちもだいぶ世話になっている。
 しかし、玉蚕というのは初耳だ。

 玉(ぎょく)の蚕であった。
 玉すなわち翡翠といえば、祭器や装飾品の素材として、中国では甚だ珍重されたものだ。
 上写真が殷代後期、下写真が周代早期の玉蚕。だいたい三千年ほど前のものだ。
 中国で養蚕が開始されたのは、伝説によると黄帝の妃である西陵氏の手になるとされる。殷より前の夏王朝だ。
 歴史の始まる頃、中国では既に養蚕が行われており、蚕は玉で作られるほど大事にされていたということがわかる。
 長さ数センチほどの、実物大の玉器だ。日本のおしらさまのように、祀られていたのかも。





 

3月21日(土) 春たけなわのganga工房より

 本日、私ぱるば、インド北部のganga工房到着。
 北京から上海・デリーを経由して、丸一日の旅であった。

 北インドも、3月後半ともなると、気温がぐっと上昇する。
 当地にずっと留まって仕事をしている真木千秋によると、3日ほど前から急に暖かくなったとのこと。
 今日は初めて靴下なしで一日過ごす。(左写真)
 なんとなく初夏のよう。
 晩秋の頃と並んで、一年で一番快適な季節かもしれない。

 手にしているのは「綾太ストライプ」というシルクストール。織師サジャッドの手になる白と黒のシンプルな一枚で、お客さんのリクエストに応えてのリバイバルだ。
 Makiも今までどのくらい様々なストールを作ったかわからない。継続して作られているモノの方が少ない。
 ご希望が多ければ、こうして復活ということもあるのだ。(ただし必ずしもまったく同じというわけではない)

 手前に横たわるのは愛犬のハナ。仔犬のポチ&ハチが乳を飲んでいる。
 ほかの五匹はみなもらわれて行った。
 七匹いた頃はハナも見るからに痩せ衰え、しまいには乳をやるのも嫌がっていたが、二匹になってからやや回復したようだ。
 ところで、工房長サンジュの家にもらわれていった黒い♂は、その名もシロ。これは5歳になる娘ディシュの強い要望によるものだ。インドでも流行っている「クレヨンしんちゃん」に出てくる犬の名がシロなんだそうだ。





 

3月22日(日) 内蒙古のパシミナ

 私ぱるばが北京経由でインドに来たのも、ひとつにはパシミナ素材の調達を図るためであった。
 パシミナ(カシミヤ)はチベット山羊の内毛だから、そもそもはチベット原産なのであろう。チベットに西に位置するインド北端のラダック地方も、またパシミナの産地だ。それで四年前の5月にラダックを訪れ、パシミナ原毛を調達する。かくしてMakiでもパシミナを使った布が織られるようになったのである。そのあたりはこちらをご覧いただきたい。昔ながらの遊牧から生まれるパシミナは、繊度も細く上質で、そこから紡いだ糸をふんだんに使ったショールは暖かく柔らかく、おかげさまで皆さんのご好評を頂いたものだ。
 しかしながら遊牧から生まれるパシミナ原毛は供給も少なく不安定で、最近はなかなか手に入らない。我々の供給元であるラダックの原毛業者ナワン君も、今では中国・内蒙古から原毛を輸入するような状態である。
 現在、内蒙古は世界最大のパシミナ(カシミヤ)原毛産地だ。
 最近我々も中国と御縁ができたので、だったら自分たちで探してみようと思い立つ。北京の友人ギャラリーである「失物招領」のSさんに調査を頼んだところ、河北省のとある原毛業者と話をつけてくれた。我々みたいな少量の注文でもOKで、価格もリーズナブル。しかしいちばん大事なのは品質なので、まずは
 い各色100gずつサンプルを取り寄せる。それを北京で受け取って、ついでに中華料理も楽しんで、インドに飛んだというわけである。
 各色というのは、白・ベージュ・グレーの三色。原毛を見た限り、不純物や匂いもほとんどなく、かなり上質な感触。ただ、白い原毛は一部カーディング不足で「だまだま」状態だったりする。
 さっそく工房の紡糸主任バギラティに紡いでもらったところ、カーディングのしっかりした原毛では、むしろラダックのパシミナより細く紡げるような印象であった。(写真上下)
 これは使えるかも…♪

 ともあれ、天然素材でもあるし、供給先は複数あったほうが良い。
 今冬もまたみなさんにパシミナショールをお届けできそうである。






 

3月23日(月) ジャカード機と三位一体

 日本も気温の変動が大きいようだが、こっちも今日は、暑い!
 今、室温、29℃。
 「どうりで疲れるわけだ」と暑さに弱い真木千秋は独りごちている。
 仔犬のポチとハチも、日陰の土の上で、芋虫みたいに伸びていた。
 しかしまだ春先で、これからホントの夏が始まるのである。

 インド人にとっては、ちょっと暖かくなってきたな、というところだろう。
 機場の中では、いつもの通り、カッタンコットンと機音が響いている。
 しかし、その中に、ちょっと聞き慣れない、カチャっという音も混じる。
 ジャカード機だ。

 今までganga工房の機場には、七台の高機(たかばた)と、一台の地機(じばた)があった。
 そこに先月、ジャカード機が一台加わったのである。機に就いているのは織師アスラム。(上写真)
 ジャカード機にはMakiもデリー工房でだいぶお世話になってきた。もはや引退した名手ナイームや元美男織師ワジッドもジャカードのスペシャリストであった。

 紋紙を使って糸を引っぱり、複雑な紋様を織り出すのがジャカード機。
 いずれ新工房もできるし、一台くらいはジャカードも欲しいということで、昨年末、ラケッシュなど三名が遠路はるばる八百kmも離れた隣州のゴラクプールまで出かけ、見つけてきたのだ。

 比較的簡単な構造のジャカード機であるが、これを動かすには通常三人必要だ。
 機の技術者と、紋紙工、そして織工。
 ところがこの織工アスラムは、ひとりで全部できてしまうという三位一体の貴重な存在なのである。

 今、機にかかっているのは、モックレノの織物。立体的な構造で、水をよく吸い取る。
 夏に向け、麻に黄繭糸も交え、マフラーにも手拭いにもなるような布を織っている。
 色は下写真のブルーグレーのほか幾つか。

 モックレノの後は、小布綴りとか、地模様のある服地とか、いろいろ考えている。






 

3月24日(火) 驚異の断熱材

 建築家ビジョイ・ジェインがやって来る。
 一ヶ月ぶりだ。
 毎回、いろんな人々を連れてくる。
 今回は、若手建築家二人、木工の専門家ジェイ、近在のクライアント、そして「謎の人物」ビリーの五名。明日は更に二人加わる。

 今回のテーマのひとつは、屋根だ。
 早いところ屋根を架けねばならない。
 六月中旬から雨季になるから、それまでに屋根を架ければ、少なくとも室内の工事は続けられる。猶予はあと三ヶ月弱。

 屋根は木の梁で支える。カナダ産のトネリコ材だ。
 上写真が入口に近い守衛棟で、最初に屋根が架かる。
 梁を載っけたところだ。
 右端の白シャツが謎の人物ビリー。なぜ謎なのかというと、ビジョイのプロジェクトによく参加するらしいが、ボランティアなのだ。今回も西インドのゴアから駆けつけ、二週間ほど現場に泊まり込んで作業を監督する。いったい何の得があって参加しているのかイマイチ定かでないのだが、日本酒好きの気の良いい親爺で、広汎な人脈を持っているのが有難い。当地の有力者とか。インドでは何より人脈が物を言うのである。(彼のために今回何本もの日本酒を持ち込む)

 夕方、多量の素焼き壺が届く。(下写真)
 驚くなかれ、これは屋根の断熱材なのだ。
 上写真の梁の上に、石材を渡して天井にする。その上にこの壺を、口を下にして、びっしり敷きつめる。すき間を砂で埋め、その上を漆喰で固めるのだ。
 壺の中の空気が断熱材となるわけ。
 ここヒマラヤ山麓は標高六百メートル。昼夜の温度差が大きい。陽差しが半端ではないので、屋根の断熱は重要である。
 この手法はかつてインドで行われていたものだ。最近また施工例があるようで、ビジョイも今回初めて当プロジェクトに採用する。
 壺屋根。なかなか面白いアイデアではないか。





 

3月25日(水) 花没薬樹

 新工房の敷地には、染料植物もいろいろ育てる予定である。
 既にインド藍の畑では、南インドと沖縄の藍草が成長している。
 建築家ビジョイの友人である園芸デザイナー・カビータが今日から合流。いろいろ知恵を貸してくれる。

 彼女の送ってきた染料植物リストに、Butea monospermaというのがあった。
 植物は国によって呼び名が違い、特にインドでは地方ごとに呼び名が変わるので、リストは学名で書いてある。
 どうやらこれは「テス」であるらしい。
 テスと言えば、私たちが以前から重宝してきた染材だ。
 乾燥した花びらを市場で購入し、染色に使う。主に鉄媒染でカーキ色を染める。

 カビータは2千kmも離れたゴアの人だから、テスの名前は知らなかった。
 だが、工房スタッフである地元農民にテスはあるかと聞くと、あっさり「あそこにあるよ」と、連れて行ってくれた。敷地内に既に存在していたのだ。
 一目見たら忘れないような、特徴的な大きな葉を繁らす樹木であった。
 特徴的なのは葉ばかりでなく、紅色をしたその花もだ。春の今がちょうどその花のシーズンだ。
 
 敷地内には二本だけ、並んで生えている。(下写真)
 辛うじて境界線の内側だ。下写真をクリック拡大するとわかるが、フェンスがあって、その内側が新工房の敷地。外側が公有地の森林だ。
 黄色い旗のずっと向こうにやや大きな木が見えるが、これもテスだ。つまり山野に自生している。敷地内のテスも別に植樹されたものではあるまい。
 充分な染材を得るためには、この周囲にテスを植樹する必要があるだろう。

 日本語では花没薬樹と言うらしい。花没薬とはラックのことで、この樹がラック貝殻虫の宿主になることから、その名がある。ラックも貴重な赤系染料だ。ウチのテスにもラック貝殻虫がついてくれると有難いが、このあたりでそういう話はあまり聞かない。





 

3月26日(木) 現場のオアシス & LED照明

 建築家ビジョイ・ジェインが来ているので、私たちもほぼ一日中現場で過ごす。
 ただ、建築家でも建築労働者でもないので、一日中現場で仕事があるわけではない。
 インド人でもないから、インド三月の陽光はチトきつい。
 そこで多くの時間、木陰で過ごすことになる。
 乾季で湿気が少ないので、木陰はわりあい快適だ。

 左写真は敷地の南端。段々畑になっている。
 テントがひとつ張ってあって、そこで今真木千秋が昼寝をしている。椅子に座っているのが私ぱるばで、パソコンをしている。ちょっとした高台なので、風が通って気持ち良い。私の背後には竹で囲われた浴室がある。(浴室と言っても、バケツの水を浴びるだけだが)。ここは明日から「謎の人」ビリーの宿になる。
 上を蔽うのは、野生のイチジクだ。小さな実が成っている。ビリーによると、食べられるのだそうだ。(詳しく言うとカシワバゴムノキ。日本では観葉植物として育てられている)
 テント左側の畑では、タマネギが育っている。

 夕刻、機場に現れたビリー。
 機のひとつに細い棒状のLED照明を取り付けてくれる。
 下写真左端人物がそのビリー。おそらくインテリなんだけれども、いつもインドの農民シャツをまとっている。
 このLEDは彼の持参したものだが、なかなか良い感じだ。背後の機についている蛍光管に比べ、光が自然で、色がよく見える。ビリーによると、太陽光に95%近接しているという。
 22Wだから、50W蛍光管より節電になるし、発熱もずっと少ない。これは暑いインドには大事なことだ。
 ますます謎の深まる人物である。





 

3月27日(金) 毒を食らわば…

 建築家ビジョイ・ジェイン滞在の最終日。
 次の来訪は一ヶ月先だから、いろいろ決めねばならない。
 着工以来、苦節一年半。やっと土台と壁がだいたい完成した。
 次の重大事項は、屋根である。
 屋根については、ここ一年以上、ああでもない、こうでもないと検討を重ねてきた。
 大理石にしようか、砂岩にしようか、それとも××にしようか…。この××については、ビジョイはかなり自信を持っているようだが、真木千秋にはなかなか承服しかねるものがあった。
 しかしながら、もはや、悠長に検討している暇はない。
 そしてビジョイの最終的な提案は、工房とギャラリーの屋根に関しては、その××であった。その××とは…セメントの波板だ。
 工房はまだしも、ギャラリーも波板!? これには真木千秋もかなり抵抗あったようだ。波板はインドでは低価格住宅に使われるもので、ちょっとイメージが悪かったりするのだ。
 これは予算の都合もあるだろうが、それ以上に、きっと良いものになるというビジョイの自信に揺るぎないものがあるのだ。それで真木千秋もついに折れる。もうここまで来たらビジョイを信頼し倒すほかあるまい。毒を食らわば皿まで!?
 上写真は工房入り口。左からビジョイ、カビータ(園芸)、真木千秋。

 そしてビジョイは夕刻の便で当地を離れる。多忙の身ゆえ、次に現場に戻ってくるのは4月末だ。
 その間、現場を監督してくれるのが、ビジョイの友人、「謎の人」ビリーだ。
 誰かがビリーに「子供は何歳?」と聞いた。すると答えていはく、「五歳と七歳…。そして二十七歳」だと。そこまで聞いていないのに。
 下写真、私の右側がビリー。この階級のインド人で農民シャツを着用する人はまずいない。(ビジョイが農民シャツなんて絶対に考えられない)。変わったインド人なのだ。私の着ているのも、ビリーからもらった農民シャツだ。元はビリーのと同じ白い木綿カディなのだが、工房の染師ディネッシュにサッと藍染してもらった。このへんが染織工房の便利なところだ。(ただ、この姿で昼寝をしていたら、現地労働者と間違えられた)





 

3月28日(土) 染料植物のいろいろ

 朝から園芸デザイナーのカビータとともに、リシケシとデラドンの苗屋に出かける。
 
 染料植物では、石榴、夜香木、クチナシ、メヘンディ、花没薬樹の五種類を買う。
 左上写真がクチナシ。花は香り高いが、染色は実を使い、黄色を染める。
 左下写真がメヘンディ。よく庭木や垣根に使われる灌木で、細かい葉をつける。日本ではヘナとして知られる。最近日本でも流行り始めたヘナタトゥーは、インドではメヘンディと呼ばれ、そもそもは花嫁の化粧だ。染色も葉が使われ、Makiでは主に鉄媒染でグレーを染める。
 石榴、夜香木、花没薬樹は、黄色系の染料。
 ほかにも植えたい植物染料はいろいろあるのだが、近郊の苗屋は種類が限られていて、なかなか揃わない。明日は隣州の苗屋まで遠征に出かけることになっている。

 新工房に植えるのは染料植物だけではない。今日はほかに、果樹や、薬草ハーブ類、そして野菜苗なども購入する。炎天下の野外ショッピングに真木千秋もついにダウン。

 ところで、リシケシ苗屋の敷地で花没薬樹を発見。
 今を盛りと咲いている。木の下には落花がたくさん。落ちた花だから無料だ。苗選びも忘れて落花拾いに興じるMakiの一行。(右写真)。これが貴重な染料となるのである。





 

3月29日(日) 蔟草

 今日も朝から園芸デザイナーのカビータとともに、苗々の調達。
 車で二時間半ほど離れた、隣州ウッタルプラデシュのサハランプールという街の苗屋にでかける。その道中に通過するシワリク山地は印象的だ。涸川に原住民の藁屋の点在する山地の風景は、まるで山水画のよう。

 サハランプール周辺の苗屋は、この近辺でも一番品揃えが豊富らしい。
 我々の訪ねた店は、大きなマンゴー園がそのまま苗屋になっている。

 今日もいろいろな苗を入手したのだが、ひとつ面白いものがあった。ビワだ。(左上写真)。
 日本ではごくありふれた植物だが、インドでは今まで見かけたことがない。
 ビワの樹は、五日市のスタジオやアトリエに生えていて、我々もいろいろお世話になっている。治療用、染色用、そして食用だ。染色について言うと、赤系の貴重な染料だ。予期せぬ発見で、何本か入手。

 それから蔟(まぶし)草。(左下写真)。名前がわからないから便宜的にそう呼んでおく。
 蔟というのは、蚕の繭づくり用の家だ。日本ではかつて藁、今は主にボール紙が使われる。インド・ganga工房の近所ではプラスチック製だった。しかし沖縄・八重山では、昔このシダ植物の葉が蔟として用いられたという。ganga工房でも現在エリ蚕を飼育しているが、蔟づくりに苦労していた。この蔟草を使えばきっと楽であろうということで、これも何本か入手。

 苗を注文すると、娘たちが運んでくれる。(既婚婦人もいるが)
 写真右がそんな娘たちで、金属製の皿の上に苗を盛り、それを頭に載っけて運ぶのだ。緑一色の敷地の中で、そのカラフルな装束が軽やかに見え隠れしていた。




 

3月30日(月) アユールヴェーダの花粉症薬!?

 新工房プロジェクトの現場監督ビリーは、シーク教グル(大師)の家系なんだそうだ。
 シーク教徒というのは、ターバンを巻き、短刀を携行する誇り高き人々である。
 ところがビリーは大師の末裔であるにもかかわらず、ターバンも巻かなければ短刀も携行しない、変なシーク教徒だ。(3月27日の写真参照)
 この人は私ぱるばと共通する点が幾つかある。そのひとつがキク科の花粉症。
 ただし、彼は既にそれを克服したそうだ。どうやって克服したかというと、チャワンプラシュだという。
 これはアユールヴェーダ(印方)の食品だ。いろんな薬用植物が配合されているらしい。別に花粉症の薬ではないが、インドでは心身の健康増進のため一般的に良く用いられる。
 毎朝夕食後、スプーン一杯摂取する。ビリーは二ヶ月の摂取で花粉症が治ったそうだ。
 私も花粉症には悩まされている。インドでは年がら年中キク科の野草が咲いているので、けっこう辛い。今年は鼻孔のレーザー手術までしてインドに渡ったのである。
 それでモノは試しと、一昨日から始めてみた。写真左側のチャワンプラシュだ。これは近所のアユールヴェーダ専門店で購入。粗糖が入っているのでやや甘い。特有の味に最初はちょっととまどったが、すぐに慣れる。日本で言うと梅肉エキスに似た味だ。
 右側は無糖のもので、粗糖のかわりに人工甘味料スクラロース配合。まだ食べていないので味はわからない。名前もチャワンプラカシュでチト違う。有糖版も含めこちらの方が一般的らしい。
 これを日本に持ち帰ってしばらく常用してみようと思うが、さて効果のほどやいかに。





 

3月31日(火) 工房の桑樹

 養蚕の盛んなここデラドン地区には桑園が散見される。
 しかし、そればかりでなく、意外なところにも桑の木が…。
 たとえば、ganga工房の敷地、北東端にも一本。(上写真)
 地機(じばた)小屋を蔽うように生えている
 ここに樹のあることは知っていたが、桑だとは気づかなかった。
 今ちょうど桑の実が熟し始めていて、それを見て「あ、桑だったか」と改めて認識した次第。
 雌木なのであろう、実をびっしりとつけ、その重みで枝垂れている。(下写真)

 桑と言えば日本では蚕の飼料となる重要な樹種だが、英語ではmulberry(マルベリー)と呼ばれるくらいだから、漿果(ベリー)の果樹扱いなんだろうか。
 ganga工房でも来客にこの桑の実が供されたりする。赤黒く熟したのを食べてみたが、それほど甘みはない。
 信州上田のぱるば実家にもかつて桑園があったが、その実はもっと甘かった記憶がある。ただ、桑というと蚕が連想されるせいか、その実はほとんど食物あつかいされず、子供が畑でつまみ食いする程度だった。ホントはビタミンCやアントシアニン豊富な優良食品であるらしい。それゆえこの実を食した鳥は健康が増進し、あちこちに糞を落として桑の子孫繁栄に貢献するのである。当工房の桑の木もそうして生えてきたものだろう。

 さて、上写真、地機小屋の前に坐すのは工房スタッフのバギラティ。
 紡ぎ&地機のスペシャリストだ。
 今、タテ糸を作っているところ。
 地機は遊牧民でも使える可搬型の機で、タテ糸作りも通常のドラムは使わない。地面に即席の棒杭を何本か立て、手許用の長い棒を一本用意するだけだ。
 これから綾織の腰巻を織る。
 地機で織ると、よりふっくら暖かい。
 



4月1日(水) 落花染め

 昨3月31日、花没薬樹(はなもつやくのき・現地名テス)で糸を染める。
 落ちた花を使って染めるという、ちょっと優雅な営みだ。
 用済みの落花だから、植物体を傷付けることもない。
 この花没薬樹(テス)はインドで長年使ってきた重要な染材だが、通常は乾燥花を購入して染める。
 今はちょうどその花期なので、「落ちたて・拾いたて」のフレッシュなのを使って染めてみる。


1. 先週土曜(28日)、リシケシの植物園で拾ってきた落花を、煮沸した水の中に入れる。

 


2. 染料の量もたっぷりだから、数十分煮沸すると、かなり濃い染液が採れる。


3. 絹糸を染める。南インド・バンガロール産の糸だ。糸カセの状態で熱い染液に漬ける。

 
4. 丹念にカセを順送りして染める。染液も濃いので、数分でこのくらい染着する。

5. 色止めのため、鉄塩基で媒染する。するとカーキ色に変わる。花没薬樹は通常、このカーキ色を得るために使うことが多い。タマネギの皮を思わせる色変化だ。

 
6. 明礬(みょうばん)を使って媒染してみる。明礬はアルミの塩基だ。かなり鮮やかな暗橙色になる。生の花は乾燥花に比べ、色あいもフレッシュで澄んでいる印象だ。




 

4月7日(火) 今日の一枚と新人スタッフ

 新工房建設プロジェクトも正念場。
 真木千秋は年初よりほとんど帰国せず、インドの工房に張り付いている。
 おかげで、いつもより染織の仕事も捗るようである。
 現在、真木千秋のほか、二人の日本人スタッフが現地で仕事に励んでいる。
 以下、昨日届いたメール。

写真はganga工房での今日の一枚。
そして、新人の松浦菜穂さんです。
お母様が穂高岳が大好きで菜穂さんという名前がついたそうです。
これからインド、日本にて元気に頑張ります。
よろしくお願いいたします。





 

4月14日(火) トコ郎のリハーサル

 来月竹林で開催の「Kotiの春」展(5/1〜5/6)に登場のtocoro cafe
 言うまでもあるまいが、かつて東京・三軒茶屋に店を構えていた人々だ。年初ハギレ市ではスイーツを供してもらったが、今回は五年ぶりのフル出演。(前回は竹林shop五周年展)。昨日はそのリハーサルだった。

 コーヒーはドリップとエスプレッソの二本立て。
 ドリップはお馴染み「ねじまき雲」焙煎の豆によるブラック。
 エスプレッソは千葉「KUSA.喫茶」焙煎によるtocoroオリジナル豆。
 このあたりはちょっと贅沢な飲み比べとなる。
 上写真は、愛用エスプレッソマシーン「トコ郎」を持ち込み、カフェラテを淹れる上村氏。

 tocoroのラテは、存在感のある細かい泡が特徴だ。(下写真)
 ラテに使うミルクは、牛乳のほか、豆乳、そして両者半々のハーフ&ハーフ。この半々版、昨日初めて頂いたが、かなり好きかも。
 そういえば、五周年展の際の特別メニューに「パシミナ・ラテ」というのがあったが、カシミヤの質感をうたかたに託した秀品であった。この竹林特別バージョンの復刻もお願いしたいところだ。

 上写真左側が細君のナオコさん。ハギレ市に続いて、スイーツで参加だ。
 下写真・左皿が、塩パウンドケーキ。これは私ぱるばお気に入りで、甘さ控え目。縁はサクサク、中はホックリ。珈琲によく合う。
 右皿がスコーン。プレーンとカレーの二種。特にカレー味は甘味僅少で、ちょっとしたスナックという感じ。
 御両人とも本番に向けて更に秘策もあるらしい。

 三軒茶屋の店を閉じて早一年。tocoroが恋しい向きには良いチャンスである。
 公式には5月1日から5日までの五日間であるが、調子が良ければ5月6日の最終日まで出店するという。(このユルいところが上村夫妻、最近の傾向かも)
 請うご期待!!
 




 

4月18日(土) 藍の種蒔き

 今年の4月前半は記録的な日照不足であったらしい。
 が、ここ数日は天気も良く、野良仕事もはかどる。
 今日は藍の種を蒔く。
 昨年秋、タデ藍の藍草から採取したものだ。
 タデ藍の種は一年しかもたないから、毎年育てないといけない。
 ここ2〜3年、発芽成績が芳しくない。
 せっかく発芽しても遅霜が来ると枯れてしまうなど、タデ藍の栽培は難しいところがある。
 だからいつも、全部の種をいっぺんには蒔かず、2〜3度に分けて播種する。

 藍には関係ないが、今日、地元の種苗店に行ったら、里芋の種芋を売っていた。
 秋の芋煮は格別なので、今年は久しぶりにやってみようと1kgばかり種芋を購入。(けっこう高い)
 芋で心配なのは、獣害だ。この辺は山里だから自然も豊かである。芋類などは猿や猪の大好物で、我が畑もジャガイモやサツマイモなどだいぶやられた。
 隣家の畑では毎年里芋を栽培しているので、獣害について聞いてみると、猿は里芋が苦手なんだそうだ。ネバネバして口がかゆくなるらしい。な〜るほど、なんかわかる気がする。猪はかまわず食うらしい。
 幸い、藍はタデ科であるからな。好きこのんで食う生物はほとんどいない。





 

4月22日(水) ジャキア入りカレースコーン

 先日、インドからスープリア(ラケッシュ妹)が「帰国」したんだけれども、そのとき持参したのがジャキア(写真上)。これはヒマラヤ地方のスパイスで、アブラナ類の種だ。通常のスパイス店では売っておらず、ヒマラヤの郷土料理でよく用いられる。竹林カフェではシェフのラケッシュがよく使うので、お馴染みの食材だ。
 スパイスと言っても菜種だから、そのまま囓ってもあまり味はない。煎ると香ばしい風味を醸し出す。
 今回、このジャキアを持ち帰ったのも、トコロカフェの要請があったからだ。
 来週始まる春のkotiより展出店の際、カレースコーンを供するのだが、ぜひジャキアを入れたいというのだ。じつはトコロの上村夫妻、竹林カフェ開店(2006年)以来の当スタジオ顧客であった。ラケッシュの料理にも親しんでいたので、ジャキアを入れたいと思ったらしい。
 研究熱心な上村夫妻、ここのところずっとスコーンを試作し続けているという。今日はジャキア入りのカレースコーンを持参して来竹。(写真下)。Makiスタッフ全員で試食する。みんな美味しい!と絶賛。ま、本人たちを目の前にそれ以外の感想は有り得ないのだが、私ぱるばも同感であった。特に周囲のカリカリしたところが良い。写真を見てもわかる通り、上部がヒビ割れている。このヒビ割れを出すのも一工夫なんだそうだ。
 今回、ラケッシュはインドで多忙ゆえに残念ながら「帰国」できないのだが、このカレースコーンでインド気分を味わってほしい。
 スコーン担当の上村氏の感想は、ジャキアをもう少し多目に入れた方がいいだろうとのこと。来週の末までトコロの研究は続くのであろう。





 

4月25日(土) ティモケのサモサ

 先日のtocoro cafeに続いて、来週の春のkotiより展、「食」のご紹介。
 第二弾はティモケのサモサ。

 その主は北村朋子さん(上写真)。このトモコがなまってティモケになったと想像するのであるが、正式には「サモサワラTimoke」。ワラというのは「〜屋」というほどの意味。
 ご存知ではあろうが、サモサというのはインドで一番ポピュラーなスナックだ。私ぱるばもどのくらい食したかわからない。基本的にはふかふかジャガイモカレーを小麦粉の皮で包み、揚げたものだ。香ばしくて美味。これとチャイがあれば小腹を満たすにちょうど良い。もちろんtocoroの珈琲でも良い。竹林では供さないがビールとの相性も良い。

 もともと写真家志望であったティモケ。撮影のため何度かインドに渡っているうちに、すっかりサモサにはまり、いつの間にかサモサワラになっていたという次第。
 サモサを作り始めたのは八年ほど前からだが、インドにはない独自の工夫もしている。たとえば、小麦粉に石臼全粒粉を加えてみたり、縁をねじり止めしたり。(下写真)。ねじり止めすると皮に厚みができ、カリカリ食感がたくさん楽しめる。
 中身も、ジャガイモのみならず、サツマイモや人参、ヒヨコ豆、そして季節の野菜も織り込む。今ならホウレン草とか菜の花とか。
 今回の竹林イベントでは、いろんなコンビネーションで、毎日三種類ほどの揚げたてサモサが並ぶ。何が出てくるかはその日のお楽しみ!
 ティモケ本人も5月1日と4日、もしかしたら6日も竹林に登場予定。





 

4月28日(火) 明緒のオーガニックスナック

 今週末に迫った春のkotiより展、「食」のご紹介シリーズ。
 第三弾は田中明緒(あきお)のスナック。

 年初のハギレ市で竹林デビューした明緒スナック。
 なかなか好評だったので、今回は拡大再登場だ。
 出し物は、おかずマフィンとビスコッティ。

 上写真は明緒とマフィン(トマト&バジル)。これはオリーブ油と胡麻油を使ったイタリア系だ。酸味が利いて暑い気候にぴったり。
 マフィンには他にローズマリー&クルミがあって、こちらはさっぱり味。

 下写真はビスコッティ(ヘーゼルナッツ&ダブルチョコ)。
 ビスコッティとビスケットは何が違うのかと言うと、ビスケットは一回焼きなのに対し、ビスコッティは三回焼くんだそうだ。それでカリカリ感が増す。
 メープルシュガーでほんのり甘味。
 ビスコッティにはほかにクルミ&レーズンがある。

 明緒はこうした調理の術を、リマとクシのマクロビオティッククッキングスクールで学ぶ。
 小麦粉や油などオーガニック素材を使った、動物性不使用のビーガンスナック&スウィーツだ。ちなみに明緒は信州『月のテーブル』オーナー田中惠子の娘。(つまり私ぱるばの姪っ子)。
 ご賞味あれ!






 

4月30日(木) 明日から「kotiの春より」展

 明日5月1日から六日間、「kotiの春より」展だ。
 今日はその準備で大わらわ。
 雰囲気はなにか学園祭の前日のようだ。

 新緑の武蔵五日市。
 爽やかな陽気に誘われ、竹林shopでは、つい、ストールを外に展示してみたり。(上写真)
 
 昼過ぎにはオカベマサノリ氏と沼田みよりさんが福岡から到着。
 母屋一階を大幅に模様替えして、今まで見たことも無いような空間が出現する。
 夜の八時近くまでかかって、アンティークビーズが展示される。(中写真)

 オカベ氏のアクセサリーは、この竹林にぴったりと嵌まる。
 それもむべなるかなで、そもそも、オカベアクセサリーはMakiの布々を機縁として誕生したのだ。
 かれこれもう二十年もMaki布と関わってきた沼田みよりさん。しかしひとつ難しい問題があった。というのも、Maki布に合うようなアクセサリーがなかなか無いのだ。
 そこでパートナーのオカベ氏に相談。そして氏が一念発起して生みだしたのがアンティークビーズのアクセサリーだったらしい。
 ネックレスやブレスレット、指輪やイヤリングなどいろいろあるので、この機会に是非ご覧あれ!

 みんなが忙しく立ち働くのを脇に見ながら、私ぱるばは今日もカマドで楽しく火遊び。タケノコのアク抜きだ。(右写真)。
 ちょうど今ごろ、孟宗の竹林からタケノコがニョキニョキ生えてくる。ホントはそのままにしておきたかったのだが、大家さんが掘って進呈してくれたのだ。
 焚き物もだいぶたまったので、整理がてらの火遊び。柔らかく煮えたら、タケノコご飯にしようという魂胆だ。みなさんにも是非味わっていただきたいところだが、スタッフの賄い分で消えてしまうかな!?






 

5月8日(金) 新工房の屋根

 今朝の7時半、田中ぱるば、ganga工房到着。
 昨日の早朝拙宅を出て、上海で途中降機してカシミヤ原毛25kgを受け取り、デリーを経由して計三十時間に渡る旅であった。
 工房に到着後ほどなく、来客が二人。フランス人の屋根職人ジャン・マルクとスイス人の左官(漆喰)職人のルディだ。ともに新工房の建設に参与している。今朝はganga工房に布を買いに来たのだ。シルクストールやkotiベストなど、いろいろお買上。「朝から布の売り上げがあった」とラケッシュも嬉しそう。

 この二人はフランス語で会話する。買い物が終わると、「トラバーユ、トラバーユ(仕事、仕事!)」と現場へ向かう。一昨日から建築家のビジョイ・ジェインも来ているので、私も勢いで同道する。
 現場に着くと、既にビジョイが来ている。聞けば、昨夜はここで夜を過ごしたのだという。敷地にテントが二張り設置されているのだ。朝、ヨーガのスリヤ・ナマスカール(太陽礼拝)をしたところ、身体を通じて天と地の繋がりを感じたと喜んでいた。

 私が現場に来るのは一ヶ月以上ぶりだ。「だいぶ変わったでしょう」とビジョイ。
 確かに建設は進んでいるようだ。一番大きな違いは、屋根が架かり始めたということだろう。

 上写真は管理棟。石板で屋根が架けられている。
 右から二番目の人物(白帽子)が漆喰職人のルディで、今、雨水処理についてみんなで検討している。ビジョイや真木千秋の姿も見える。

 中写真は補助棟。ここも、トイレや食堂は既に屋根が架けられている。残りの洗い場と藍部屋に、今日は写真のように梁が渡された。材はトネリコ。この上に石板が渡される。

 下写真は主工房。こちらの屋根はまだまだだ。左端の人物が屋根職人のジャン・マルク。南インドのオーロヴィル在住で、ビジョイのプロジェクトにはよく参加している。お馴染みのビジョイ作品であるコパーハウスやパルミラハウスの屋根も彼の仕事だ。シンガポールの日本大使館も手懸けたそうだ。さて、ここにはどんな屋根が架かるのであろうか。

 今、午後9時近く。暗闇の中、まだビジョイやそのスタッフは働いている。
 四十℃近い真昼の暑さから解放されて快適ではあるが、私はいささか眠たくなってきた。日本時間では夜中の12時半だ。
 もうじき夕食が近くのホテルから運ばれてくるはず。(もちろんインド飯)



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5月9日(土) ビジョイの大前提

 すっかり夏の北インド五月。
 昼間の気温は三十度台後半。そして乾季だから湿度が低い。今、部屋の湿度計は23%を表示している。飲料水の必要量も並大抵ではないが、洗濯物の乾燥速度も驚くべきものだ。

 さて、新工房の設計にあたってくれているスタジオ・ムンバイの建築家ビジョイ・ジェイン。
 インド中部のムンバイからここリシケシまで通って来るのだが、それは日本で言えば鹿児島から羽田経由で仙台あたりに行くような感じ。そんな距離もものともせず、ここ半月の間に二度も足を運んでくれた。この(超)低予算プロジェクトに懸けるビジョイの意気込みについては、我々も頭の下がる思いだ。
 ビジョイが来ると、現場がピリッと締まる。普段は外国人の施主など歯牙にも掛けない現場監督のサリフルも、ビジョイの前では気の毒なくらいに直立不動。絶対服従。現場に轟き渡るビジョイの獅子吼は、傍に居ると身もすくむド迫力だ。何事もそうだろうが、建築家というのもセンスのみならず人間としての総合力が要求される職種のようである。彼がずっとここに居てくれたら工事もどんなに進むだろうと思うのだが、各地にプロジェクトを抱える多忙の身ゆえあまり独り占めも許されまい。

 三泊四日滞在の最終日。
 今日のビジョイは、藍染のシャツで登場。これはかつてMakiが特別に誂えたものだ。それを彼は大事にアイロンをかけて、よく着用してくれる。(写真1)。
 肩に掛けた白いガムチャ(手拭い)がインド的だ。

 最終日だから、いろいろカタを付けねばならない。
 写真2はそのひとつ。屋根の排水口。
 大理石でできている。インドでは大理石が木材と同じくらいの値段だ。
 小さな部品だけれども、ビジョイはこれにも多大なエネルギーを費やしている。こうしたことが好きなればこその建築家なのだろう。
 ビジョイが右手で掴んでいる部位が上下に動き、水はけのみならず空気の流通にも資するようになっている。

 写真3は、壁塗りを試すビジョイ。
 左官職人ルディ(手前白帽子)の指導の下、自らコテを振るう。
 漆喰に石粉を混ぜて水に溶いたものを、レンガの上に塗っている。
 ビジョイの左側が現場監督のサリフル。ビジョイの指示をしっかりと消化し、末端までよく徹底させてもらいたいものだ。

 家具調度を考えるのも建築家の大事な仕事だ。
 屋根が付き始めたので、そろそろ内装や家具についても決めねばならない。
 居住棟はもちろん、工房や調理室の調度についても、真木千秋等と細かく検討する。(写真4)

 「必要ならもうちょっと長く居ても良いよ」と言うビジョイであるが、この暑い中、(おそらく工費節減のため)テントに二泊もしてくれたビジョイには休暇が必要だろうから、予定通り午後四時半の飛行機で帰ってもらうことにする。現場から空港までは車で十分少々だから、ぎりぎりまで仕事ができて便利だ。

 工期が当初よりだいぶ伸びてしまった本プロジェクト。「今年中に完成させることが大前提」とビジョイは言う。
 そのため、スタッフやヘルパーを何人も送り込み、自身も足繁く通って、なんとかその大前提を達成しようとビジョイも頑張っている。
 それもあって、真木千秋は年初からほとんどインドに張り付き、私ぱるばも今回が今年三度目の渡印だ。
 まさに胸突き八丁。今が頑張り時だ。






 

5月10日(日) 左官職人ルディ

 スイスの左官職人ルディ。
 当プロジェクトのため、ビジョイがスイスから招聘した人だ。
 ビジョイがスイスのローザンヌで展示会を開いた際、知り合い、意気投合する。
 インド訪問は今回が二度目だそうだ。

 白いベレー帽がトレードマークのルディは、いつもニコニコ笑っている。ドイツ系スイス人のお堅いイメージを覆す親しみやすい人柄だ。(上写真)。母語のドイツ語のほかフランス語・イタリア語をよくするが、英語は苦手。それでもビジョイとは腹と腹で通じ合うのだそうだ。

 セメントをいっさい使わない当プロジェクト。レンガや石の繋ぎに使うほか、床や壁の上塗りにも漆喰(しっくい)を使う。
 ルディがまず取りかかったのが、食堂の床。
 石を敷いた上に、漆喰を施す。漆喰は石灰と砂と水を混ぜたものだ。
 漆喰の厚さは10cm以上。それ以下だと強度的に問題がある。

 コンクリートだと1〜2日で固まるが、漆喰の固形化には二ヶ月かかる。
 それでもなぜ漆喰を使うかというと、まずは涼しいから。またコンクリートは乾燥時に収縮するので、広い面積には施せないという。

 涼しさに関しては牛糞土間が一番だが、メンテに手間がかかるし、食堂の床に牛糞というのもやや違和感がある。(インド人は平気だろうが)。
 牧畜の国スイスに牛糞土間はあるかと聞くと、ありえないというジェスチャーをする。
 ともあれ、漆喰の仕事が楽しくて仕方ないという様子だ。

 下写真は漆喰床の上にローラーをかけるルディ。
 これは当プロジェクトのための特製、30kgローラーだ。
 そもそも漆喰工事のほとんどない当地にこのような漆喰用ローラーなど存在しないのだが、比較的気軽に何でも特注できるのがインドの便利なところだ。このローラーも近所の鉄工所で作ってもらったものだ。ほかに30kgローラーをもうひとつと、主工房の床用に70kgの大型ローラーも注文している。

 スイスでは漆喰の伝統は二百年前に途絶えたそうだ。ルディはもともと石工だったが、35年前に漆喰の仕事を始める。スイスでは唯一の左官だという。彼によれば、スイスのみならず、ドイツにもフランスにもイギリスにも、もはや左官は存在しない。イタリアに少々居るのみだそうだ。漆喰でこの規模の工事をするというのは現在ヨーロッパでは有り得ないという。
 そういう意味で日本の左官業は貴重な存在だろう。ただいずこも同じで、東京あきる野の弊スタジオを手懸けてくれた腕利きの左官職人も、後継者の無いまま、数年前、他界してしまったのであった。

 というわけで、欧州では数少ない左官職人のひとり。聞けば私ぱるばと同年であった。現場のテントに泊まり込み、漆喰指導に奮闘するルディである。






 

5月12日(火) 壁の始末

 インドカッコウの高らかに吟唱するヒマラヤ山麓。
 中国では四声杜鵑と呼ばれ、「ボコタコ」と鳴く。(イギリス人はOrange Pekoeと聞くようだ)。音階は「レドレド」で、一度聞いたら忘れない。和名はセグロカッコウ。鳴き声を聞きたい人はこちら。里に行けば普通のカッコウも鳴いている。

 さて、スイスの左官・ルディは今日が帰国日。
 その前にいろいろ検討すべきことがある。
 そのひとつがレンガ壁の始末だ。
 主工房など主要な建物はレンガ造り。今のところレンガが露出しているが、その表面はどうするか。
 壁面にもいろいろあって、内壁、外壁、土台部分など、その箇所に応じて処理を考えないといけない。

 上写真は内壁部分。サンプル塗りの四角形が4つある。いずれも漆喰だ。
 左上のグレーは石粉を混ぜたもの。石は近所の川石で、工事にも使っている。それを砕いて粉にして混ぜている。
 左下と右下のベージュは、土を混ぜたもの。右上の赤はレンガ粉を混ぜている。
 いずれも塗りたてだから色も鮮やか。乾くともう少し明るい色合いとなる。

 中写真も内壁。
 これは床との接合のサンプルだ。石粉を混ぜた漆喰を使っている。
 床と壁が直角に交わるのではなく、接合部を丸くしてある。
 ヨーロッパの古い聖堂に見られるような柔らかい表情だ。
 実際の床面は写真の戸口の高さになる。

 下写真は土台部分のサンプル。
 これは牛糞+土だ。足で踏んで、手で塗る。
 本来なら混ぜたあと五日間ほど寝かせるのだが、今回は一日で仕上げる。
 三度塗り重ねて完成。
 これはスイスには無いので、ルディも珍しそうに撮影していた。
 この土台部分は凹んでいるので、このままでも五年はもつという。外壁のように雨の当たる箇所は一年ほどで劣化する。表面に強化剤を施すと十年単位で耐用年数を延ばせる。

 昨夜、現場の架設屋根の下で夕餉の食卓を囲んでいると、にわかに嵐が起こり、大風に加えて降雹降雨。みんなびしょ濡れになり、寒いことこの上ない。そこでこの土台の凹みに逃げ込んだのであった。
 日本にはあまりない苛烈な気象現象で、建物の設計も再検討が必要であろう。
 しかしながら、おかげで気温が下がり、今日は比較的心地良い陽気だ。正午で三十度ほど。






 

5月13日(水) 夏はウール

 今日、東京は夏日だったようだが、こちらは酷暑日。
 別に驚くには当たらない。
 北インドでは5月と6月が一番暑い時期なのだ。

 そして、夏こそウールの季節。
 と言っても、機場(はたば)の話。
 秋冬に向けて、今からしっかり作り込んでおかねばならない。

 建築家ビジョイや左官ルディが去り、数日ぶりに機場に復帰した真木千秋。
 さっそく糸置き場からウールを取りだし、何やら考えている。(上写真)

 真木千秋の前にある糸カセは、ヒマラヤウールを藍で染めたものだ。
 このマリーンブルーはganga工房独特の半発酵染め
 工房で育てたインド藍を、夏場に刈り取り、一日ほど水に漬けて発酵させ、その液で染めるのだ。
 ヒマラヤウールの藍染には、今のところこの方式がいちばん良い。

 この藍染ウールを使って、「台形腰巻」の生地を織る。
 そのタテ糸作りが中写真。
 職人ジテンドラ(左端)とアシスタントのシュルティ(中)とともにタテ糸を作る真木千秋。「建築に比べて布作りって何て楽なんだろう」と妙な感想。建築家じゃないんだから当たり前だが、日陰で作業できるのは確かにラクかも。

 上写真の奥、生地の仕上げをしているのは、ウールの専門スタッフ・バギラティ。ヒマラヤ遊牧民の村に生まれ育ち、幼時から羊毛に親しんでいる。
 天然色(白9黒1)のグレー生地だが、よく見ると縁が黄色い。この部分はローズマリーで糸を染めている。
 これは帽子に使うウール生地だ。

 帽子の製作風景は下写真。
 これはチャコール生地に、縁がグレー。
 上写真の生地はその色違いになる。ライトグレーに縁が黄色。想像できるかな?

 帽子の型は木製だが、これにはそもそも造形作家・増満兼太郎氏が関わっている。
 三年ほど前に来ganした増満氏、丸太で袋物の木型を作る。それをヒントにして、この帽子用の木型が作られたのであった。






 

5月15日(金) ムーチ樹の繊維

 インドだからといって、毎日同じように暑いわけではない。
 照る日もあれば曇る日もある。
 曇れば直射のない分だけ楽だ。
 今日は朝から空が澄み渡り、太陽が強烈に照りつけて外に出るのが恐ろしいほど。しかし、気温自体はそれほど高くなく、午後1時現在で三十度台前半。乾燥しているので比較的しのぎやすい。
 ここヒマラヤ山麓もご多分に漏れず、近年、気候が変動しているようだ。当地に生まれ育った人によると、かつてはこの時期、夕方になるときまって雨が降り、気温が下がったそうだ。今は降雨が減少し、そのため、気温はあまり下がらず、農作物にも影響が出ているという。
 ただ、亜熱帯であるから、降る時には猛烈に降る。

 暑いからと言って工事現場が停止することはない。
 インドの人々にとってはこれが日常だ。
 来月中旬から三ヶ月ほど雨季になるので、今しっかり働かねばならない。
 年内完成に向けて着実に工事は進んでいる(ようだ)。

 上写真は今朝の現場。藍室の屋根の上で人々が働いている。
 今、最後の屋根石が敷かれたところだ。
 その奥が四角く空いているが、ここには大理石を張って光取りにする。

 石を敷いたままだと雨漏りするので、隙間の止水が必要だ。
 止水は三層構造になっている。下からムーチ繊維、アスファルト、漆喰だ。
 中写真は三日前のもの。スイスの左官ルディが石と石の間にムーチ樹の繊維を押し込んでいる。

 ムーチ樹は西部インド・ラジャスタン州特産で、その枝を水に漬けて繊維を採取する。私たちのよく使うビマル樹(おそらくシナノキ科)と同じだ。ムーチ繊維はビマル繊維と同じく強靱で、ビマルより滑らか。その性質により、石組みの隙間によく使われる。(そのほかロープなどにも)
 ムーチ繊維はまた、水を吸うと膨張するので、屋根石の止水にも有効だ。

 下写真は足指を使ってムーチ樹の繊維を編んでいる真木千秋。
 手前に写っているのが繊維で、40cmほどの長さだ。
 ムーチ繊維をそのまま束にして挿入するより、編んでから挿入したほうがより効果が見込めるであろう。
 インドの農民たちはこうした作業が得意。みんなに協力してもらえば、亜熱帯性スコールが少々襲来しても、よもや雨漏りということはあるまい。



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5月16日(土) koti衣 (コティごろも)

 下手な吹奏楽器練習のような音が聞こえる。
 工房でタテ糸を巻いているのだ。
 大きなドラムでタテ糸を巻くと、軸が軋んで奇妙な音を発する。

 昨日、夜までかかって、真木千秋がkoti衣のタテ糸を作る。
 新色だ。
 今までkoti衣(ベストとスカート)には、藍、ベージュ、チャコールの三色があった。
 今回の新色は、グレー。
 そのタテ糸を朝からビームに巻き取っているのだ。(写真1)
 ビームというのは織機の横棒で、この太い棒にタテ糸を巻きつけ、それを棒ごと織機に取り付けて織る。
 写真1の左端人物が、koti布を織る織工グラム。真ん中が製織技師のジテンドラ、左端が助っ人のサンギータ。彼女は仕上げ担当なのだが、飛び込みでビームを回している。私ぱるばも試しにやってみたが、女の細腕(!?)でもこなせるくらいの張力だ。広幅の布なので、三人がかりの巻き取り作業だ。

 写真2は、巻き取りの終わったタテ糸を見る真木千秋。
 「これはマロングレーね」と言う。
 ロマンスグレーならぬそんなグレーあったっけ?と聞くと、今考えたとのこと。茶色がかったグレーだ。
 暑いなか遅くまで仕事した甲斐があったと満足げだが、おかげで今日になって身体の芯が痛いとか言っている。

 写真3は、縫製されている藍のkotiベスト。ganga工房内の縫製場で、テーラーのマニンドラがミシンに向かっている。
 写真4は、完成した藍のkotiベスト。人物は縫製主任のサリタ。

 そもそもこれは、二ヶ月前まで、wovenベストと呼ばれていた。
 woven(ウォーヴン)というのは「織られた」という意味。
 織りのデザインに工夫し、織機の上で布に変化をもたせ、裁断や縫製を極力減らした衣だ。
 それでwovenベスト。

 しかしながら、写真3にも見る通り、JUKIミシンでしっかり縫製もするわけだし、「織られたベスト」というのはちょっと不適切ではないか…。それに見慣れぬ英語動詞の過去分詞を頂くのはいかにも無粋である。
 それで私ぱるばがちょっと頭をひねって、wovenをkotiに変えたというわけ。

 koti(コティ)とは現ganga工房のある村の名前だ。
 新工房の建設が計画通りに進むと、年内には縫製場も含めてそっくり移動となる。
 それで現在地の記念としてkotiの名を冠したのであった。

 名前を変えたとたん、急に人気が出て、あちこちから引く手あまた。
 ネーミングの勝利か!?
 とは言え、現在新宿伊勢丹で弊スタジオ展示会中なのだが、昨日、会場に大柄でコワモテの中国人男性が現れ、kotiスカートを見るや即決購入したという。自身で着用するんでもあるまいが、言葉を超えた魅力があるのかも。




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5月17日(日) マハラジャとサファリ

 先日初めて知ったのだが、ganga工房の近所にマハラジャが住んでいる。
 日本で言えば、江戸時代の殿様のようなものだ。現在のインドではもはや政治的な権力は保持していないが、近所のマハラジャ氏は今でも広大な地所を私有している。寒い冬の二ヶ月は南方ゴアの別邸に暮らし、暑い夏のひと月半は北方カシミールのハウスボートで過ごすのだそうだ。
 我々もインド歴は長いがマハラジャと会うのは初めてだ。どんなにコワい人かと思っていたら、高橋是清みたいな風貌の気さくなオジさんであった。
 そんなマハラジャのラマン・デオ・シン氏に、サファリに行かないかと誘われる。行き先は近所のラジャジ国立公園。
 じつはこの国立公園、三年ほど前に一度サファリをしたことがある。ただ、呼び物の象や虎や豹には出会えず、花札じゃないが猪や鹿や鳥ばかりだった。今回はマハラジャ氏のお誘いなんだから少なくとも象には出会えるだろうと期待しつつ、ご近所づきあいも兼ねて真木千秋とともに参加する。

 朝四時前に起き出し、途中マハラジャ氏の車と合流。六時、開園とともにサファリに繰り出す。ガイドによると、象との遭遇率は朝50%、夕刻は100%だという。前回は80%と言われて遭遇しなかったので、今回と合わせれば130%となり、これはゼッタイ出会えるはずなんだが…。
 マハラジャ氏が自ら4WDを駆って案内してくれる。(写真1)。ここには何度くらい来たことありますかと聞くと、「二百回くらい」とのこと。そもそも、今は国立公園だから鳥獣保護区だが、1960年代まではただのジャングルで、先代のマハラジャは息子である氏を伴い泊まりがけで狩猟を楽しんでいたそうだ。氏の屋敷を訪ねると、居間には獲物であろう虎や豹の毛皮が敷かれ、壁には猟銃を持った父祖の白黒写真がたくさん飾ってある。氏もかつては腕利きのハンターだったらしい。

 太古のままであろうジャングルに繰り出すと、やはり鹿はいたるところにいる。写真2は、背中にバンビの白斑のあるアクシス鹿。
 インド孔雀もあちこちで見かける。(写真3)。孔雀も狩猟の対象になるのかと聞くと、それは無い、インドの国鳥だから撃ったら懲役10年だ、とのこと。
 赤色野鶏(セキショクヤケイ)にも出会う。ニワトリの原種で、写真4はその雄。
 ただ、鹿にしても、孔雀にしても、赤色野鶏にしても、新工房の敷地周辺に出没する動物で、さして珍しいものではない。
 肝腎の象はと言えば、あちこちに糞やへし折られた木々は見られるが、姿は見られない。
 虎や豹も、砂地に足跡は残しているが、やはり姿は見られない。

 かくして二時間余にわたるサファリ再挑戦も、鹿や鳥ばかりで終わってしまった。
 象は食料を求めて公園外にもよく出てくる。1日のうち16時間は食事時間なんだそうだ。ganga工房近所の住宅地にもよく出没し、工房スタッフも何度か目撃しているのだが、我々はついぞ見たことがない。
 帰り道、州政府森林局の象が糧食であろう枝葉を山積みして道を歩いていた。(写真右下)。観光用なのだそうだ。う〜ん、野生のが見たかった。
 我々の不運を哀れに思ったのか、氏は親切にも森林局の害獣保護センターまで車を走らせ、収監されている豹を見せてくれた。
 更には道端の酒屋に車を止めて、冷えたビールの大瓶を一本ずつ我々にふるまってくれた。そうして自らはビールをラッパ飲みしつつハンドルを握るのであった。象や豹より、こちらのほうが面白かった。



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5月18日(月) 台形腰巻のできるまで

 「台形腰巻」というアイテムがある。
 こちらganga工房では、ラップ・スカートと呼ばれている。「包むスカート」だ。
 四年ほど前に生まれ、毎年工夫や新色を加えつつ、作られ続けている。

 五日前の13日、藍染ウールの台形腰巻タテ糸づくりをご紹介した。
 そのタテ糸が職人ジテンドラの機(はた)にかけられ、織りが始まった。(写真1)

 この腰巻も含め、Maki腰巻のひとつの特徴は、ヨコ糸が紐になっているということ。
 写真1に見るごとく、まず、紐になるウールのヨコ糸を十数本、打ち込む。
 そのヨコ糸は、脇に長く垂れている。
 その垂れた部分が、腰巻の紐になるというわけだ。
 写真上ではジテンドラが垂れた部分を邪魔にならないようまとめている。

 写真2は機から降ろされた台形腰巻。
 左側人物のシータが手で仕上げしている。布の右手前に紐になる部分が見える。
 右側人物のバギラティは帽子になるウール生地の仕上げ。奥には真木千秋。

 水通しをしたあと、まず、先ほどの垂れた部分から紐を作る。(写真3)
 手でフェルト加工するのだ。これでしっかりした紐ができる。
 紐のほか、縁の部分にもフェルト加工が施される。

 その後、手縫いでしっかりと両縁をかがり、洗いを施し、出来上がったのが右下写真。
 この完成品は、写真3の腰巻とはヨコ糸が違って、藍染のウールを使っている。紐色の違いに注意。写真3の紐は天然色のウールだ。

 腰の部分は、縮絨により幅が狭まっている。
 縮絨率の高いヒマラヤウールで綾織されているからだ。
 それで全体的に台形を呈するというわけで、それが名前の由来になっている。

 腰から下は、微妙な糸使いにより、麻の割合も増える。
 それによって落ち感が出で、着用した時にキレイなカタチになる。





 

5月19日(火) 暑中休暇

 今、夕方の5時半。
 室温35.5℃。パソコンが熱い。
 我が部屋はganga工房の一角にある。いちおうエアコンも付いているのだが、工房では誰もエアコンなど使わないから、私も扇風機だけで過ごしている。インドは電力が切迫しているので、できるだけ無駄遣いはしたくない。(温暖化抑制のためにも)。ま、そのうち慣れるだろう…
 だがしかし、これから二週間ほど、北インドでは今年一番の高温が予想されている。標高五百メートルの当地も最高気温は連日40℃に達する模様だ。
 学校や幼稚園も暑中休暇に入り、ラケッシュの姪っ子ディチーも工房(すなわち祖父母の家)に遊びに来ている。(上写真)。
 整経機の脇でディチーが頭を掻き抱いているのは、仔犬のポチ。生まれて三ヶ月少々になるが、こんなに大きくなった。ただし、もともとは寒冷地に適応したチベット犬なので、暑気はさぞかし辛かろう。特に最初の夏は。

 そして、真木千秋&ラケッシュも「暑中休暇」。
 これから二週間、日本へ帰国だ。
 通常の布作りのほか、今は工房建設の正念場だから、今年は二人ともインド滞在が長い。一月に渡印して以来、三月の短期帰国をはさんで、ずっとインドであった。
 多忙な仕事の合間を縫い、今回も短期の帰国だ。ホントは一週間前に出発の予定であったが、敷地の許認可関係の書類作成があって、今日にズレ込む。(インドのお役所を相手にする困難は想像を絶するものがある)。
 下写真は近所のデラドン空港入口にて。嬉しそうな真木千秋とラケッシュ(左端。真ん中の人物は見送りの工房長サンジュ)。
 まずプロペラ機に乗って首都デリーに赴く。今ごろは冷房の効いたデリー国際空港で日本行きの飛行機を待っていることだろう。(明日、成田からの帰途、新宿伊勢丹で開催中の展示会に顔を出すらしい)


5月20日(水) 波羅蜜カレー

 今、新工房の建築現場でいちばん目につく木といったら、波羅蜜(はらみつ)であろう。英名ジャックフルーツ。
 もともと果樹園だった敷地に計21本生えている。その実がだいぶ大きくなった。
 完熟果は「果物の王者」ドリアンにも似て魅力的だが、インド人にとっては未熟果の方が利用価値が高いかも。
 未熟果は「野菜」として利用され、八百屋で買うとかなり高い。(工房が左前になったらコレで食いつなぐか)


1. 一本の木にこれだけ生えている。とても食べきれない。木に上っているのは現場コックのドルギ。

 


2. 波羅蜜の果芯からは、粘っこいゴム状の液体が滲出する。これはかなり厄介で、包丁と手に油をつけて切断する。


3. 果肉をサイコロ状に角切りする。種子も柔らかいのでそのまま切断して食用にする。

 
4. 角切りの果実を油で揚げる。次いでみじん切りのタマネギを油で揚げる。

5. マサラやタマネギと一緒に料理して出来上がり。肉のような独特の歯応えがあり、「ベジタリアンの肉」と呼ばれる。

 
6. 現場キッチンも波羅蜜の樹下にある。建築家や現場監督、ganga工房スタッフがここで食事を摂る。

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これが今日の我が現場ランチ。
左が波羅蜜カレー(香菜がふりかけてある)。上はひよこ豆カレー。他に青唐辛子のフライとか、生タマネギとか。
気温が四十℃近くあるから、やはりカレーが一番!!

5月21日(水) インド茜で染める

 茜というと日本では女子の名前として近年人気のようであるが、もともとの語源は「赤い根」ということで染料なのだ。紅花と並んで古来より重要な赤系の染料であった。
 ここganga工房でも、アカネで赤を染める。こちらのアカネは日本の茜と同属のインド茜。日本の染料店でも売っているが、かなり高価な材料だ。ここインドは原産地だから、ふんだんに使うことができる。日本みたいな染料店は存在しないが、アユールヴェーダの薬として使われるので、薬種店で手に入る。


1.鍋にインド茜を入れて煮沸する。タキギのカマドだ。インドの田舎ではプロパンガスの入手が非常に面倒。木灰の入手も兼ねてカマドを使う。

2.一時間くらい煮て、染液を抽出。出がらしの茜は乾かして焚きつけに使えるから無駄がない。このインド茜、新工房敷地に植えたいと思うのだが、まだ現物に出くわさない。


3.今日染めたのは、絹糸二種類。玉糸と黄繭糸だ。染師はディネーシュ。

4.染液に入れると次第に赤く染着する。


5. 途中で四時のティータイムになる。脇の小カマドでチャイを作る縫製担当のレカ。カマドのチャイはひと味違う。冬場は午前午後と二度お茶の時間があるが、夏場は暑いから午後のみ。

6. 灰汁につけて媒染する。灰汁焙煎だと赤味が増して、いわゆる緋色になる。黄味を加えて橙色にしたい時は明礬(アルミ)で媒染する。

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染め上がった糸。乾季だからすぐ乾く。
左二本が玉糸、右二本が黄繭糸。
黄繭はもとが黄色だから少々橙色を呈するが、この黄味はやがて消失し、赤に近づく。





 

5月22日(金) 石柱のいろいろ

 新工房の現場に行くと、あちこちに石柱が立っている。
 柱と言えば日本ではほとんど木製だから、ちょっと珍しい風景だ。
 漢字も木+主だから、古代中国でも柱は木製だったのであろう。ギリシアの神殿も大昔はやはり柱は木製だったらしい。
 それがなぜ石になったかと言えば、強靱性や耐久性・耐火性、石工技術の進歩などに依るのであろう。
 また森林の減少も影響しているかもしれない。インド上空を飛行機で飛んでみるとよくわかるが、森林というものがほとんどない。国土の八割近くが山林だという日本とは大違いだ。これは地形や気候の違い、歴史や開発の長さに由来するものであろう。それゆえ、インドでは実際、建材にしても、石材のほうが木材より安いということが往々にしてあるのである。

 ただ、ここの現場では、重機は使わず、石の移動も基本的に手作業だから、そんなに巨大な石材は扱えない。
 石柱が使われるのも、主に、ベイ・ウィンドウ、すなわち出窓ないし「張り出し窓」の部分だ。
 上写真は主工房のベイ・ウィンドウ。左側の正方形小区画は、四隅に石柱を立て、外側の三方を石板とガラスで囲う。内側は空いていて、座ったり、中に入ったりできる。右側はカギ型の大区画で、何本かの石柱を立て、外側を石板とガラスで囲う。やはり内側から座ったり、上に上がったりできる。イメージとしては、女たちがチャルカで糸を巻くような場所だ。なにもここまでして糸巻き場を作らなくてもと思うのだが、ま、それも歴史の必然か。

 中写真は石板を加工する石工。
 石材は西部ラジャスタン州から運んで来たグレーベージュのビルワダ石。非常に粒子の細かい砂岩だ。石工たちもついでに同州から来ている。
 木材と同じく、石組みのためのホゾやホゾ穴を削り出す。
 日本だと大工とは木材を扱う職人だが、インドでは石工ないしは煉瓦工が大工にあたる。

 下写真は、ギャラリー山側のベイ・ウィンドウ。
 土に埋まる部分に防水処理を施しているところ。漆喰を塗っている。
 この柱間にもガラスが嵌まる予定だ。

 今、中東某国にあるローマ時代の石柱列が破壊の危機に瀕しているという。
 まことに惜しいことだが、これもまた歴史の必然か。

 





 

5月23日(土) kotiベスト新色「**グレー」

 先週土曜、三人がかりで巻き取っていたkoti衣の新色。
 その後、織師グラムの機(はた)にかけられ、織り進められていた。

 その最初の一枚、ベストが昨日縫製される。まだ仕上げ前の段階なのだが、皆さんに特別ご披露いたそう。
 上写真がそれ。

 さてその色は…。
 真木千秋は「マロングレー」と言うし、縫製主任のサリタは「ブルーグレー」と言う。どちらを採用すべきか迷うが、ともあれ、落ち着いたシックな色合いではあるまいか。
 奥に写っているのが織師グラム。彼の機は一番大きく、場所を取るので、針場の隣に特別に収容されている。この機で今日もグラムは新色「**グレー」生地を織っている。
 藍、ベージュ、チャコールに続く四色目だ。

 下写真はその新色グレー生地で二枚目のkotiベストを縫製しているテーラーのマニンドラ。
 そのほかスカートも作られる予定だ。
 小さな工房で製織から縫製まで一貫作業…っていうのもなかなか珍しいんじゃあるまいか。
 この新色koti、来月中には竹林shopならびに各地展示会に出品されると思うので、興味ある人はお見逃しなく!
 koti衣についての詳しい説明はこちら
 





 

5月24日(日) サンダー・ストーム

 この週末二日間、建築家のビジョイ・ジェインが来gan。(ganga工房に来ることを来ganと言う)
 現場にも建築家にも土日はないようだ。(特にこの現場は工事も遅れているし)

 昼間の気温は40℃を超え、現場はもちろん現場事務所にもエアコンはない。このところ毎日快晴で、北緯30度の太陽は容赦なく照りつける。
 私ぱるばはたまりかねて昨日今日とルンギ(腰巻)で現場出勤。パンツは暑くて耐えられない。
 しかしインド人は建築家も労働者も全員パンツ。それも当然だろう、ルンギは涼しいが、労働するにはいかにも効率が悪い。

 上写真は昨日、夜9時。現場事務所。
 この頃になると気温も30℃くらいに下がって、すこぶるしのぎやすい。
 夕食前のひととき。みんなでグラスを傾けながら、今後の仕事などにかかわる雑談をする。欧州人の建築家もいるから、雑談も英語だ。インド人なのにみんなネイティブなみに上手。私などつけいる隙もない。
 その後、現場コックの料理で夕食を摂るのだが、だんだん雲行きが怪しくなる。風が強くなり、雷鳴が聞こえ、そのうち雨も降り出す。亜熱帯のサンダー・ストームだ。
 現場事務所には屋根しかないから、横殴りの雨に濡れ、風に吹かれると、たちまち体温が奪われる。
 
 ヒマラヤの麓は、気候もけっこう苛烈だ。
 建物もそれに備えないといけない。
 下は今日の午後。受付棟の屋根。一番建設の進んでいる建物だ。
 石で葺(ふ)いたあと、瀝青(アスファルト)で止水をしたところ。
 その上に砕石を敷き、漆喰で固める。
 もうじき雨季が始まるので、その備えも考えないといけない。



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5月25日(月) 染め場のブルブル鳥

 最近、染め場の周辺で、よく野鳥を見かける。インドではお馴染みの鳥で、「ブルブル bulbul」という名前だ。
 尻の紅いのが特徴。日本には居ないが和名は「シリアカヒヨドリ」。

 ヒヨドリというのは、ちょっと微妙な存在である。
 東京五日市の拙宅周辺にもよく出没するが、大事にしている果樹をついばんだり、餌台で他の小鳥たちを追い払ったり、鳴き声が耳障りだったり。
 虫を食ってくれるのは有難いが…。

 左写真1がそのブルブル。カマキリを咥えている。ご覧の通り尻の部分が紅い。中国南部にも居るようで、あちらでは黒喉紅臀鵯と言うらしい。やっぱりヒヨドリなわけだ。
 ただこのブルブルは、日本のヒヨドリより一回り小さく、ゆえに鳴き声もそんなに耳障りではない。かつてインドではペットとして愛好もされたようだ。
 なぜこのブルブルが染め場に出没するのかというと、染め場天井に巣を作っているからだ。
 右上写真、天井の↓のところが、その巣。拡大すると親鳥がヒナに餌をやっているのが見える。
 左写真2がその近接撮影。親鳥とヒナが二羽が見える。親子そろって口を開けているが、これはきっと暑いせいだろう。熱波の中、外気温は四十℃を超え、しかも、染め場の屋根は灼熱のトタン波板。おそらく直下の気温は五十℃をゆうに超えているだろう。この親鳥はたぶん雌だが、上からヒナを蔽って暑さから守っていると思われる。近寄っても逃げようとせず、なんという母の愛、あるいは人間への信頼!? しかし、身体を張って保温ならぬ保冷というのもインドらしくて面白い。(鳥の羽はもともと断熱材として進化したらしい)
 こういう過酷な場所に巣作りをするのも、ヘビやカラスなどの天敵から巣を守るためであろう。それに場所柄、巣の材料となる繊維素材も豊富だし。
 一番上の写真1が父親で、せっせと餌を運んでくる。このカマキリもその後、ヒナたちの口に入るのであった。そして雄が来ると、雌はさっと外に飛び出る。さもないと焼き鳥になってしまうだろう。

 さて、一昨日ご紹介した、kotiベスト新色「**グレー」。
 一枚水通しをして、仕上げをした。
 それが左の写真3。
 一昨日の写真と見比べるとわかるが、水を通すと表情がガラリと変わる。糸の配合と織り方の工夫により、肩の部分にギャザーが現れ、胸から下に流れていく。






 

5月26日(火) メヘンディで染める

 日本ではヘナあるいはヘンナという名で知られるが、最近はメヘンディでも通じるようになってきたようだ。
 メヘンディと言えば、インドでは花嫁の装飾として知られている。花嫁のみならず、婚礼に出席する女たちはみなこのメヘンディで手を飾る。手軽な「タトゥー」として日本でも流行ってきたらしい。

 メヘンディの木は、北インドでもよく見かける。ザクロに似た小木で、小さな葉をつける。(ザクロとメヘンディはともに同じミソハギ科に属している)
 装飾に使うヘナペーストは、その葉を粉末にしたものだ。
 染色に使う時は、乾燥葉を街の薬種店から買ってくる。
 グレーが欲しい時に、このメヘンディを使うことが多い。

 豊富に手に入るから、たっぷり入れて煮出す。(左上写真)
 染液に絹糸を入れると、赤目の色に染着する。(左中写真)。メヘンディタトゥーと同じだ。
 それを鉄媒染して、グレーを出す。(左下写真)

 グレーが欲しい時には同科のザクロもよく用いるが、ザクロの場合は実の皮を使う。同じグレーでも色味が微妙に異なり、やや赤味がある。それで黒や暗灰色が欲しい時にはメヘンディとザクロを併用し、色合いを均すこともする。

 右下写真はついで染め。
 あまりの暑さに、ルンギ(腰巻)しか着用できなくなった私ぱるば。
 替えが必要だったので、急遽、一枚縫ってもらう。
 生成のカディ木綿を筒型に縫製するだけだから、たちまち仕上がる。
 ただ、薄手の白生地だから透過性が高く、あまり扇情的になっても困るので、メヘンディでグレーに染めてもらったというわけ。
 なかなかシックな腰巻ができあがった。発注から納品までわずか二時間。染織縫製工房ならではの役得だ。

 ところで、メヘンディは白髪染めにもよく用いられる。ただ、赤味が強いので、最近はインド藍を併用して黒くすることもあるらしい。それで絶滅の危機に瀕していた南インドの天然藍が復活の兆しを見せているという話だ。
 
 メヘンディは新工房敷地にもたくさん植えて育てる予定で、既に苗も幾つか準備している。






 

5月27日(水) とある重要資材

 インドで最重要の建材は、じつにコレなのかもしれない。
 ラテライトだ。
 岩石の風化によってできた、鉄やアルミを含む、粒子の細かい赤土。
 インド全土にわたって存在する。
 このラテライトから煉瓦が焼かれ、床や壁土が作られる。

 全土にわたって存在するとは言え、掘ればどこにでもあるというわけではない。
 ganga工房でもときどき使うが、その赤土は10kmほど離れた河床から掘り出してくる。
 インド各地の村々でも、人々はそれぞれ近所の採取しやすい所からラテライトを入手し、家造りに有効利用している。

 昨日、そんなラテライトの採取現場を訪ねてみた。(上写真)
 場所はガンジス川の支流。干上がった河床を30〜40cmほど掘ると、ラテライトが現れる。
 小石や砂が混じらないよう気をつけながら採取する。

 そのカケラが中写真。
 やや水分を帯びて、軟らかめに凝固している。
 関東ローム層の赤土に似た感じだ。

 新工房の現場では、このラテライトを壁土に使う。主工房の西側土台部分だ。
 ただ、そのまま塗るわけではない。
 まず、ラテライトに水を加え、二日ほど置く。(下写真)
 その後、灯油やタール、麦のもみがら、そして牛糞を混ぜる。これらは壁土を強化するためだ。タールは粘着性を増し、もみがらや牛糞は日本で言うところのスサだ。牛糞には繊維分が豊富に含まれている。

 ただし、同じ牛でも、水牛の糞はイケないんだそうだ。
 インドの農村では牛も水牛も同様に飼われ、乳が利用されている。我々から見ると同じ牛なんだが、インド人にとっては同じ牛ではない。牛は聖獣だが、水牛はそうではない。だから同じような餌を食っているにもかかわらず、牛糞は良いが、水牛糞はイケないのだ。(推測するに、牛はアーリア人のインド進入に随伴した獣であり、水牛は亜大陸在来の獣だったのであろう。牛類のカースト制!?)

 その後、更に三日ほど寝かせて、煉瓦面の上に施すことになる。
 下写真、右側のニッチ部は、以前、試験的に塗布した同様の土壁。






 

5月28日(木) 熱波に生きる

 日本の新聞によると、インド南部や北部に熱波が襲来しているという。
 当地デラドン地区も北部なわけで、やはり熱波の中だ。この一週間ほどはとりわけ暑い。
 ただ、ここganga工房には、イマイチ切迫感がない。たぶん、北部の中心都市デリーに比べたら、やや涼しいせいだろう。スタッフの多くはデリーからの移住者なのだ。
 とは言え、「暑い?」と聞くと、みんな「暑い!」と答える。やはりインド人にとっても40℃超は暑いのだ。

 しかし、工房にエアコンはない。
 その代わり活躍するのは、扇風機と「クーラー」だ。
 クーラーというのはインド独特の冷却器。水冷式だ。(上写真)
 本体の上部に水タンクがあって、今、スタッフが給水している。箱の中には植物の繊維が巡らしてあって、その上にタンクから水がポタポタと落ちる。手前に大きな扇風機がついていて、風を送る。その空気が気化熱によって冷やされ、冷風が出てくるというわけ。特に今みたいに高温低湿の時期には威力を発揮する。この風の直撃を受けるとかなり涼しい。

 建築現場も工夫が必要だ。
 できるだけ直射日光を避けるよう、屋根のない所には、緑の遮光ネットを張る。
 ちょうど自転車のアイスクリーム屋が来たので、一休みしてみんなで食べている。(中写真)

 それから食べ物。インド食に多用されるスパイスも、身体を冷やす効果があるらしい。
 下写真は今朝の我が食卓。
 サンギータ(ラケッシュ姉)がパラタを焼いてくれた。簡単に言うと、チャパティの中にジャガイモカレーが入っていて、それをフライパンで焼いたものだ。
 インドに来て今日で丸三週間になるが、その間、三食ずっとインド食。我が身もかなりインド化していることだろう。
 果物も冷却効果が期待できそうだ。下写真手前はマンゴー。サフェダ種という色の明るいマンゴーだ。そのほか、パパイヤもバナナもウマい。
 サンギータの家にもエアコンは無いそうだ。それどころか、5年前まで暮らしていた灼熱デリーの家もエアコン無しだった。デリーは夜の最低気温が30℃を下回らないこともしばしばだ。それでどうやって寝たのかと聞くと、う〜ん、慣れですね、との答え。
 そういうわけで、郷に入りては何とやらで、私もインド人に倣って、インド飯を食いながら、今のところエアコン無しでなんとか暮らしている。慣れだね〜。(ま、高齢者はヤセガマン禁物なので、ほどほどにしないとけないんだが)





 

5月29日(金) 現場の若き建築家たち

 新工房プロジェクトの設計者は、スタジオ・ムンバイのビジョイ・ジェイン。しかし彼がずっと現場で陣頭指揮を執っているわけではない。スタジオの若い建築家たちがここリシケシに駐在して、様々な仕事を行っている。
 上写真がその現場事務所。屋根とネットが張られただけの簡単なものだが、電気が引かれ、Wi-Fiも繋がる。ここにそれぞれパソコンや図面を持ち込み、日曜も休日もなく、作業にあたる。
 今は人の入れ替え時期なので、三人の建築家が現場に日参している。

 下写真、真ん中がシュリジャヤ。二十代前半で、まだ学生なのだが、もう二年以上このプロジェクトに関わっている最古参だ。南インドのアンドラ・プラデシュ出身。祖父が高名な建築構造家、父親もIIT(インド工科大学)教授で構造の専門家、母親は染織デザイナーという氏素性。あまりにお嬢なので最初はどうなることかと案じたが、さすがに血は争えず、ビジョイのもとでしっかりアシスタントをこなしてきた。この六月からまた学校に復帰するので、現場最後の日々を過ごしている。
 右側が先月から加入したペティア。三十代前半のブルガリア人だ。イギリスで建築を学び、建築家としてロンドンで働いた後、インドに渡り、スタジオ・ムンバイの門を叩いたところ、この現場に派遣されたという次第。ブルガリア人というと琴欧洲くらいしか知らないが、それと同じぐらいパワフルな女丈夫である。プロジェクト終了までこの現場に携わる予定。
 そして左端の男子が、昨日加わったばかりのカルテック。おそらく三十代前半。南インド、バンガロール出身。かつてスタジオ・ムンバイのスタッフとして働いた後、辞して中東に渡り経験を積み、またインドに戻ってビジョイに連絡を取ったところ、この現場勤務を申し渡される。まだ力量は未知数だが、やはりプロジェクト終了までここで働く予定。

 というわけで、シュリジャヤありがとう、ペティア&カルテック最後までよろしく!






 

5月30日(土) 見慣れぬモノたち

 今日のランチタイム。
 見慣れないサブジ(インドの野菜料理)が出た。(上写真)
 なにこれ?と聞くと、チョーライだという。
 チョーライってなに?と聞くと、そこにいっぱい生えているという。
 そこで、外に出て、見せてもらった。

 たしかにいっぱい生えている。どう見ても雑草だ。
 以前から変だと思っていたのだ。畑一面に丈の高い雑草が堂々と繁茂していて、なぜ除草しないのか不思議だった。
 その草がチョーライだった。調べてみると「ヒユ」のようだ。
 ただ、自然に生えるから、雑草と見分けがつかない。それにどう見てもウマそうではない。乾燥に強いから、乾季のこの時期、他の草々を差し置いてぐんぐん伸びる。
 その葉が食用となる。葉を湯がいて、タマネギとスパイスで炒めて食べるのだ。いかにもビタミン・ミネラル類が豊富そう。かつては日本でも食べられたようだ。
 同じヒユ科のホウレン草と似た食感。あまりクセもなくタマネギの甘みとよく合う。
 なにより、そのへんに勝手に生えるというのが良い。雨季になると葉っぱが柔らかくなり、更に美味だという。
 まだまだインドには知らない食材があるものだ。チョーライのシーズンは4〜7月という一番暑い頃。あまりインドには来たくない時期だから知らなかったのかも。

 工房に見慣れぬ人影が…
 イスラム教徒であろうが、いかにも異様で、チト近寄りがたい雰囲気。(下写真)
 しかし、話してみると、けっこう気安い人々であった。人は見かけで判断すべからず。
 聞けば、下写真・真ん中の人物は、当工房の最初の機(はた)2台を作った大工であった。写真の機(織師はマンガル)も彼の作である。
 デリー在住で、今日はこちらに用事があって立ち寄る。
 右端のとりわけ異様なおじさんは、大工氏の友人で、織師だという。その異様さのモトは、紅いあご髭だ。これはヘナ(メヘンディ)で染めている。染めた後にまた白い髭が伸びているから、輪をかけて異様になる。ついでに頭髪もヘナで染めている。こうした白髭&白髪ヘナ染めは、インド男、特にイスラム教徒にときどき見られるファッションだ。よく見ると真ん中の大工氏も染めている。ヘナで染めると涼しくなるそうだが、髭染めも同じ理由なのであろうか?? (髭さえ剃ればわりかしフツウの顔なんだが…)

 というわけで、今回は、見慣れぬモノ二題。
 実は今日がこの度のインド滞在最終日だ。
 今、23:00。デリー空港で上海行きの飛行機を待っているところ。日本到着は明日の夜になる。




 

6月3日(水) 藍を植える

 帰国して三日目の今日。
 朝からの雨も午後には上がり、チャンス到来。
 藍の植え付けだ。

 5月2日、プランターに種を蒔き、留守中、毎日水遣りをしてもらった。
 一ヶ月たって、この通り。(左写真)
 やはり藍の芽生えは、水遣りが肝腎だ。
 ほとんど同時に畑にも播種したのだが、影もカタチもない。きっと乾燥していたのであろう、種はまだ土中で眠っているものと思われる。

 草ボウボウの畑だが、ま、一ヶ月放置しておいたので仕方あるまい。
 徐々に除草するとして、藍用に準備しておいた畝に植え付ける。
 密生していたので、やや徒長したモヤシっ子だ。さて、元気に育つか。

 ところで、前回の日誌でご紹介した「見慣れぬ野菜」チョーライ。
 ウチの畑にもいっぱい生えていた。雑草として。
 それで意気揚々と「収穫」して家に戻ったのだが、あえなくボツ。残念ながら食材として採用されなかった。
 無理もあるまい、大根とか、カブとか、小松菜とか、レタスとか、水菜とか、山ほどできているのだから。





 

6月13日(土) 結城を訪ねる

 紬の産地・結城。
 一番大きな紬問屋「奥順」の結城紬shop「澤屋」に弊スタジオの布が展示される。(上写真・右側の建物)
 この奥順さんとは新井淳一氏を通じて弊スタジオ青山店の頃からの御縁であるが、訪ねるのは今日が初めてだ。訪ねてビックリ。広い敷地に古い建物が軒を連ね、全体がまるで博物館かテーマパークのよう。その名も「つむぎの館」という総合施設。
 奥順は結城紬の製造卸問屋だ。すなわち、着物地の企画デザインを行い、それを機屋さんに織ってもらい、各地の着物問屋に卸す。
 幸運なことに、社長の奥澤さん(下写真・着物姿)にいろいろご説明いただく。
 結城紬については改めて申し述べる必要もあるまいが、私にとって面白かったのは、我が故郷・信州上田との繋がりだ。上田にも上田紬というのがある。かつて上田の技術が結城に行ったという話は聞いていたが、奥順の資料館にこんな記載があった — 17世紀初頭、信州上田から織工を招いて染色と柳條(しま)の織法を指導 — 。この頃は上田の方が先進地だったのかも。縞を「柳條」と書くのも風流だ。ところがその百年後の18世紀初頭に出た『和漢三才図会』には,「紬は常州結城に出るものを上とす。信州之に次ぐ」とある。この間に何らかの地殻変動があったようだ。
 結城紬の特徴は、まずその紬糸。真綿から紡ぐのだが、ほとんど撚りがかかっていない。かかっているにしても、指先1cmほどで撚るだけだ。ために、糸に空気がより多く含まれ、軽くて暖かい。(そのあたりはタッサーシルクのギッチャ糸に似ている)。その紬糸をタテにかける時には、米ではなく小麦の糊を使うという。
 また驚いたのは、地機の使用だ。結城近在にはまだ数百の地機が残っており、上等の反物は地機で織られる。高機も使われるが、地機製の布は触感がしっとりしているという。また後継者も育っているそうだ。後継者については糸作りの方が課題であるようで、これはどこの産地も同様であろう。地機の綜絖(そうこう)は糸。筬(おさ)は金属製であった。かつては竹製だったが、もはや筬職人がおらず、竹筬はお蔵入りとなる。さすがの結城も時代の流れには抗えないものがある。(上田にはおそらく地機も存在しないであろう)
 結城紬はもともと男物だったそうだが、たしかに伝統的な無地や細かい縞模様は非常に魅力的だ。これは実際にご覧になって頂きたいと思う。


 

6月15日(月) 繭が来た2015

 お隣の八王子・長田養蚕から春繭が届く。
 毎回ユニークな姿で登場するご主人の長田誠一氏であるが…今日はびっくり、リラックマ!! (写真左上)
 よく見ると、右手にもう一匹、小リラックマを抱えている。昨年八月に生まれた三男・昊弥(こうや)クンだ。(男児三人もいればひとりくらい養蚕を継いでくれるかも…)

 今年も昨年と同じく五月が高温であったけれども、天候が安定していたので去年より出来が良いという。ご覧の通り、立派な繭だ。(写真左下)。十日ほど前、結繭したそうだ。
 長田養蚕からは、毎年、10kg分けてもらっている。今年は出来が良かったので、2kgおまけで計12kg。座敷は繭でいっぱいだ。出社したスタッフみんなで、繭の仕分けとケバ取りをする。(写真右)。右端は赤子をあやす誠一氏。その左は嫁の晶さん。
 これからまた糸挽きの日々が始まる。





 

6月18日(木) 塩蔵

 月曜に届いた春繭。
 本来であればさっそく生で糸を挽(ひ)くのであるが、今年はあいにく真木千秋含め三名がインド滞在中で人手が足りない。
 そこで久しぶりに塩で繭を保存する。すなわち塩蔵。
 これは五年ほど前、前橋の呉服屋さん「にしお」で教えてもらった方法だ。
 通常、繭は、乾燥処理をして乾繭(かんけん)として保存し、随時、糸を挽く。
 Makiの場合は、まず生で糸を挽き、余った繭は冷凍で保存する。しかし今回みたいに生では挽かず、しかも例年より繭が多いと、冷凍庫も満杯になってしまう。
 そこで塩蔵の出番と相成った。漬物用の甕に塩と繭を交互に入れ込む。
 塩蔵の方が乾繭より糸が柔らかめだという印象があったが、さて今年はどうなるか。




 

6月22日(月) カディ展:隠れたる逸品

 今週金曜から始まる手紡ぎ手織り木綿「カディ展」
 数あるカディ製品の中で私ぱるばが個人的に一番お世話になっているのが、これ、越中褌。
 超薄地なのだが、今では冬期でも常用している。
 褌歴十有余年、インド手織布を中心に様々な素材を身を以て人体実験してきたが、この極薄カディ褌はなかなか具合が良い。
 絹に比べると、耐久性や吸湿性に優れ、価格も安い。速乾性やサラサラ性はタッサーシルクに譲るが、そうした短所も極薄生地だと目立たない。折りたたむとカサばらないし、洗濯も簡単ですぐ乾くから、旅行にも最適だ。(ついでに金冷を旨とする男子には薄手の涼しさは貴重)
 最近、何より重宝しているのは、手拭い代わりに使えること。特に眼鏡拭きとして屈強だ。常に身辺にあるし、毎日洗濯して清潔、そして柔らかいから、カメラも含めレンズクリーニングにちょうど良い。
 今回のカディ展にも出品。大小二サイズで各2,800円(税別)。

 越中褌は身体を締めつけないので快適だ。
 最近静かなブームとなりつつある褌。この機会にデビューしてみてはいかが?


 

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