絲絲雑記帳

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0/「建設篇」


 

7月12日(火) itoito shop オープン!

 昨11日。真木千秋・ラケッシュ・スープリアの三名がインドに向かう。
 スープリアにとっては二年余に渉る日本滞在を終えての帰国だ。この年齢のインド女子には珍しい経歴だと思うが、いろいろ学ぶことがあったであろう。帰国は嬉しいかと聞くと、嬉しさ半分、悲しさ半分だとのこと。帰国後は、習得した日本語を生かし、ganga工房にて日印の橋渡し役として活躍が期待される。
 写真左上は、先日、スープリア二十歳の記念に着物を着付けし、近所の禅寺庭園にて撮影したもの。
 右側のラケッシュは、三週間後日本に戻り、「竹林の八月」(8/5-14)にて、また腕を振るう予定。

 さて、本日、itoito shopがオープン。
 と言っても、実店舗ではなく、ネットショップだ。
 アドレスもズバリ、www.itoitoshop.com
 弊スタジオ作品は手織であるゆえ、竹林shop各地の展示会取扱店で実際に手にとってもらうのが一番なのであるが、なかなかそうした機会もないという向きもあるであろう。
 そういう時にはちょっと立ち寄っていただきたい。
 今のところ、6種14点の品揃えであるが、徐々に増やして行きたいと算段しているところ。お買い得品なども出るかも!?

 




 

7月14日(木) 太陽の恵み

 人間、生活するにしても、布を作るにしても、できるだけ環境負荷はかけたくないものだ。
 とりわけインドは、電力不足が深刻。石油も輸入に頼っている。
 しかしながら、降り注ぐ太陽エネルギーは、日本よりずっと豊富。これを使わない手はない!

 というわけで、建設中の新工房では、いろいろ策を練っている。
 そのひとつが、コレ、太陽熱温水器。
 本日設置された。
 場所は敷地のいちばん上。斜面なので、土台を石組みで作る。
 高いところにあるから、工房にも、住居にも、給湯可能だ。

 布づくりには、湯が欠かせない。
 糸挽きにも、染色にも、湯通しや洗濯にも。
 もちろん、炊事やシャワーにも必要な「暮らしの宝」だ。
 さて、このインド製温水器、我々の期待に応えてくれるであろうか。


 

8月4日(木) 明日から「竹林8月のお楽しみ」

 盛夏の竹林。蝉しぐれの中、スタッフ総出でイベントの準備。
 明日5日から14日までの十日間、東京・武蔵五日市のMaki竹林スタジオで「竹林8月のお楽しみ」が開催される。

 左上写真は竹林shop内の様子。
 できたて新作ストールのほか、お買い得ストールお買い得の衣掘り出し物の服やストール絲絲絲絲絲絲、などいろいろ並ぶ。
 あ、それから、バスケタリー作家真木雅子(千秋の母)による新作カゴも

 竹林カフェでは、ラケッシュがランチ準備に余念がない。
 メニューは先月の「夏の布展」に続いて、南インド料理「マサラ・ドーサ」。
 米と豆を使ったクレープだ。右写真。
 写真の奥に四つ並んでいる小鉢がチャツネ。左から、コリアンダー、ピーナツ、タマリンド、ココナツ。
 弊カフェのドーサで一番の特色は、このチャツネと言っても過言ではあるまい。とにかく美味!! ドーサの中に入っているじゃがいもカレーや、中鉢のサンバルスープの陰に隠れがちだが、忘れずにぜひ味わってほしい。(私ぱるばなど、ジャガイモカレーは頼まず、もっぱらチャツネとサンバルスープでドーサを食べるくらい)
 左中写真はコリアンダーチャツネを作っているラケッシュ。ちなみに原材料のコリアンダー(香菜)は自家農園のもの。

 そしてもうひとつのカフェは、トコロカフェ。(左下写真)
 今回は9〜10日を除く八日間の出店だ。
 豆は「ねじまき雲」焙煎による、「トコロブレンド・サマー」バージョン。夏に合わせて苦味を利かせた一品だ。ストレート(温・冷)、カフェオレ(温・冷)。ストレートは、ビター、ノーマル、マイルドの三種がある。そのほか、リンゴジュース系の飲み物も。
 好評スイーツは、アイスクリーム四種、チーズケーキ三種、パウンドケーキ、スコーンといろいろ。
 写真手前は、今回初登場となるであろう、ビスコッティ。中に胡桃と大納言が入っている。硬くて、甘くなくて、香ばしくて、私ぱるばのお気に入りだ。

 というわけで、都会よりちょっとは涼しい武蔵五日市に、遠足がてらぜひどうぞ!!


 

8月19日(金) ギャラリーの内側 in August

 一昨日の17日、東京のMaki Textile Studioから、六名が大挙してインドに向かう。お盆休み後のせいか、インド航空機は(気の毒なほど)ガラガラ。おかげで、Maki一行は機内最後部の一角を占拠し、ほとんど慰安旅行みたいな気分でデリーまでの道中を楽しんだのであった。
 六名のうち半分はデリーからそのままganga工房へ。残りの半分は昨日・南インドのマンガルギリに日帰り出張し、本19日、ganga工房に到着したのであった。(このマンガルギリについては明日にでもご報告いたそう)

 私ぱるばにとってganga工房はほぼ二ヶ月ぶり。
 7月にはモンスーン(雨季)に入り、新工房の工事もかなり難渋する。
 そんな中で、いちばん進展を見せたひとつが、ギャラリーだ。(つまりいちばん遅れていたということ)
 上写真がそれ。石で床が敷かれて、だいぶギャラリーらしくなってきた。広角レンズで撮影したので遠近が強調されているが、おおよそ、竹林の母屋くらいの広さがあるという。一年前の様子がこちら。時間がかかるものだ。(ため息)

 今日は我々のほか、建築家のビジョイ・ジェインもムンバイからやってくる。
 下写真は、夕刻、現場事務所(カフェテリア)でギャラリーの内装について検討する面々。左から現場駐在の建築家ラクラン(スコットランド人)、ビジョイ、真木千秋、大村恭子。
 布展示の仕方とか、試着室とか、いろいろ話し合っている。ラクラン君は非常に器用な人で、建築家でありながら木工も大好き。手前にあるカゴの中には、彼の手になるギャラリー調度の巧みな模型がいろいろ入っている。

 そのうち熱帯性のスコールが襲来。ぐっと涼しくなる現場であった。


 

8月20日(土) インド伝統の壁塗り

 昨日ご紹介したギャラリーと並んで、最も工事の遅れていたのが製織工房の第二棟。
 中庭を囲んで四つ並ぶ織成棟の中でも核となるのが、この第二棟だ。真木千秋のデザイン室などが入る。メインであるがゆえに工事も最後になったということもある。

 その壁面はかなり伝統的な作りだ。
 竹で枠を作り、灌木であるランタナ(七変化)をびっしり並べて壁材とする。
 その表面に施すのが、非常にインド的な塗装材。牛糞+土だ。(上写真)
 牛糞は繊維分に富んでいるので、優秀なスサ(つなぎ)となる。
 作業員が手で丹念に塗り込んでいる。泥遊びの大好きな真木千秋も途中から参加。

 これら構造は建築家ビジョイの強い希望によるもので、ごくありふれた素材で強靱なものができるのだという。
 「手紡ぎ手織りの建築だ」と彼は言うが、さてどんな仕上がりになるのか。

 この第二棟の前には地機(じばた)も設置される。
 下写真はその位置を指示する真木千秋。
 中庭に屋根を張り出させ、穴を掘って機を据える。
 季節の良い時には快適な作業場となることであろう。


 

8月21日(日) ギャラリーの間仕切り

 ここ北インドは、現在、雨季の最中だ。
 だいたい毎日雨が降る。
 日本の梅雨とは違って、短時間にザーッと降る。雨が降ると気温がぐっと下がり、しのぎやすくなる。
 今日はまだ雨が降らない。最高気温は午後2時半の31.4℃。東京五日市の拙宅は本日33.4℃まで上がったから、ここインドの方が2℃ほど涼しかったということだ。ただし、最高気温時の湿度が84%だったから、不快指数はこちらのほうが上であろう。

 さて、ハコとしてはだいたい完成を見たギャラリー。
 二日前の写真でわかる通り、内部はガラーンとした広間である。
 何もなくて気持ち良いのだが、そのままで店舗として使うのは難しい。
 試着室やキャッシャーなど、仕切る必要がある。

 そこでまずは、布で間仕切りの実験。(左写真上下)
 藍色と生成の手織地だ。
 漆喰と石の空間によく映える。

 ただ、完成時には、あちこちに布が垂れることになるであろう。
 すると、間仕切りにも布というのは、紛らわしいかもしれない。

 建築家のビジョイは、屏風のような衝立を考えているようだ。
 四枚ほど連なったものだ。
 屏風と言ってもあまり和風なものは似合わないから、これもまた、竹など身近な素材を使って作るのであろう。

 そしてビジョイは、午後2時45分の便でムンバイに帰って行った。
 最近はここデラドンとムンバイの間に直行便が飛ぶようになった。
 便利なものである。
 まだ一日一往復だが、インドも日に日に変わっていく。


 

8月22日(月) 子連れでマンガルギリ

 これは四日前、8月18日の話。
 私ぱるばは、大村恭子&ヒトハとともに南インド、マンガルギリに赴く。

 マンガルギリと言えば、当スタジオに関係する皆さんならお聞き覚えがあるだろう。薄地の木綿手織り生地で、夏場にはまことに心地良い。
 インドの中でも常夏の南インドでは、伝統的に薄地木綿の生産が盛ん。著名な産地のひとつがマンガルギリだ。当スタジオでも長年愛用してきた。たとえば右下写真、暗緑褐色の細縞(ピンストライプ)生地など。(じつは私のシャツ)
 
 マンガルギリの町は、南インド、アーンドラ・プラデシュ州にある。首都デリーから飛行機で二時間少々。ヴィジャヤワダという都市の隣だ。
 私ぱるばがこの町を訪ねるのはこれで三度目。今回はMaki の縫製担当、大村恭子を初めて案内する。大村にはヒトハという六歳になる娘がいて、日本に置き去りにするのも忍びなく、一緒に連れて行く。六歳にして南印マンガルギリとはスゴい体験ではあるまいか。(果たして記憶に残るだろうか!?)

 マンガルギリの目抜き通りには、手織布を扱う店舗が軒を連ねる。(左上写真)。オレンジ色の衣を纏うのはヒンドゥー教のサドゥー(行者)。後で喜捨を迫られた。
 看板の丸っこい字は、ヒンディー語ではなく、アーンドラ・プラデシュ州の公用語、テルグ語だ。(南インドは州ごとに言語が違う)

 裏手の旧市街に入ると、狭い露地を挟み、あちこちで染織の作業が行われている。今に生きる織物の町だ。
 左中写真はチャルカ(糸巻き器)で、糸カセからヨコ糸を巻き取っている娘さん。当地では基本的に糸染めで機織りされるのだが、このような鮮やかな色を使った布も多々ある。(当スタジオにはおそらく登場しないが)
 左下写真は機場(はたば)。糸綜絖(いとそうこう)、竹筬(たけおさ)の地機(じばた)がたくさん並んでいる。こうした機で織られたマンガルギリの布は、柔らかくまたしっかりしている。来年六月の竹林shop「夏の布展」でご紹介の予定。

 たまたま知り合いのテキスタイルデザイナーが隣町の出身だったので、今回、いろいろお世話になった。最後に街外れのレストランでミールス(南インド定食)を御馳走になる。白飯に様々な野菜カレーやサンバルスープ、ラッサムスープをぶっかけて手でぐちゃぐちゃ食うんであるが、相変わらず激ウマであった。


 

8月24日(水) 扉を編む

 新工房の機場(はたば)は四棟あって、そのうち三棟ではもう操業が始まっている。
 真木千秋も今、大村恭子らとともに第3棟でタテ糸づくりに励んでいる。

 唯一建設中の第2棟の中で、今、職人たちが扉を編んでいる。
 扉は普通、木とかガラスや金属で作るものであろう。実際、他の機場の扉は木とガラスだ。
 ところがこの第2棟は変わっていて、壁と同じ構造で扉も作る。
 竹で枠を組み、ランタナ材を編み込む。
 ランタナとは、このあたりにやたらに生えている灌木だ。材料費がタダなのは良い。それにしっかりしている。
 上写真は七人がかりで扉を作る職人たち。長さや太さを勘案しながらランタナを編み込んでいる。

 編まれた扉は、下部に牛糞+土を施され、工房壁の戸口に取り付けられる。
 下写真が今日の第2棟。右端に扉が一枚見える。あと2〜3日したら戸口に嵌め込む予定。
 


 

8月25日(水) モンスーンの風景

 日本は台風が相次いで上陸し、おかげで関東地方の取水制限も解除されたらしい。
 こちらインドも雨季。英語では「モンスーン」と呼ばれている。
 日本の梅雨も同じだが、インドは広いから場所によって時期は異なる。
 ここヒマラヤの麓、リシケシ地区は、だいたい六月下旬から九月下旬の三ヶ月間だ。

 八月下旬は雨季も終盤で、三日に二度ほど雨が降る。
 通常は上写真のように晴れているか、曇りだ。
 晴れているとかなり暑い。今日も34℃まで上がった。

 上写真中央の建物はギャラリー。外側はすっかり出来上がっている。
 屋根は白大理石で、それを通して淡い光が入る。下部の出窓にも白大理石が嵌め込まれている。
 脇の木陰でラケッシュ君らスタッフが何やら会議をしている。木陰は涼しくて気持ち良い。
 空は日本の八月のようだ。

 遠くで雷鳴が聞こえ、やがて空が暗くなって、雨が降り出す。
 雨足は急速に強まり、見事な豪雨となる。いわゆるスコールだ。
 下写真は三日前の様子。
 ギャラリー屋根の吐水口からダイナミックに雨水が吹き出る。建築家ビジョイはきっとこの効果を求めてデザインしたのだろう。見たい人はこの時期に来ること。
 この日は二時間ほども雨が降ったか。その間、7℃くらい気温が下降し、夜間は肌寒いほどに。

 やはり日本と同じく、雨季にあわせて稲作が行われる。
 ただ、周囲の田んぼでは、晩稲なのか、まだ穂は出ていないようだ。
 


 

8月27日(土) たそがれの機場

 インド時間というものがある。
 なかなか時間が遵守されないのだ。
 ただ、当工房の終業に関する限り、時間は超絶的に遵守される。
 午後6時が定刻なのだが、6時01分には工房が見事に空になる。インド人というのは手際がこんなに良かったかと改めて感心する。

 だ〜れも居なくなった午後6時過ぎの機場(はたば)第4棟。
 夕べのしじまの中で粛々と仕事に励む三名。(上写真)。左から松浦菜穂、真木千秋、スープリア。

 このスープリア嬢を憶えておられようか。つい先日まで五日市のMaki Textile Studioに居た人である。ラケッシュ君の妹(20歳)。二年に渉り当スタジオで研鑽を積み、七月初めに帰国したのだ。
 今ではすっかりこちらの工房に溶け込んでいる。日英印の三カ国語に通じるので、極めて便利。日印間の連絡役として今後の活躍が期待されるところである。
 インドに帰国してどんな感じ?と聞くと、「楽しい」とのことであった。

 この三人が何をしていたかというと、ストールのヨコ糸設計だ。
 今、織師サジャッドの機(はた)に、黄色系のタテ糸がかかっている。
 そのタテ糸に様々なヨコ糸を入れて、まずはサンプルを作る。上写真、真木千秋の回りに見える数枚のストールは、そのサンプルだ。それぞれヨコ糸のデザインが異なっている。それを見ながら、本製作のヨコ糸を考えるのだ。

 下写真は今朝、出勤してきた織師サジャッドにヨコ糸の指示を行う真木千秋。
 それに従って本製作にかかるサジャッドである。



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8月29日(月) 藍畑の傍らで

 朝、いつになく真木千秋が張り切っている。
 全身真っ青に固め、新工房に出動だ。
 今日は藍染めの日。
 藍染めと言っても、スタンダードな「灰汁発酵染め」ではなく、「半発酵染め」だ。

 新工房の敷地内には藍の畑がある。百坪ほどのその藍畑には、南インド・タミルナドゥ州と沖縄西表島から導入したインド藍が育っている。
 現在インド国内では、インド藍は南部で細々と栽培されているだけだ。北部ではほとんどまったく見かけない。しかしながら、「インド藍」と呼ばれるだけあって、ここ北インドでもよく育つ。草ではなくマメ科の灌木だから、畑は小さな森林のようだ。
 左写真1の背景がその藍畑の一部。この部分は今月初めに一度、根本の近くから刈り取って、藍染めに使用している。その後の雨と高温で再び枝葉が繁茂し、今季もう一度刈り取って使えるであろう。
 ちなみに、日本の藍草はタデ科の草本(一年草)。多年生であるインド藍とはだいぶ趣が異なる。

 さて、本日の「半発酵染め」というのは、かなりユニークな藍染めだ。おそらく発祥は西表・紅露工房で、これは藍含有量の多いインド藍ならではの染め方であろう。
 毎年夏には五日市・竹林工房でもタデ藍の生葉染めを行う。それに倣って当地でもインド藍生葉染めを試してみたが、あまり染まらない。
 そこで始めたのが、この半発酵藍染め。これは言うなれば、インド藍製造の第一段階で染色する手法だ。

 前日にインド藍の枝葉を刈り取り、ヒタヒタの水に浸けておく。
 8月の北インドはだいたい熱帯夜(最低気温が25℃以上)なので、一昼夜おくと藍葉が発酵し、色素が溶出する。右写真が一夜明けた今朝の様子。水面に藍の色素が析出している。
 特有の臭気の中、枝葉を絞って取り出す。溶液は薄青緑色。その中で常温のまま布や糸を染める。

 この染色法の長所は、まず色落ちの少ないこと。定着率はスタンダードな灰汁発酵染めを上回るであろう。インド藍をふんだんに使えることもあって、タデ藍生葉染めに比べ、かなり濃色の藍色が染まる。
 また、石灰などアルカリを使わないので、ウールなどの蛋白質を傷めることがない。

 左写真1の容器の中に藍の溶液が入っている。
 真木千秋とスープリアが絹布を染めている。

 写真2は藍溶液から出した直後の絹布。
 まだ色は淡い。
 空気に当てることによって酸化し、徐々に藍の色が濃くなる。

 写真3。絹布から始まって、いろいろ染める。
 いちばん手前はウールの「ケープベスト」。その後ろにパシミナ糸。
 松浦菜穂の右手が絹布で、当初よりだいぶ濃色になっている。
 松浦の上に架かっているのは、同じケープベストの裾だけを藍染めしたもの。これは全体を藍染めするよりチト難しい。
 ちなみに、赤系の糸は、絹をインド茜で染めたもの。
 写真4は、ケープベスト裾のクローズアップ。毛管現象で上昇する色素が、繁茂する藍畑のようだ。

 藍染めを始めた頃は雲間から陽も出て暑かったが、昼ごろから雷雨が襲来。すっかり涼しくなる。風も出て、ちょっと寒いくらい。
 雨は三日ぶりだ。間隔が空いてきたということは、雨季も終わりに近いということか。
 


 

8月30日(火) 沙羅単樹

 沙羅と呼ばれる木がある。
 仏陀涅槃の場所に二本生えていたので、沙羅双樹。
 ヒンディー語の英語表記ではSal。「サル」と発音される。

 この木は我々にも縁が深い。
 タッサーシルクの代表的な食樹がこの沙羅だ。
 また、ganga工房の機(はた)や整経機もこの木で作られる。
 更に、竹林イベントの際に出す葉っぱの皿も、この沙羅の葉だ。

 今日はみんなで州都デラドンに出かける。
 目的は材木屋。
 ギャラリーの調度を作るのだ。
 そこで見つけたのが、上写真、いちばん下の太い材だ。ターバンを巻いた材木商からいろいろ説明を受ける。
 樹齢百年という沙羅の木。いちばん下部で直径60cm、長さは7メートル弱。
 二年前に伐られたという、地元ウッタラカンド州中部ラムナガールの産だ。
 このような大きな材はここ州都にもなかなかないという。材も一等材だそうだ。(一等から三等まである)。もちろん正規伐採材。
 建築家ビジョイにも電話で確認し、この一本を丸々購入することに。(邦貨で約20万。高い!?)
 いちばん幅広の中心材を二枚使って長いテーブルを作るという。沙羅材7メートルのテーブルか…。どんなモノになるのだろう。
 それから展示棚なども作る。

 ここウッタラカンド州には沙羅の森が広がっている。
 工房の近所は国立公園だが、いちばん目立つのがこの沙羅の木。
 地面からスッと伸び上がり、高所に枝葉を広げる。そんなところにタッサーシルクが繭を結んでも、採取はなかなか大変だろう。
 下写真は、州都からの帰り、国立公園を貫くハイウェイ。道の脇に見える黒褐色の幹、背の高い木々が沙羅だ。
 
 そのほか、キャビネットなどには、同州北部の高地に生えるヒマラヤ杉を使うようだ。材には芳香があり、虫害にも強いという。
 こうした地元の材でどんな調度ができるのか、楽しみなことだ。
 





 

8月31日(水) 風船チャパティ

 今、臨時の建築事務所になっているのが、新工房付属のカフェである。
 ここにスタジオムンバイの若手建築家2〜3人が常駐している。(上写真)
 テーブルと電源があるので、私ぱるばもだいたいここに居る。
 前後に壁のない開放的なスペースで、向こう側に見える緑の山野が気持ち良い。

 そもそもがカフェであるから、調理室やパントリーも完備している。
 雨があまりに激しい時は、風に乗ってしぶきが舞うから、私もパソコンを抱えてパントリーに避難する。(今がちょうどその状態。パントリーは写真向かって右奥)

 調理室ではシェフのマニッシュが昼食の支度をしている。
 写真下は、チャパティを焼くマニッシュ君。
 チャパティの作り方だが、こねた小麦粉を薄く煎餅状に伸ばし、表裏を鉄板で焼いた後、直火に載っけてプッと膨らます。そこが面白いところだ。写真のように首尾良く膨らんだやつを、風船チャパティと言う。これが望ましいチャパティ像だ。

 このマニッシュ君、先月、当カフェのシェフに就任。
 もともと近所の村の住人だが、遠方のレストランで働いていたところを、自身シェフであるラケッシュがスカウトしてきた。
 ムンバイ仕込みの本格派で、そのウデはラケッシュ君にも劣るまい。
 風船チャパティは家庭料理だが、もちろん、タンドール(炭火竈)チャパティもお手の物。前の職場ではシーズンになると毎日、小麦粉35kg分ものチャパティを焼いていたという。枚数にして七〜八百枚というから大層なものだ。35kgが懐かしいかと聞くと、いや15kgくらいで結構と言う。
 今は我々しか居ないから、お抱えシェフ状態で、贅沢なことである。15kgの小麦粉といったらチャパティ三百枚は焼けるだろうから、我々としてもお客さんを呼んでこないといけない。


 

9月1日(木) グドリの到来

 水場の前に、竹製の物干し場がある。
 今日はそこがいつになくカラフル。

 遠くベンガルの僻村からグドリが届いたのだ。その数十七枚。
 刺子のマットだ。
 刺したのはサジャッドなど織師の妻たち。

 織師サジャッドの村は、インド東部のベンガル地方にある。
 その村の婦人たちは、家事の合間に、ひたすらチクチク布を刺す。
 なかなか手慣れたものだ。
 それで真木千秋が、木綿カディの布と木綿糸を選んで村に送り、主婦たちに刺してもらっている。

 右写真は、昨秋、我々がベンガルのサジャッド家に赴いた折のもの。
 奥さんのカディジャ(右端)に、真木千秋がグドリの注文書を書いている。
 左端が織師サジャッド。
 背中は通訳として同行した染師ディネッシュ。

 左下写真は、そのディネッシュ君。水場の責任者である。自ら赴いた場所でもあるので、はるばる遠くから到着した作に、感慨もひとしおであろう。手にしているのは今回サンプル製作したミニサイズ。

 これらグドリはさっそく日本に送られ、今月21日からの梅田阪急展示会にお目見えの予定だ。





 

9月3日(土) 工房窓の内外

 左上写真は、機場(はたば)の第三棟。
 中庭に面した窓だ。
 これは二週間ほど前の様子。
 窓枠の塗装だ。
 藍色に塗っている。ちゃんと養生テープを貼って作業にあたるというのは、当然のことながら日本と同じだ。
 この藍色はインド藍。
 染織工房にふさわしいということもあって採用された色調だ。
 工房の窓や扉の木部はみなこの色に塗られている。

 下写真はその十日後。
 上で塗られている部分のちょうど内側、窓から入る明るい光の中で作業に勤しむ人々。
 機場と言っても、機だけが入っているわけではない。布づくりにまつわるいろんな仕事が行われている。

 この場所は「仕上げ隊」の陣地だ。
 大理石のテーブルの上に、織り上がった布を広げ、検品や仕上げ作業をする。
 仕上げというのは、たとえばフリンジを整え、小分けに結ぶといった、細かく根気の要る作業だ。
 隊長はサンギータ姉。(ラケッシュ君の手前)。以下、手先の器用な婦人たちが4〜5人、この作業に携わっている。みんなカラフルなパンジャビ姿だ。
 Makiの店頭に並ぶ布々は、みなこの人たちの目と手を通じてやってくる。





 

9月4日(日) 雨の日曜日

 今日はインドも日曜日。
 ラケッシュ君は朝から車を駆ってしばしの逢瀬。
 しかし真木千秋は助手のスープリア嬢を伴い、新工房に出勤である。

 工房では日曜の今日、通常の半分くらいの人々が働いている。だいたいがイスラム教徒だ。
 織師や建築職人の半分はイスラム教徒。彼らにとって日曜は特別な日ではないし、もうじきイード(大祭)で帰郷するので、今はせっせと働かねばならない。

 9月に入り、日本もそうであろうが、こちらも割合しのぎやすい気候になってきた。日中の最高気温は30℃くらい。
 しかし、まだ雨季の最中。今日も3時ごろ、ザーッと驟雨がやってくる。
 こうなると建築職人も屋外作業からは撤退だ。
 上写真の白い点々。手前のデカいのは屋根からの雨だれだが、それ以外の小さいのは雨滴。クリック拡大してみるとわかるが、かなり派手である。こういうのがここのところ毎日ある。
 一時間ほど降って、気温も3℃ばかり下がる。

 機場では真木千秋がタテ糸づくりに励んでいる。(下写真)
 「変わり細格子」というストールだ。
 新しい機軸も加わり、さてどんな仕上がりになるのか。
 インド茜で染めた赤が基調。
 じつはこれ、今月末から始まる銀座松屋展示会用の作である。
 なに、今ごろ?
 そう、じつに今ごろなのだ。
 いつもそんな感じ。インド(Maki)の辞書に不可能の文字はない。





 

9月5日(月) ganga工房の真田丸

 工房の本丸とも言うべき機場第二棟。(上写真)
 四棟ある機場(はたば)の中でも唯一未完成だ。建築家ビジョイの思い入れも大きく、ただいま絶賛工事中。
 その未完の機場に、何やら出丸のようなものが築かれている。
 さっそく探ってみよう。

 第二棟、軒下で、男がひとり、穴を掘っている。(下写真)
 その上方には、竹で軒の張り出しが…
 じつはここに、地機(じばた)が設けられるのだ。

 工房のスタッフに、遊牧民出身の夫婦がいる。
 マンガルとバギラティだ。
 ヒマラヤ山中の羊飼い村の出身で、ウールのことはAからZまで知っている。
 遊牧民は移動しながら機も織るので、この二人は地機の技も持ち合わせている。
 地機で織る布はひと味違うので、新工房にも是非ひとつ欲しい。

 第二棟は土床にするので、当初、その内部に地機を設ける予定だった。
 ところが、工房の移動を進めるうちに、だんだん場所が無くなってきた。
 それで出丸になったというわけ。
 そもそも遊牧民の地機は、移動中の野営地に営まれたりするものだから、開放的な出丸は臨場感がある。
 もうじきNHKの大河にも出現するであろう、大阪城の真田丸みたいなもん!?



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9月6日(火) 泥藍を作る

 今年は新工房でインド藍を育て初めて二年目。
 木藍とも呼ばれる灌木なので、二年目ともなると木も育ち、藍葉も豊作。
 そこで、8月29日の日誌にもあるごとく、せっせと半発酵染めに励んでいる。

 しかし、それでも使い切れない。ぼやぼやしていると花が咲いてしまう。
 ということで、泥藍の作製を始める。
 泥藍を作っておけば、保存が利いて、好きな時に染めることができる。また半発酵染めとは異なる濃色が染まる。

 その工程は基本的に南インドのインド藍製造と同じだ。
 昨日、藍草を刈り取り、一晩水に漬けておく。
 一昼夜経って、藍葉が発酵してヌルヌルしてきたら、枝ごと両手で絞る。(左写真1)。絞る頃合を見定めるのが難しいところだ。早すぎると色が出ないし、遅すぎると次の撹拌作業に障害が出る。

 そうして絞った藍溶液に適宜、石灰を加える。(左写真2。このあたりが南インドの藍製造と違うところで、あちらでは石灰を使っていないようだった)

 そしてその溶液を撹拌し、酸化する。具体的には、容器で汲み上げ、上から落とす。
 その作業をひたすら続ける。
 写真3は撹拌開始時の様子。溶液は薄緑色だ。脇で真木千秋が、駆け寄ってきた仔犬を抱き上げている。
 南インドの製藍所ではこの作業を、足踏み式の攪拌機で行っていた。
 背景は藍畑。スコールの直後で、周囲は潤っている。

 この撹拌作業を始めると、溶液が白い泡でいっぱいになる。
 藍の色素はもともと藍葉の中に溶けた状態で存在するが、空気中の酸素と結合することで不溶性となり藍色を呈する。
 写真4は撹拌作業を始めて15分後。だいぶ青くなってきた。
 ひとりでやると疲れるから、5人がかりで代わりばんこにやっている。

 右写真が一時間ほど撹拌した状態。
 濃青褐色というような色か。写真3と比較すれば、その変容に驚くばかりだ。
 藍色素ばかりでなくその他の要素も酸化して、このような色になったのであろう。
 だいぶ泡がなくなってきたことが、写真からもうかがえるであろう。泡が消失すると酸化も完了だ。この辺で撹拌作業も終わりになる。
 このまま放置しておくと、30分ほどで藍が沈殿し、泥藍の状態となる。
 いずれそれもお目にかけよう。

 

 





 

9月7日(水) 茜色の田園ストール

 昨日の絲絲ブログにも紹介されていたストール「パストラル」。
 これを織っているのは、ちょっと特殊な機(はた)、ジャカード機だ。
 ジャカードとは奇妙な名前だが、フランス人のJaquard氏が作ったので、その英語読みが通用している。
 ジャガードとか言う人もいるが、これは豹紋からの連想か!? (なんと上記ブログでもジャガードになっている)

 紋織り機だ。上写真でご覧の通り、背が高い。
 工房の高さも、この機を収容できるサイズで設計されている。
 工房にはこの機が二台ある。(写真奥と手前)
 先月第一週にこの二台を旧工房から移動して、 機の引っ越しは完了する。
 現在はすべての織師が、こちら新工房で機織りに励んでいる。

 上部に箱があって、そこに紋紙がセットされる。
 その紋紙を通じてヨコ糸が制御され、入り組んだ紋様を織ることができる。
 今、機にかかっているのが、先にも述べたパストラル。今回は茜色がベースだ。
 様々な大きさの矩形が散りばめられている。これはジャカード機ならではの織物だ。(下写真)
 なんだか上空から見た田園風景を思わせるので、パストラル。
 「田園交響楽」にちなんだ命名だ。

 織師も二人居る。アスラムとアフジャルの兄弟だ。近在にはジャカードの織師が居ないので、隣州ウッタルプラデシュから働きに来ている。
 写真の織師は兄のアスラム。織成ばかりでなく、紋紙づくりもできるという、得がたいジャカードのスペシャリストだ。
 ただ、この兄の場合、ちょっと問題もある。いったん帰郷するとなかなか戻って来ないのだ。一応は帰還日を約束するのだが、守られたためしがない。もうこれきりか諦めていると、そのうち戻って来るという、まことに予測不能な性向。これが雇用関係の緩いインドで仕事をするということなのであろう。来月4日から15日間帰郷だというが、はたしてちゃんと帰って来るか。せめてそれまでの間、しっかり茜色の田園ストールを織ってほしいものだ。





 

9月8日(木) 社食の竹屋根

 工房では、いろいろな人々が働いている。
 織師、染師、糸車係、仕上げ係、農夫、掃除人、用務員、番人…etc..
 そうした人々の食事場所も必要だ。
 通常、インドの機場(はたば)では、織工たちは機の下で昼食を食べることが多い。しかし、清潔を旨とする当工房では、それはイケない。

 「社員食堂」は、じつは最初から計画の中にあった。
 そして、実際に作られた。8月31日の本頁に出てくるカフェだ。
 ところが、出来上がってみると、その佇まいや立地から、来客用のカフェにしよう、ということになってしまった。そのためのシェフも今訓練中である。

 それゆえ、別に社食が必要になったというわけ。
 幸い、ベンガルから来た建築職人たちの手も空いている。
 そこでビジョイ始め建築家たちが新たに設計し、こしらえたというわけ。
 下部は煉瓦と漆喰、上部は竹だ。
 上写真は一昨日。竹で屋根を作っているところ。
 彼ら職人たちはイスラム大祭に合わせ今夜出立するので、ここ2〜3日は夜遅くまで働いていた。(もちろん残業がつく)
 さすがに帰郷目前となると能率も上がるようで、今朝には下写真のごとくすっかり出来上がっていた。なかなか美しい竹屋根ではないか。

 もちろん、これだけでは雨季のスコールには耐えられない。
 ビジョイとしてはホントは草葺きにしたいようだが、そうすると日本の藁葺きみたいな大仕事になってしまう。
 日除けだけならこの竹屋根でも充分だ。これで壁を塗り、床を整えれば、降雨時でない限り、食堂として使える。
 もうじき雨季も終わることだし、しばらくはこの竹屋根を楽しむか。(ビジョイはフロアランプもつけて竹屋根を照射しようなどと企んでいるらしい)
 ベンガルの職人たちも午前中で仕事を終え、今ごろは遠い故郷に向け出立の準備に勤しんでいることであろう。(汽車で36時間の道のりだそう)






 

9月9日(金) 麗しき連帯

 水場の前が賑やかだ。
 いろんな色や素材が垂れ下がっている。

 その中でいちばん珍しいのが、上写真の淡紅色。
 これはラック染めだ。ラック貝殻虫はこの辺では産せず、アッサム州など北東インドから入手する。
 珍しいというのは、この繊維素材「ビマル」。ヒマラヤ地方の農村でよく使われる樹木の繊維だ。日本語で何なのか不明だが、おそらくシナノキに近い種類であろう。樹皮を剥いで、2〜3ヶ月水に漬け、繊維を取る。ヒマラヤ山中の村人たちにやってもらった。
 村々ではこのビマルからロープを綯(な)って使う。それを真木千秋がどこまで細く強く綯えるか研究し、現在のような細さの紐を作る。色も村々では生成のまま使うが、当工房で先染めを工夫する。
 これは建築家ビジョイからの注文だ。ビマルの紐を綯って欲しいという。何やら、チャーパイ(インド式ベッド)を作って、展示に使うらしい。ピンクが良い!と言うので、高価なラックで染めてみた。そのほか、ヘナでグレーに染めた紐も依頼される。
 こっちも本業に忙しくてなかなか手が回らないのだが、よっぽど欲しいらしく、しきりに連絡が来る。ま、お互い助け合いだ。

 下写真の三色は、自前の染料で染めた糸。
 左端が、8月29日の本頁でもご紹介した、インド藍半発酵染め。
 黄色は、インド夜香木の花で染めたもの。
 緑は、夜香木+インド藍。植物染料で直接緑を染めるものは無い。葉緑素は繊維に染着しないのだ。(染着しても色褪せるだろう)。よって、緑を出すには、通常、黄色で下染めして、藍をかける。緑は二度手間なのだ。でも布になった時の価格は同じ。よって、緑のストールはおトク(!?)。
 糸はいずれもパシミナと、一部ウール。


 

9月10日(土) カーペンターズ
 
 工事も大詰めにさしかかり、今、作業の中心は、木工だ。
 扉とか、家具調度とか。
 その作業にあたる人々は、ここでは「カーペンターズ」と呼ばれている。カーペンターズと言えば、私なんぞはアメリカの兄妹ポップスコンビを思い出すんだが、チト古いか!?
 そのおかげで覚えた英単語「カーペンター」、英和辞典で引くと「大工」。でも当現場のカーペンターはちょっと違う。さしずめ指物師であろうか。
 ちなみに、木で家を作る日本と違って、インドの家は煉瓦や石で作られる。それゆえ、こちらでは大工は石工なのだ。

 そんな指物師のひとりに、チャンドラモハンが居る。
 この人は当日誌にも時々登場するので、覚えておられる方も居るだろう。
 隣村マンジュリ村の住人で、ganga工房とは創設以来のつきあいだ。工房関係のいろいろな木造品を手懸けている。
 特筆すべきは織機。この人に作ってもらった機(はた)は、もう十を数えるだろう。タテ糸を巻く大きな整経機も彼の作だ。
 マンジュリ村の自宅に作業場を構えているが、最近は毎日、バイクで当現場に通って来る。

 今、彼の携わっているのは、糸棚の試作だ。
 工房内で織り糸を保管する棚である。
 壁にくくりつけられ、表にはガラス張りの引き戸が付く。
 上写真の左側、ノミを使っているのが、チャンドラモハン。
 材は、先日州都デラドンの材木屋で買ってきたチーク材。チークの木は当敷地内にも生えているくらいの地元材だ。
 中写真は引き戸の金具を嵌め込んでいるチャンドラモハン。

 下写真は最初の試作品。(上写真のチーク製の前に作られた香椿toona製)
 工房内に置いて、糸を入れてみたところ。
 実際には床から数十センチ浮かせて、壁にくくりつける。裏側は何もなく、壁がそのまま見える。(試作品とは言え、これは実際に使われる)
 糸棚は総計二十ほどは必要であろう。大きい糸カセもあるので、幅をもう少し拡げ、まずは十個ほど、この試作品に倣って製作することにする。

 現在、このチャンドラモハンを始め、十人ほどのカーペンターズが現場で働いている。そのうち六人はスタジオ・ムンバイからやってきた職人たちだ。彼らの仕事も、また折を見てご紹介しよう。


 

9月11日(日) 日曜日の機音(はたおと)

 9月二度目の日曜日。スープリア嬢は家族と州都デラドンに買い物、ラケッシュ君は聖都ハリドワールにお出かけ。どこにも行く所のない私ぱるばは、いつも通りインド国産SUVを駆ってデコボコ道を10km、新工房へ出勤するのであった。

 真木千秋も一昨日帰国の途に就いたし、織師サジャッドや建築職人などイスラム教徒たちも長期休暇でいそいそとクニに帰っていったし、工房はさぞや静かなことであろう。
 …と思いきや、それほどでもない。
 機音、槌音、こもごもに、二十人ほどの人々が仕事に励んでいる。

 そのうちのひとりが織師ママジ。ganga工房最古参の職人だ。
 なんか旧工房時代よりパリッとしてるなあ…と思って良く見ると、機が新しい。(上写真)

 そう言えば、6月に指物師チャンドラモハンがここで機を作っていた。下写真はそのときの様子。
 太い構造材は頑丈な沙羅、細目の構造は狂いの少ないチーク、可動部は軽い松材を使う。下写真の奥に写っているのがママジの古い機で、旧工房から持って来たもの。
 この新しい機は以前より一回り大きく、塗装も施して、八月に完成。以来、ママジの機として稼働している。
 使い心地はどうかと聞くと、「織りやすく、仕事がはかどる」とのこと。
 今、機にかかっているのは、グレーと藍の「折り返し織り」ウールストールだ。
 さて、新しい機の効用やいかに。




 

9月13日(火) 朝のクリスマスツリー
 
 先日帰国した真木千秋のメールに「日本の蝉の声が心地良い」という一節があった。とするとインドの蝉の声は心地悪いのか? いや、ここ北インドには、あまり蝉がいないのだ。新工房は周囲を田畑や森林に囲まれ緑豊かな立地なのだが、この夏、四週間弱の滞在中、蝉の声を聞いたのはわずか二日、それも合計二分間ほどであった。日本のハルゼミに似た歌声。一匹まちがえて紛れ込んだという感じだ。いくら暑くても、蝉時雨などというものは、絶えて無い。この蝉の非力が、日印間、夏の最大の相違点であろう。
 総じて当地の夏は虫が少ない印象だ。蝉に限らず、蝶や蜻蛉、蚊に至るまで。
 これは別に自然が乏しいということではあるまい。おそらく夏が長いからだろう。一月からエンドウ豆の花が咲くような土地柄だ。昆虫ものんびりしているのだろう。日本みたいに夏の訪れとともにドッと世間に繰り出す必要もないのだ。

 唯一、日本より派手なのが、ホタルだろう。
 五日市の拙宅近所もホタルの名所として知られるが、ピークはせいぜい二週間ほどか。
 こちらでは6月末からずっと見られる。サイズもデカい。源氏ボタルの二倍はあるだろう。
 習性も異なる。日本は小川の上を飛ぶが、こちらのホタルは立木と、その周囲。
 たとえば、写真の立木。ここには毎夜、二十ほどのホタル(あくまで推定)が留まり、あるいは飛び、明滅している。その様は、まるでクリスマスツリーだ。
 この木だけ特別というわけではない。クリスマスツリーなどいくらでもある。
 拙宅近所のホタル名所は交通整理も出るのに、こちらでは当たり前すぎて気に留める人もいない様子。
 この写真は自室のテラスから撮ったものだ。毎晩、夕食後、ティーカップを片手にこのクリスマスツリーを見物するのが日課のようになっている。
 朝見ると、田んぼの稲も穂を出し、隣家の主婦が畦の草を取っている。


 

9月14日(水) 渡河作戦

 インドは現在、いわゆる新興国群の中で随一の経済成長を誇っている。人口も伸長を続け、有望な市場なのであるが、日本企業はイマイチ進出をためらっているようだ。その大きな理由のひとつが、インフラの未整備。
 運輸、通信、エネルギー…すべてにおいて、現代社会とは思えないほど遅れている。
 …っていうのは、こっちの勝手な期待なんだが。
 だいたい、ヒマラヤの山裾みたい辺地を選ぶ方が悪い。
 現地政府も、進出企業のためにインフラの整った工業団地を用意しているようだ。おとなしくそういうところに入れば良いんだが…。ま、ありえない。
 写真は今朝の通勤風景。場所は新工房のすぐ手前。小川を渡るのだ。クルマで。
 これは四駆だからまだ楽しいが、建築家たちはスズキの軽で来るし、三輪車や二輪車で来る人々もいる。水がキレイなのは救われる。(飲めそうなくらい)
 雨季限定の一時的な小川なんだけれども、ここ3〜4日この状態。日本だったら橋を架けるでしょう。少なくとも土管を通すとか。
 ま、そういう国だから、我々も仕事ができる、ということもあるのだろう。(このあたりの機微がわかるだろうか)


 

9月17日(土) アラサー男子の群像

 新工房の建築現場事務所(ホントはカフェ)を見渡すと、そろって三十チョイ過ぎの男たちが勤労に励んでいる。

 中でも、いちばんご苦労なのは、左端の建築家・カルティックであろう。彼は昨年5月、主任建築家ビジョイ・ジェインの助手として当現場に配属される。
 マハラジャのようなビジョイの許で働くというのは、傍目に見ても超激務。そしてクライアントはまた妥協を許さぬ真木千秋である。私なんぞ三日ともつまいが、彼は持ち前の温順さで今まで持ちこたえ…いや立派に務めを果たしてきた。もうちょっとだ、ぐゎんばれ!!

 右端は7月に加入したばかりのスコットランド人建築家ラクラン。この人はカルティックに比べると割合マイペースで動く人で、仕事の進みも早い。なんと真木千秋の大学(米ロードアイランド造形大学)の後輩ということもあって、趣味の合う部分も多い。マイペース過ぎて一時馘首の危機もあったが辛くも乗り越え、得意の家具作りなど今後の期待も大きい。

 奥の調理場に居るのは、おなじみラケッシュ(右)とコックのマニッシュ(左)。今、ラケッシュがマニッシュに南インド料理ドーサの調理法を伝授しているところ。マニッシュなど北インドの料理人は南インド料理を知らないことが多い。それで私ぱるばの要望もあって、ドーサ作りに挑戦しているところ。来週、今度はひとりで作ることになっているので、上手にできたらまたご紹介しよう。




 

9月18日(日) 沙羅の到来
 
 日曜の昼下がり、大きなトレーラーに乗ってやってきた。
 二十日ほど前、州都デラドンの材木屋で購入した材だ。
 上記リンクをクリックするとわかるが、そのときは丸太の状態だった。
 それが材木屋の動力ノコギリで水平に切られ、本日納品されたというわけ。
 立派な沙羅材だ。厚さは6.3センチ。
 伐採後一年経過しているので、程良く乾燥している。
 長さは6メートル40センチほど。幅は一番広いところで約70センチ。
 あの大きな丸太が、七枚の板になってやってきた。
 十人掛かりで、一枚ずつ、ギャラリーに運び込む。試しに持ち上げてみたが、まあ微動するくらいだろうか。ひたぶるに重い。
 この七枚のうち、一番大きな二枚を使って、ギャラリーのメインテーブルができるらしい。

 もうじきギャラリーとなる石と漆喰の空間に、午後の陽を浴びてまどろむ沙羅の材。(写真左)
 思えば今はなきMaki青山店のメインテーブルは、中村好文氏の作であった。
 栗材の大テーブルは齢二十年を数え、今、五日市・竹林母屋の座敷に鎮座している。(知らなかった人は今度よく見ること)
 この沙羅の材が今度ビジョイ・ジェイン氏の手を通じ、どんな姿となって現れるか、楽しみなことだ。


 

9月20日(火) ソーラー・セレブレーション

 今日は私ぱるばのganga滞在最終日。雨季の終盤、虫刺症に悩まされながら一ヶ月以上現場に留まったのは、ひとつにはソーラー発電装置の稼働を見届けたかったからである。というのも、この構造物は私の権限が(少々)及ぶほとんど唯一の玩具(!?)なのだ。
 パリ協定も各国で批准されそうな情勢にあるし、地球環境の保全は喫緊の課題である。というわけで、当ganga新工房にもソーラーパネルを設置することになった。規模はとりあえず6kW。ま、たいしたことはないんだが。(ちなみに当スタジオの養沢アトリエでは五年ほど前から10kWのシステムが稼働している)
 手織工房だからそんなに電力は消費しないんだが、たとえば、ギャラリーなどがあると夏はエアコンが必要になるし、そのギャラリーも竹林shopより広い、となると6kWシステムではまるで役不足だろう。そしてインドは年の半分が夏なのだ…。
 ともあれ、何事もやってみないとわからない。いろいろ工夫して、できるだけ電力消費を抑えつつ、スタジオ活動を維持いたす所存である。
 そして、今日やっと、パネルが据え付けられる。(上写真)
 ただし、まだインバーターや充電池の設置が終わらないので、稼働は明日以降になる。
 というわけで、私の所期の目論見は脆くもついえたのであった。
 ま、インドというのは、そういうものか。

 そして今夜は、ソーラーパネル・セレブレーション。
 まだ発電もしないんだからそれほど目出度くないのだが、私の最終日だし。それにこれはあくまでも口実で、ホントのところは、働きづめの建築家たちを慰労してやろうとの魂胆である。
 そこで夕方近く、シェフのマニッシュがタンドールに火を入れる。使用するのは木炭なので、いちおう再生可能エネルギー。
 木炭は高価だし、手間もかかるので、タンドールに火を入れることは滅多にない。しかしながら、やはりこの炭火竈で焼くチャパティやチキンは格別である。さて建築家たち、目出度く慰労されて、明日への活力を新たにしてくれるであろうか!?


 

9月28日(水) 中国・杭州で展示会
 
 先週末の24日より、中国江南の古都・杭州で当スタジオの展示会が開かれている。
 そのオープニングに、真木千秋ともども杭州に赴く。
 場所は西湖の南、木立の中のギャラリー「壹向芸術空間」。

 展示会に先立つ23日、杭州市内の大学二箇所で、講座「織物之道」が開かれる。真木千秋と私ぱるばによるお話会だ。午前に中国美術学院、午後に杭州師範大学。どちらも同国の名門らしい。上写真は師範大学での講座の模様。参加者は若い人々が多く、おそらくは同校の美術デザイン系の学生たちであろう。みな熱心に聴き入っていた。一日に90分を二コマっていうのも大変かと思ったが、中国の若者相手に楽しいひとときであった。
 一昨年の北京展示会の折にも中央美術学院(日本の東京芸大に相当)で講座を開催したが、同国での展示会はこうした趣向が多い。う〜ん、当スタジオの活動って、はたして教育上好ましいのであろうか!?

 今回の展示会は、Makiの中国パートナーである失物招領(本店北京)のオーガナイズによるものだ。彼女らの力がないと、なかなかこういうこともできまい。展示会初日には、北京のオーナーや各地店長ら計六人も駆けつけて強力バックアップ。
 会場の壹向芸術空間(壹向は日本語読みするといっこう)には、その名の通り、芸術的な空間が幾つもある。展示の空間や飲食の空間や宿泊の空間…。庭なども含めた全体的な佇まいは、従来の中国のイメージを一変させるものがある。
 そもそもここ杭州には、アジア最大のアップルストアや中国No1ネット通販アリババの本拠などがあって、中国のシリコンバレーとも言われる所だ。先日G20が開催されたことも記憶に新しい。いはば同国の先端を切る街でもある。

 そんな空間に、Makiの布がよく映える。(中写真 — 壹向空間提供)
 今回の催事名は「織物之道·真木千秋作品展」。こちらにそれを紹介するHPがある。同HP内、上から二番目の写真のタイトルが「可愛的真木千秋老師」。つまり「可愛い真木千秋先生」っていうことか。真木老師がどのくらい可愛的かはご自身でお確かめあれ。ついでにその下の写真、タイトルは「新井先生&真木老師 北京講座中」とあるが、これは新井先生じゃなくて田中先生なんだけどね。

 下写真は、壹向空間の一番大きな部屋で開催した講座。
 同空間のお客さんたちや報道関係者が集まった。中国の人たちは反応がダイレクトで面白い。私はよく講座中にタッサーシルクの幼虫写真を見せる。体長7cmはある緑色の熟蚕を手の平に載せた写真だ。それを見せた時の歓声ボリュームが、日本人の10倍はある。大学でも壹向空間でも。見せ甲斐があるのだ。(もしかしたらこれは江南の特長なのかな。北京ではそれほどでもなかったような…)

 同空間での展示会は10月13日まで。その間、杭州を訪れる予定のある人は是非どうぞ。場所は西湖南畔から歩ける距離の、
 中国茶が美味しかった。杭州名物・龍井茶とか。




 

10月1日(土) 竹林shop10周年!!
 
 2006年の今日10月1日。東京五日市の竹林shopがオープン。
 この日は午後から雨であった。
 そして、今日、めでたく満十歳の誕生日。

 思えば、先代にあたるMaki青山店は、2006年4月20日、十周年のその当日、店を閉じたのであった。

 しかしながら、竹林shopは、皆さんのおかげもあって、十周年で閉じることはない(予定)。
 ただ、バースデーパーティは、秋霖の時期を避けて、一ヶ月先の11月3日から一週間 — 「竹林shop十周年記念展示会」だ。
 この頃には天気も安定することだろう。
 十周年の記念展示会は、お祝いだから、いろいろ趣向を考えている。真木千秋はそれに向けて現在インドで製作中。
 Makiスタッフも今日は、銀座松屋など各地の展示会場に散開しているので、それぞれ心の中にロウソクを十本立てて、しめやかに、十歳の誕生日をお祝いすることに致そう。
 どうぞみなさんもご唱和を。Happy birthday to you〜
 で、リアルには、11月3日から一週間、竹林にて。


 


10月7日(火) 杭州絲綢博物館

 「食在広州」という四字熟語は日本でもけっこう知られている。しかしその語と並んで、「穿在杭州」という言葉がある。「穿」とは着るもののこと。「衣は杭州にあり」という意味だ。「大阪の食い倒れ、京の着倒れ」みたいなものか。杭州はかつて南宋の都であったら、人々も着道楽なのであろう。
 その杭州では今Makiの展示会が開かれているが、歴史的に絹産業が盛んな所であった。それで当地には国立の絲綢博物館がある。絲綢とは中国語で絹のこと。中国国立のシルク博物館は、ここ浙江省の杭州と、江蘇省の蘇州にある。(蘇州の絲綢博物館は二年前に訪ねる。その見物記はこちら)
 古ぼけて建替を控えていた蘇州の博物館とは対照的に、こちら杭州の博物館はできたてのピッカピカ。おそらく建替直後なのであろう。(蘇州のも今ごろはピッカピカかも)。近年の中国の勢いをうかがわせるような施設だ。庭園のような広い敷地に近代的な建物が幾つか配されている。これだけのシルク博物館は世界に二つとはあるまい。

 展示品も、考古学的遺品から、歴史的遺産、養蚕、製糸、製織など多岐にわたる。真面目に見たら丸一日はかかるだろう。ミュージアムショップも書籍などが充実して立派なものだ。
 展示にも工夫が施され、たとえばジオラマを使った伝統的養蚕法の展示などかわいらい。
 その中のひとつ、「塩繭甕蔵」というのは、以前、上州群馬で習った繭の塩蔵法の元祖であろう。(上写真)。読んで字のごとく、繭を塩漬けして、甕の中に蔵するのだ。甕蔵した後、柵のようなものを立て、藁を交ぜた土で封をしたものらしい。そのほか「暖蚕」というのもあって、これは養蚕をしている蚕棚の下に火鉢を置いて蚕を暖めている風景。そうして成長を促すのであろうか。

 伝統的な織成を実演するコーナーもある。下写真は「羅(うすもの)」を織っているところ。二人がかりで織っているが、上の人は紋様を織り出すためにタテ糸を操作している。
 真木千秋が興味深そうに身を乗り出して見ている。そのお隣は、Maki展示会場で出会った香港の大学教授。真木千秋に羅の説明をしている。この技法は遥か昔、殷の時代から存在していたらしい。真木千秋にとっては、紋様はさておき、羅の技法がganga工房の薄物織成に応用できないか関心があったようだ。(難しいらしいが)

 というわけで、いかにも養蚕発祥国の面目躍如といった趣である。古都杭州を訪れる折には必見。



10月22日(土) 衣服の起源

 『人類進化の謎を解き明かす』(インターシフト)という本に、面白いことが書いてあった。
 イギリスの進化心理学者ロビン・ダンバーの著書だが、衣服の起源についてだ。
 それによると、衣服の起源は今から約十万年前、アフリカでのことだそうだ。
 十万年前という論拠が面白い。その武器は分子遺伝学。すなわち「衣服につくヒトジラミ」は「頭につくアタマジラミ」から進化したもので、その分化が起こったのが約十万年前。ヒトジラミは衣服がないと生きられないので、衣服の起源も同時期に遡るというわけ。
 なぜアフリカかというと、その頃、人類の祖先はアフリカにしか存在しなかったからだ。その後、約7万年前あたりに紅海を渡って出アフリカとなる。
 なぜ衣服が必要となったかと言えば、無毛だったからだろう。もともと有毛であった祖先がいつごろ無毛になったかは論議の分かれるところであるが、少なくとも100万年は遡るようだ。(なぜ無毛になったかというと、その方が体温を冷却しやすく、暑いアフリカでは有利であった)
 つまり、我々の先祖は、100万年以上の長きに渉って素っ裸で生きてきた。ところが十万年ほど前、何らかの理由で — 保温のためか、あるいは羞恥のためか — 衣服をつけるようになる。それもイチジクの葉っぱみたいなもんじゃなく、著者によると「体にぴったり合う衣服」だそうだ。つまりそういう衣服でないとヒトジラミは生きられないのであろう。
 もちろん、十万年前に全員が一斉に着衣したというわけじゃなく、着始めた人々がいたということだろう。そうした人々が紅海を渡って、中近東からより寒冷なヨーロッパやアジアに広がっていったのだろう。
 そして数万年前に日本列島にたどりつく。当然その人々も衣服をつけてやってきたことだろう。今より気候も寒冷だったことだし。
 つまり衣服がなかったら日本人も存在しなかったということだ。中国人も、韓国人も、ヨーロッパ人も。
 十万年! 衣服とのつきあいはかくも長きものであり、またその着用は人類史における革命的な出来事だったということだ。(百万年の素っ裸に比べると短いんだが…)
 ちなみに、衣食住と言うけれども、食文化という意味では人間が火を使いこなすようになったのが約四十万年前、また定住が始まったのは一万数千年前。いずれも人類史上の革命に位置づけられる。順序から言うと食衣住だろうが、チト語呂が悪い!?

 


11月4日(金) おこげチャパティ

 竹林shop十周年「秋の展示会」が始まって二日。
 連日たくさんのお客さんにおいでいただき、まっこと有難き限りである。

 おかげで用務員の私(田中ぱるば)や駐車場係の船附(ふなつき)クンは昼食をとるイトマもない。
 そんな我々が漸く露命をつなぐマンナのごとき食物がある。
 タンドール(炭火竈)のおこげだ。

 竹林の庭では、お昼からラケッシュがタンドールでローティ(チャパティ)を焼いている。
 高温の内壁にローティ生地を貼り付け、3分ほど焼く。
 底部には木炭が真っ赤に熾(おこ)っている。
 こんがりと焼き上がると、鉄棒二本を使って取り出す。
 ただ、時には、上手の手からパンが漏れて、灼熱の炭火上に舞い落ちることもある。
 そのままにしておくと煙が立つので、手早く拾い上げる。しかし、黒く焦げるので、お客さんに出すわけにはいかない。
 そうした「おこげチャパティ」は取りのけられる。(写真手前)
 
 今どきの炊飯器ではそんなこともないが、昔はよくおこげができたものだ。そして、それが美味しかったりする。
 タンドールも同じで、おこげチャパティは、パリパリして意外にウマいのだ。無料だし。(普通のインド料理店では食えない)
 ことに、今回は雑穀(シコクビエ)入りだから、いっそう風味がある。(普通のインド料理店ではぜったい食えない)

 ただし、おこげがいつできるかは定かでない。
 秋空の下、黙々とタンドールに取り組むラケッシュに張り付いて、プレッシャーをかけつつ僥倖を待つほかない。

 インド渡来のこのタンドールも、竹林cafeとともに満十歳を迎えた。
 消耗品ではあるが、使用頻度も少ないから、まだまだ美味しいチャパティを焼いてくれる。(タンドールは9日まで毎日稼働予定)


 

11月16日(水) 竹の天井

 早朝インド到着。
 朝一の便で首都デリーから北のデラドン空港に飛ぶ。
 右手前方に、ヒマラヤ・ナンダデヴィの山塊が朝日を浴びている。
 この時期、インドは基本的に晴天続きだ。一昨日のスーパームーンも見事だったという。(真木千秋は一週間ほど早く来gan)
 そしてこの時期、当地は一番良い季節かもしれない。天気は安定し、気温は15℃から25℃の間だ。蚊もいない。

 新工房を訪ねると、あちこちで機音が響いている。織機は既にすべて新工房に移っている。
 その傍らで、まだ工事は続く。
 上写真は機場第四棟の前で作業する竹職人たち。
 ひとりは日向で、ひとりは日陰で仕事をしている。どちらも快適だということだ。
 二人は竹を八分割し、削って整え、平たい竹材を作る。

 その材を使って、職人たちが機場の天井を張っている。(中写真)
 竹の足場の上に、七人が一列に並んで作業だ。
 今までは天井がなかったから、屋根の輻射で内部がかなり暑かった。
 電力不足もあってエアコンなど無いから、夏場は真木千秋も扇風機を使いながら、汗だくになってタテ糸づくりに励んでいたものだ。
 この竹天井ができれば、多少暑さも和らぐであろう。なにしろ当地は年の半分が夏なのである。

 スタジオ・ムンバイの建築家ビジョイ・ジェインが三日ほど前から現場に来ている。我々に金銭的負担をかけまいと、ホテルではなく工房に泊まり込んでの監督作業だ。(そのほうがこっちはタイヘンなんだが…)
 ビジョイが来ると、当然のことながら、工事の進み方も格段に違う。(とは言え、もう三年経過しているのだが…)
 下写真は居住棟の内装を指示しているところ。
 だがしかし、建築現場にしては妙に華やいでいるではないか。
 左から設計助手エウジェニア(イタリア)、ひとりおいて同じく設計助手アルバ(スペイン)、そして右端はパートナーのラクシュミ・メノン(インド)。真木千秋を含め、四カ国の女たちがビジョイを取り巻いている。

 午後6時を過ぎるとすっかり暗くなり、気温もグッと低下する。(標高が630メートルある)
 みな、セーターやオーバーを着込みながら、まだ仕事に励んでいる。





 

11月17日(木) 大理石の扉

 新工房にはギャラリーが併設されている。
 工房で織られた布や、縫製された衣を展示販売する店である。
 店があるということは、少なくともそこまでは自由に出入りできるということだ。(工房本体は仕事の場所だから普通は入れない)
 
 そのギャラリーも、ハコとしては、ほとんど完成している。
 今日は扉がついた。

 ギャラリーには出入り口が三つある。
 今回ビジョイは当地に五日ほど滞在。先ほど、夕方の便でムンバイに飛び立つ。
 その滞在中に、職人たちの尻を叩いて、三つある出入り口すべてに扉がついた。(当初、職人たちは九日かかると言っていた)

 上写真に見られるように、それぞれ一対の折れ戸だ。
 外枠は当地ウッタラカンド州産のチーク材、中は西部ラジャスタン州の大理石。
 どっしり重たい扉だ。
 真木千秋の左側人物は、スタジオムンバイから来ている大工頭のラジェッシュ。

 ギャラリーは白系の大理石がふんだんに使われている。
 屋根の全体、出窓、窓、そして扉だ。
 日本の感覚からするとかなり贅沢なんであるが、インドでは木材より安かったりする。
 下写真はその重たい扉を支持する蝶番(ちょうつがい)。真鍮製だ。 扉ひとつにつき四つ付いている。
 そのほか、ギャラリー内部では、布を展示するためのフック取付作業などが行われている。

 さて、肝腎のギャラリー・オープニングであるが、来年2月21日(あたり)に!
 今日、ビジョイと決めたのだ。
 ビジョイ先生、インド象も用意すると意気込んでいる。日本酒の鏡開きとかね。
 それにあわせて日本から訪印ツアーも組もうかな。ま、最初だから、当スタジオと縁の深いギャラリー関係者限定ということで。(どんな具合になるかわからないし)
 興味のある人は私ぱるばまでご連絡のこと。
 





 

11月18日(金) ラケッシュ ×× 最後の日々

 一昨日もご紹介した機場の第四棟で、今日は面白い光景が見られた。
 異種の職人たちが、上下でまったく違うような(違わないような)作業に勤しんでいるのだ。(上写真)
 竹を組んだ足場上では、建設職人たち六名が竹で天井を編んでいる。
 そして床上では、真木千秋の指揮下、タテ糸職人がストールのタテ糸を作っている。

 そのストールのタテ糸たるや、Maki Textile Studio史上、最もスペシアルなものであろう。
 というのも、たった四枚のストールのためのタテ糸だからだ。
 ほんとは二枚だけ織りたいのだが、技術的に不可能なので、最低限の四枚織成。
 その二枚というのは、ラケッシュの婚礼用である。

 二週間後の12月2〜4日に、ラケッシュ君が目出度く式を挙げる。その二日目と三日目に新郎が首から垂らすストールだ。同じのを使えばと思うのだが、ヨコ糸を変えて二枚、日替わりに垂らすのだという。う〜ん、何というコダワリ方だろう…。しかしコダワリはそれだけではない。またそれは追ってお伝えしよう。
 で、残りの二本はどうなるかというと、おそらくは、年が改まって1月7日から始まるハギレ市に出品されることになるらしい。

 そのラケッシュ君であるが、独身生活最後の日々を新工房で(楽しそうに)すごしている。
 下写真は、本日、隣州の織元サジット・カーンが訪ねてきた時の模様。
 サジットは、今年四月25年ぶりに再会した織元バブ・カーンの甥っ子だ。(インド映画の大スターもそうだが、イスラム教徒には「カーン」姓が多い)。以来、彼らと木綿カディの製作を進めてきたのだ。
 今日はサジットが半日かけてバスを乗り継ぎ、織り上がったカディ四色340mを背負って来た。真木千秋とラケッシュとで全部チェックしたが、なかなか良い出来であった。(写真奥に見える黄色の布など)。
 仕事熱心なサジット君は、「こんなのも織れますよ」と縞の布サンプルを持参する。(写真右端がサジット)。上手にデザインすればモノになるかも。
 来年6月予定のカディ展では、極薄木綿マンガルギリとともに縞カディも登場か!?
 


 

11月19日(土) 機場U・ランタナの扉

 新工房にはL字型の機場(はたば)が四棟ある。
 四つのLで中庭を囲む恰好だ。
 そのうち三つは、もう半年前から稼働している。
 残るひとつ「第二棟」は今も工事中。(上写真)
 それも、もうじきおしまいになるらしい。
 スタジオムンバイの建築家カルティック君によると、あと三日で完成だという。

 この機場は特別である。
 まず、四つの中で、いちばんの好立地だ。
 南西の谷側に建ち、眼下に緑の田園風景が遥かに広がる。
 また、屋根の配置からして、いちばん涼しいはずだ。
 そして、他の三棟は石造りの漆喰床だが、ここだけは土壁に土間である。

 この「機場U」には、中庭に面して入口が三つある。
 そこに今日は扉がついた。
 三ヶ月ほど前に職人たちが編んでいたランタナの扉だ。
 当時の記事を読み返すと「2〜3日で取り付けられる」ように書いてあるが、なかなかそうならないのが当現場の特長である。
 ともあれ、竹と害草ランタナだけで扉を作るという発想が面白い。
 なかなか美しいものである。
 まぁ、実用性のほどは未知数なんだが。けっこう隙間があるし。

 中写真は扉の取付作業に当たる竹職人マクルー。(左側人物)
 この人は職人衆の中で唯一、かたくなにルンギ(腰巻)を着用し続けている。そのいでたちと風貌がなかなか絵になるので、ついカメラを向けてしまう。(上写真にも写っている)

 下写真は内側。
 壁は、厚い部分(下半分と横面)は煉瓦造りで、それ以外は竹とランタナ。その上に土を塗って仕上げている。
 窓も扉と同じく竹+ランタナ製だ。
 戸口も、底面は石だが、それ以外は竹でできている。
 これで屋根が草葺きだったら、かなり完璧に伝統的な農家になるんだが、ま、今回はこのくらいにしておこう。ひとまずポリカーボネートで雨露をしのぐことにする。屋根の下に竹の天井をつけて、夏期の遮光対策とする。
 竹職人マクルー大活躍の機場づくりだったというわけだ。

 四日後の11月23日に入居という段取りになっているが、はたしてどうなるか。


 

11月20日(日) ジンジャー・ティー

 昨日の夕刻。イタリア人建築家のエウジェニアがキッチンスタッフのママジに、ジンジャーティーを所望する。そこで私ぱるばもついでに一杯もらう。ごく普通のマサラティーに生姜を多めに入れたものだが、それがやたらウマいのだ。ジンジャー・ティーってこんなに美味であったかと再認識したのだが…
 今朝になってよく聞くと、注文を受けたママジが畑から生姜を掘ってきたのだそうだ。

 新工房の敷地は、もともと果樹園と畑だった。畑には主に雑穀が栽培されていたようだ。その畑地のうち、工事に使われなかった一部は藍畑になり、また菜園も二百坪ほどある。
 菜園にはインドの食卓に欠かせない野菜がいろいろ栽培されている。(もちろん無農薬有機栽培)。我が東京五日市とはだいぶ気温差があるので畑の様子も異なるが、エンドウ豆は花をつけ、タマネギやカリフラワーは苗を植え付けた状態。ホウレン草は本葉が出たくらい。コリアンダーやカラシ菜はもうじき食べられるだろう。

 上写真が今日の菜園。斜面の段々畑で、右側の最上段がウコン、その下のザワザワしたのが生姜。どちらもインド料理のベースとなる食材だ。左上にギャラリーと機場の一部が見える。
 このウコンと生姜、通常は12月に入ってから収穫だという。それをママジが昨日、ちょっとフライングで掘ってきたというわけ。もうほとんどできている。
 野菜は何でもそうだが、生姜も同じく、やはり採りたては風味が違うということだろう。

 本日用にとママジに掘ってもらったのが下写真。
 日本で売ってるみたいに丸々とはしていないが、そのぶん凝縮していてウマいのだと思う。


 

11月21日(月) 機場の農民たち

 新工房ではいろんな人々が働いている。
 農民スタッフも四人ばかりいて、すぐ近所の集落から通ってくる。
 昨日ご紹介した畑を耕したり、木々の世話をしたり、ときには建築作業に駆り出されたり、仕事もいろいろだ。
 その中のふたりが夫婦で、パンディジとサラスバティという。
 パンディジとは通称で、「先生」というほどの意味。じつは彼らの集落は最上カーストであるバラモンに属しており、それゆえに男たちは「Pundit ji パンディジ」という敬称で呼ばれるわけだ。とはいえ、我々から見ると、他の農民たちと何ら変わるところはない。ただ現在でも、ヒンドゥー教の僧侶になれるのはこの階級の人々だけで、農民スタッフのひとりマンジュの旦那もお坊さんをしている。(インド西部・ラジャスタン州の寺に単身赴任しているそうだ)
 サラスバティ(奥さんの名前)はインドの女神で、日本で言うと弁財天。
 そんなパンディジとサラスバティから、一昨日、美麗な招待状が届いた。娘のプリヤンカが結婚するというのだ。雇用主だからいちおう儀礼上招待したのであろう。それで我々も昨夜、みんなで出かけることにした。ホントに来るとは思っていなかったらしく、先方もちょっと慌てたようだ。(もちろん雇用主であるからして相応に包んでいかねばならない)
 昨日は結婚式の第一日目、メヘンディだ。これは花嫁はじめ式に連なる女たちにヘナで装飾を施す日で、それとともに野外に大テントを張って盛大な夜の宴を設ける。
 上写真が、右からパンディジ、娘のプリヤンカ、スタジオスタッフのスープリア。二十歳になるプリヤンカは、40kmほど離れた州都デラドンに嫁ぐそうだ。相手は薬品販売系の会社員だという。
 スープリアも昨夜は片手に軽くメヘンディを施してもらう。列席者の装飾はだいたい手の平どまりだ。腕まで飾るのは特別の縁者で、脚にまで下るのは一生に一度だ。(中写真)。
 この「満艦飾」はメヘンディの夜に実家で行われる。ケーキの生クリームみたいなメヘンディを施されると、数時間はじっとしたまま何もできない。娘にとってはさだめし俎の鯉みたいな特別な一夜であろう。
 翌朝、すなわち今朝、婿が嫁を迎えに現れ、しめやかに…、いや、にぎやかに、本祝言が執り行われる。

 さて、同じ朝、農民スタッフたちが婚礼休暇で不在の工房に、別村から男がひとり、二頭の役牛を牽いて現れる。
 機場前の畑を鋤(す)くために臨時で頼んだ農夫だ。
 日本では耕作は鍬(くわ)で行うが、インドは鋤(すき)の文化圏だ。去勢した雄牛二頭に鋤をつけて耕す。
 石がちの硬い地味であるが、雄牛はやはり力強い。70坪ほどの畑を小一時間で耕していった。インドでは牛は聖獣なので、雄牛が生まれても処分はしない。種牛以外は、こんなふうに役牛で暮らすのであろう。この辺は石が多いから耕耘機は難しいだろうし、牛がちょうど良いのかも。ついでに畑に牛糞を落としていった。(これも排気ガスよりよほど良い)
 この畑には、これからマリーゴールドを育てる。マリーゴールドの花は、黄色を出す貴重な染材だ。


 

11月22日(火) 婚姻色

 涼しくなって晴天が続く今ごろから、インドでは婚礼のシーズン。
 当スタジオ関係でも、昨日お伝えしたように農民スタッフ夫妻の娘が、ただいま結婚式中だ。(少なくとも三日間続く)
 そしてまた、ウール職人のマンガル・バギラティ夫妻の次男も、結婚式中である。ただ、同夫妻の場合、家がヒマラヤ山中のドンダにあり、車で8時間はかかる。やはり義理の招待状をもらったのだが、ちょっと気軽には出かけられない。(農民スタッフの家は歩いて2分)

 なにより、ラケッシュ君の祝言が10日後に迫っているのだ。
 四日前の18日にご紹介したラケッシュの婚礼ストール。その1枚目が今日織り上がった。妹のスープリアにかけてみたところ。(上写真)
 赤と金だ。当スタジオのストールとしてはかなり派手なのであるが、インドでは地味なんだそうだ。絹100%で、赤は蘇芳(すおう)とインド茜で染める。金はムガシルク。贅沢な一品だ。しかも長さは250cm。
 この一枚は、二日目の本祝言の折、新郎が白馬に乗って(!)新婦の家に赴く際に首から下げるものだ。
 上写真の左側の機で織ったものだが、その機にはもう一枚分のタテ糸が残っている。これはヨコ糸を変えて、三日目の披露宴に新郎が身につけるストールになる。

 染め場では、鮮やかな黄色の布が干されている。これも本祝言の夜、新郎が身につける木綿のドーティだ。ドーティというのは長い一枚布で、かなり複雑な巻き方により、ゆったりズボンのようなカタチになる。
 伝統的に鬱金(うこん)で染められる。下写真の一枚は、マリーゴールドで下染めした後、鬱金で染めた。ちょっと反則なのであるが、おかげでいっそう黄色が深く鮮やかだ。
 染織工房マネージャーの役得である。


 

11月22日(火) 象門象樹

 日本は勤労感謝の日。
 秋川の谷は例年、今ごろが紅葉の見頃だ。
 しかし、なんと、予報によると今夜から雪だというではないか。
 残念、見逃した!!

 こちらは相変わらず、毎日快晴。
 天気予報も必要ない。

 上写真は夕陽を浴びる機場。左が第一棟。右が第二棟。
 その間の空間が、人呼んでエレファント・ゲート。(人というのはスタジオムンバイの建築家ビジョイ・ジェイン)
 ここを通って、象が中庭に入れるように設計してあるらしい。
 ゲートの前には、マフア樹。通称エレファント・ツリー。(下写真)。象が好むんだという。このマフア樹は中庭にも一本植えられている。
 野生の象はワイルドだからホントに来られたら困るんであるが、近所にもよく出没するし、まったく有り得ない話ではない。

 ビジョイは来年2月の21日に、ギャラリーのオープンを企図している。
 その際、象を連れてきてこの門から中庭に入るんだそうだ。
 それで工房スタッフが近所の象(もちろん馴致されたやつ)を探したのだが、一番近くて40km離れた聖都ハリドワール。それもとある行者の持ち物で、貸し出しは不可だと。するとビジョイは自分で何とかするとのこと。
 そもそも象は陸送が非常に難しく、自分で歩いてくるほかないらしい。まさかムンバイからというわけにもいくまい。
 ま、インドに不可能の文字はないからな。(可能の文字もないが)
 ビジョイの言うことだから、あまり期待しないで見守ろう。





 

11月24日(木) 機場の少女

 大雪の武蔵五日市をよそに、本日も快晴のganga新工房。
 四つある機場の中で、いちばん人口密度の高かったのが、第4棟。
 上写真にご覧の通り、竹天井も完成し、午後の優しい陽光を浴びながら、快適な工房になっている。
 ┓型をしていて、数えてみたら15人ほども働いていた。他棟が工事中のこともあって、この棟に集まってきているのだ。
 手前の機では名手シャザッドが、赤系のシルクストールを織っている。
 その向こうでは、織師グラムがマヤを相手にタテ糸をかけている。Kotiシリーズの服地で、今回はチュニックになるらしい。マヤは仏陀の母親・摩耶夫人と同じ名前だ。
 幾つか並ぶ糸車の一番奥で糸を巻く主婦スタッフが、シャクンタラー。これもスゴい名前で、叙事詩マハーバーラタに出てくる姫の名前だ。先日ご紹介した農民スタッフ・サラスバティにせよ、ganga工房は姫や女神でいっぱいだ。日本人には覚えやすくて良い。

 そのシャクンタラー姫の傍らに、小さな人影が…
 五歳になる娘のスリスティだ。(下写真)
 毎日午後になると、小さなリュックサックを背負ってやってくる。工房のマスコット的な存在だ。
 近所に学校(幼稚園!?)があって、その放課後に工房にやってくる。
 そして、いつもおとなしく母親のそばで宿題をやっている。
 何の宿題かと覗き込むと、なんと英語なのだ。
 そのノートの上には、先生が書いたのであろう、Sleep+ing, Brush+ing, Drink+ing などの文字があり、それを鉛筆で書き取りしている。動名詞の勉強なのであろう。1ページ書き取りが終わると、母親に見せて添削してもらっている。
 私(ぱるば)もこんな年齢から英語をやっていれば、きっと今みたいに苦労していなかっただろうに…でもこんなにおとなしく宿題していなかったかもな。きっと勉強好きな娘なのであろう。
 遠からず、スリスティに通訳してもらう日が来るかも。(職人たちはほとんど英語を解さず、私もヒンディー語がほとんどわからない)


 

11月25日(金) 金曜日の果樹園

 世間では今日はブラックフライデーというらしい。バーゲンをする日だと。
 私も昨日知ったのだが、こちらの建築女子たち(スペイン&イタリア)に聞いてみたら、やっぱり知らないようだ。アメリカ発祥なのだな。ま、竹林shopではしばらく関係ないだろう。こちらもごく普通の金曜日だ。

 さて、ここ新工房の敷地は、半分が果樹園だった。
 樹はほとんど切っていないから、今でもマンゴー71本、波羅蜜(ジャックフルーツ)が21本ある。ただ、今はどちらもシーズンオフだ。今、実の成っているのはバナナだけ。(左写真)
 日本でいちばん消費量の多い果物はバナナだそうだが、ここインドでも同じだろう。そもそもが産地だから、一年中あって、一年中美味しい。もちろん、安い。
 当工房のバナナはここ1〜2年で植えられたものだが、全部で20本ほどもあるだろうか。先日、初めて収穫される。甘くて美味であった。
 次に収穫を待つのが、写真のバナナ樹だ。半月もしたら食べられるだろうか。

 写真右下に小さく写っているのが、織師シャザッドとタヒール。モスク帰りだ。
 毎週金曜、午前中の仕事を終えると、イスラム教徒たちは工房を出る。まず家に帰って昼食を摂る。それからモスクに行き、40分ほどお祈りをする。そうして心身をリフレッシュし、2時過ぎに仕事に戻るのだ。


 

11月26日(土) 従業員食堂

 新工房は毎日、午後1時から昼休みだ。
 するとみんな連れだって工房から降りてくる。
 敷地の一番下に従業員食堂があるのだ。
 ま、食堂と言っても今のところ、食事が供されるわけではなく、みんな弁当持参なのであるが。

 今日は天気も良いし(毎日良いが)、食堂の外にテーブルを出して、楽しそうにピクニック。
 テーブルが三つあるが、よく見ると、居住(出身)地別に三グループに座り分けている。左端に他州から来ているイスラム教徒の織師たち、真ん中が旧工房周辺の人々、右端が新工房近所の人々。みんな言葉はヒンディー語で通じ合えるのだが、やはり近所同士が気安くて良いのであろう。宗教もあるだろうし。(織師たち以外はヒンドゥー教徒)

 テーブルを外に出しているのも、実は今、食堂の床を塗っているからだ。(下写真)
 土台は煉瓦。その上に手で床を塗る。
 材料は土と牛糞で、どちらも地のものだ。
 特に土は敷地のもの。下写真の奥、土地の一番低いところの土だ。ここは凹地になっていて、雨期に水が流れ込み、微細な土が堆積する。その土が資材としてちょうど良い。
 つなぎに繊維分豊富な牛糞を使う。牛糞は近所の村から調達。
 配合比は土:牛糞、9:1。

 ただ、この時期、屋外食の方が気持ち良いかもしれない。
 仕事はみな屋内だから気分転換にもなるし。

 


 

11月27日(日) ハギレ市の準備

 竹林shop新春恒例のハギレ市。
 来年は1月7日から一週間の予定であるが、日本およびインドではもうその用意が始まっている。なにしろ千数百枚に及ぶ布々であるので、その準備作業も時間がかかるのだ。

 上写真はこちらインドの新工房。水場でハギレを洗う真木千秋。
 「もうハギレとは言えないね…」と言いつつ、2メートルほどの布を水槽に漬けている。
 沖縄のフクギで染めたと思われる絹の生地だ。
 こうした大物もハギレ市には登場するのである。
 背後のテーブル上にはこれから洗われるハギレが並んでいる。

 ところで、この水槽。ストール洗濯用に、煉瓦と漆喰で特別に作ったものだ。
 右側の水栓からは、太陽温水器から供給される湯が出る。毎日快晴だから温水も豊富だ。(プロパンガスは日印とも高い)

 洗い終わって、水場の外に干す。(下写真)
 今回はいつになくハギレが充実している。
 というのも、工房の移転があるからだ。
 旧工房にあったサンプル室を、このところ真木千秋は夜な夜な12時頃まで整理していた。
 するとハギレがぞろぞろ現れるのである。
 懐かしい試し織りの布々もいろいろと。
 昨年はスタッフから「ちょっと織りの布が少ないかな…」という感想もあったが、今年はそれも豊富なはず。
 請うご期待!

 


 

11月28日(月) 綿花

 綿花という存在。
 今、日本ではほとんど見かけないが、たとえば江戸時代などには非常に重要な畑作物であった。
 インドは綿花の原産地のひとつであるし、今でも綿花の栽培は盛んだ。
 ここ北インドのウッタラカンド州ではあまり見かけないが、蒔けばちゃんと育つようだ。
 新工房の畑にも少量であるが、綿花が栽培されている。
 今ちょうど実が弾けて、ワタが顔を出している。収穫期だ。

 当工房の畑には、いろんな人々がいろんな綿花の種を持ち込んでいる。
 和綿もあれば、南米のもある。もちろん、インドの綿もある。インド国内でもいろんな品種の綿花が育てられている。たとえば、カルナタカ州の茶綿とか、オリッサ州のパサナ綿など。

 下写真、左側の緑っぽいのが、南米の有色綿。右側の白いのが和綿やインド綿。
 まだ少量だから、糸を紡いで織物にするという段階ではない。実験的に育てて、綿花を貯めているというところ。
 こちらの畑も限られているから、工房向きの品種を見定めたら、ヒマラヤ山中の村人たちに生産を委託しても良いだろう。

 当面、収穫した綿花で灯心を作る。
 お祝いに使われる土器ランプの灯心だ。
 四日後からラケッシュの祝言なので。

 


 

11月29日(火) 水遣り

 五日市・竹林スタジオのブログを見ると、「先日の雪からぐっと気温も下がり、冬の寒さを感じます」と書かれている。
 こちらは相変わらず連日快晴。最高気温も23〜4℃というところ。まことに快適だ。

 そうした気候ゆえ、畑の様子も日本とはやや違う。
 上写真は藍畑。農民スタッフが水を遣っている。遠くに機場やギャラリーが見える。
 日本の蓼藍(たであい)と違って、インド藍はマメ科の灌木。だいたい膝から上あたりの枝葉を刈って、藍染めに使う。そして下には「藍の株」が残る。
 その株にしかるべき世話を施せば、来年また枝葉が茂り、藍染めができる。
 その世話のひとつが、灌水、すなわち水遣りというわけだ。

 この時期、日本では畑作物に水を遣るということは、あまりあるまい。周期的に雨も降るし。
 しかしここ北インドは連日快晴だし、陽光も強いので、まだまだ水を吸って光合成を行うのであろう。
 藍みたいな低木のみならず、マンゴーのような高木にも灌水したほうが良いようだ。

 下はバナナに水を遣ってるところ。
 これは、じつは私のバナナ樹である。特別にリクエストして、我が部屋の裏側に三株植えてもらった。
 バナナという植物は何が良いかというと、周年、実をつけるということだ。
 マンゴーは非常に美味であるが、なにしろ6月下旬の二週間ほどに結実が集中する。工房全体で二トンの収穫があるが、そんなに食えるものではない。熱暑の6月下旬に必ずしも渡印するとは限らないし。
 バナナだったら、しっかり世話をして、株が増えれば、ひとつくらいは滞在中に当たるだろう。当地のバナナはウマいし。
 水遣りをしているのは、先日、娘を嫁に遣ったパンディジ。背景に見えるのは太陽熱温水器。


 

11月30日(水) 天幕デザイン

 二日後に迫ったラケッシュの婚礼。
 三日間に渉って行われ、初日(12/2)はメヘンディ、二日目は本礼、三日目は披露宴。それぞれ会場が違う。
 初日のメヘンディは、ラケッシュ実家・裏の田畑が会場だ。ヘナ化粧を口実とした前夜祭みたいなもので、ここにラケッシュ側親類縁者数百人が集って大宴会が開かれる。

 裏の田畑は、ラケッシュ家の所有ではない。隣家のものだ。夏は稲、冬は小麦が植え付けられる、文字通りの田畑。(上写真)
 ここを借りるのもなかなかタイヘンであった。最初は使用を断られる。(というか、ラケッシュ父があまり上手に交渉しなかったらしい)。農家としては、畑が踏み荒らされ、一冬分の小麦が収穫できなくなるのである。
 そこで手狭なラケッシュ家の庭で開催という予定であったが、それでもと思ったラケッシュの姉妹が隣のおじさんと再交渉。めでたくOKとなったのである。もちろん一冬分の小麦は補償する。

 メヘンディの会場には大きなテントが張られる。
 その設営が昨日から始まった。
 屋根から垂らされる布は、赤、オレンジ、黄の三色。
 昨日、それを目にした真木千秋、色の配合をこと細かに指示する。リピートやら何やら。ウルサいおばさんだと思ったことだろう。そんな口出しをする客はいないんだそうだ。(ストールづくりと間違えてない!?)
 下写真は今朝の様子。なんだ、指示通りじゃないじゃん、と憤慨する真木千秋。
 青空の下、設営のお兄ちゃんたちとやり合いながら、配色のコラボをするのであった。(いったい誰の婚礼!?)



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12月1日(木) うちうちメヘンディ

 明日からラケッシュの祝言。
 ラケッシュ家はもうすっかり祭礼モードに突入だ。
 本人はもちろん、四人いる姉妹および婿たち全員(四女のスープリアのみ未婚)も今日からみな仕事を休んで、準備にかかりきりだ。

 今日のメインは、うちうちのメヘンディ。
 メヘンディというのは、女たちがヘナで手に装飾を施すこと。これは通常、三日間ある婚礼の初日、すなわち明日に行われる。
 しかしながら、新郎の姉妹の装飾は、特別大がかりなので時間がかかる。施術に三時間、乾燥に数時間。つまり一日仕事なわけだ。これを明日行っていると、接待などの仕事が何もできなくなる。そこで前日にメヘンディを行うのだ。

 写真1はその施術風景。
 二人のメヘンディ師が、ペースト状のヘナで手に模様を描く。このペーストは彼らメヘンディ師が自分でヘナの葉っぱから作ったものだ。ちなみに彼らはメヘンディの本場ラジャスタン州の出身だそうだ。
 施術を受けているのが、三女サビータと真木千秋。
 その右側で手を開いているのは、次女サンギータと四女スープリア。別にこの二人はポーズを取っているのではなく、メヘンディを乾かしているのだ。
 手の表側の施術に一時間。そして一時間乾かした後、更に裏側に一時間かけて施術する。

 写真2は、裏側の施術を受けている真木千秋。夕方になってだいぶ涼しくなってきたので、室内に場所を移しての作業だ。
 そこへ、婚礼衣装を持ってファッションデザイナー田村朋子さんがやって来る(左側人物)。披露宴でラケッシュが着用するものだ。
 じつはこの生地も真木千秋がデザインして新工房で織ったものだ。素材はウール+シルク+麻。その生地を田村朋子さんがデザインして服に仕立て上げた。縫製ももちろんganga工房の針場。
 インド広しと言えども、自分のところで日本人デザイナー二人がかりで糸から婚礼衣装を作り上げてしまう新郎というのも、あまりおるまい。(本人がそれを希望したのか定かではないが)

 写真3は真木千秋のメヘンディ完成形。
 表から裏までびっしり装飾が施されている。デザインも左右で違う。
 普通ここまでやるのは新郎の姉妹くらいのもの。母親のもずっとシンプルだ。
 名誉姉妹ということで、真木千秋一世一代のメヘンディだ。このときに備えて、朝から半袖で過ごしてきた。
 次いで、Makiの日本人スタッフ二人(松浦菜穂と前川明子)もやってもらう。
 このペーストが乾いて剥がれると、下の皮膚に赤褐色の模様が現れるのである。
 ただ、乾くまでが寒い。メヘンディが多量だから、気化熱も大きいのだ。もう12月だし。それで姉妹たちとダンスをして過ごす。
 ついでに私ぱるばもやってもらう。左掌に太陽のような模様。3分ほどでサッと描いてもらった。メヘンディは初体験だが、なかなか楽しい。
 男でやってもらったのは、甥っ子ふたりと私の三人ほどだったか。

 暗くなってから、花が到着する。
 インドの祭礼には欠かせないマリーゴールドのガーランドだ。(写真4)
 小型トラックいっぱい。重さにして1.3トン!
 これを家の周囲に垂らして、飾りまくるのだ。
 マリーゴールドといえば、黄色を出す良い染材である。
 これだけあれば十年は優に持つであろう。しっかり乾燥させておけばだが。
 そういえば先日、マリーゴールドを栽培するために畑を耕したばかりであった…



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12月2日(金) 祝言初日・メヘンディ

 今日はラケッシュ君の結婚式・初日である。
 この日は「メヘンディ」と言う。メヘンディとはヘナのこと。すなわち女の参加者にヘナで装飾を施す日だ。
 おそらく昔は純粋にそのための日だったのであろう。
 今はそれを口実に、前夜祭の大宴会という趣になっている。
 婚礼本番は明日なので、今日は新郎新婦とも、それぞれ実家で別個に宴会を行う。
 この一日のために、両家とも大がかりな準備が必要だ。
 ラケッシュ家では、隣家の麦畑を借りて主テントと厨房テントの二張を設置し、二十名を超えるケータリング部隊、楽器奏者、DJ&音響、カメラクルーなどの手配をする。

 今日はまずは昼過ぎ、女たちだけによるキルタン(献身歌)からスタートだ。
 太鼓のリードによるキルタンは三時間ほど続いただろうか。
 その間、新郎のラケッシュが登場し、祭壇に礼拝した後、親類縁者たちから祝福を受ける。
 我々も縁者の末席に連なり、ティカ(赤い粉)、マリーゴールド、およびインドルピー紙幣でラケッシュを祝福する。(写真1)
 私ぱるばがラケッシュ頭上にかざしているのが100ルピー札。現金とはかなりダイレクトであるが、こうして紙幣を与えるのがインドの習慣なのである。ところで最近、インド政府は突然、不正蓄財対策とかいう名目で高額紙幣である500ルピーと1000ルピー札を流通禁止にしてしまった。(日本で言うと、5千円札と1万円札が急に使えなくなるようなものだ)。それで社会に非常な混乱が起こっている。それもあって現在100ルピー札はもっとも有難い紙幣なのである。

 夕方、ラケッシュは衣替えし、楽士たち(太鼓とバグパイプ)の音楽に合わせて踊りながら大テントに登場する。インドというか、ここウッタラカンド州は、寄ると触ると踊りである。
 写真2が大テントの内部だ。向かって右手に、マリーゴールドのガーランドを背景にしたステージが設けられ、左側はDJ&音響スペースとお立ち台だ。
 全面に座席やテーブルが設けられ、奥にはコの字型にずらっとフードスタンドが並ぶ。本格的なインド料理のほか、数種類のインドスナック屋台、デザートやアイスクリーム、チャイやコーヒー、ソフトドリンク、何でもありだ。別棟ではアルコールも供され、怪しい雰囲気を醸している。(インドでは伝統的に酒は不道徳とされる)。
 数百人分の食事が用意されるらしい。

 いちおう「メヘンディ」であるから、メヘンディ師もひとり用意され、会場の片隅で仕事をしている。その大事な仕事のひとつは、新郎にメヘンディを施すことだ。写真3は壇上で新郎に施術するメヘンディ師。
 ラケッシュはganga工房製タッサーシルクのクルタにウール&麻のベスト姿。隣の真木千秋はムガシルクのスディナを着用している。

 今日のこの日のため、日本から遠路はるばるお客さんも七人ほど到着。
 新郎や親族らと一緒に記念写真。(写真4)
 これから順々にメヘンディ施術を受ける。

 会場に据えられたスピーカーからは、天地もひっくり返るくらいの大音響でダンス音楽が流され、人々はその周りで踊り興じる。音楽は主催者の希望で、主にここウッタラカンド州の民謡だ。
 もう夜中の0時半になるというのに、その熱気は一向に収まる気配がない。
 住宅地の真ん中だよ、ここは。
 それでは私も、書くのに飽きてきたから、もうひと踊りしてくることにするか。
 



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12月4日(日) 祝言二日目・前半「ラケッシュ家」

 今朝は7時半過ぎの帰宅であった。
 婚礼本番の二日目は夜を徹して行われる。
 その模様を2回に分けてお伝えしよう。

 婚礼二日目の昨日(12/3)。
 日中はラケッシュ家でいろいろ儀式が行われる。もちろん新婦側も実家で同じくいろいろ行われているはずだ。
 当日ラケッシュ家でのメインイベントは、「ハルディ」。
 ハルディとは鬱金(うこん)のことだ。
 鬱金は殺菌効果や整肌作用があるため、結婚を迎えるカップルそれぞれに浄化として行われる。

 この日、女たちは二度、特別な衣裳を着る。
 一度目はハルディ用で、主に黄色いサリーだ。鬱金が染着しても良いように。(上写真)
 この日、特徴的な装飾のひとつは鼻輪だ。上写真をクリック拡大してもらうとよくわかる。既婚婦人、特に近しい親族が大きな鼻輪をつける。非常にエキゾチックというかインド的。左側の鼻孔につけるようだ。飲食する際には、それをチョイと持ち上げる。妹のスープリアなど未婚娘はつけない。

 写真2はそのハルディの様子。
 左側のバラモン僧がサンスクリット語であろう経文を唱える中、親戚縁者がかわるがわるやってきて、擂り粉木で潰した鬱金を、足、膝、手、肩、顔、頭に、塗布していく。最後にお互い赤いティカを眉間に印し、おまじないの糸を手首に巻き、それが終わるとひとりひとり記念写真だ。記念写真の際、新郎は必ず微笑む。この微笑みも、繰り返していると顔の筋肉にはかなりの重労働らしい。
 ハルディの儀式は、およそ二時間ほど続く。

 その後、ビクシュの儀式があり、新郎はその名のごとく比丘(びく=僧侶)になる。ビクシュとはサンスクリット語で物乞いのことで、ラケッシュは比丘の恰好になり、裸足で杖を突き、会場を回って物乞いをする。すると参列者は彼の頭陀袋の中に金銭を恵む。そしてまた記念写真。

 夕方、みな一番の晴着に着替えて、ラケッシュ家での最後のイベントに臨む。新郎の首に花輪ならぬ札輪を掛けて祝福するのだ。本物のルピー新札で作られている。もちろん輪から取り外すとカネとして使える。
 この「札輪掛け」をラケッシュも実施すると聞いて、悪趣味〜と思ったものだ。しかしこれはインドの婚礼には欠かすことのできぬものらしい。富んだ人や近親者は100ルピー札の大きな札輪を、富まざる人は10ルピー札のささやかな札輪を、新郎の首にかけ、祝福し、そして記念写真に収まる。ラケッシュは相変わらずニッコリ。
 ま、額にかかわらず、カネをもって悪い気はしないだろう。
 写真3はラケッシュの姉夫婦(左サンギータと右サンジュー)。姉だから張り込んで、100ルピー札の派手な札輪だ。ちなみに二人ともganga工房で働き、義兄サンジューは工房長、姉サンギータは仕上げ主任だ。
 サンジュー着用の上着は、やはり生地をgangaの機場で織り上げ、針場で縫製した超オーダーメードだ。
 ラケッシュも刺繍生地の晴着を着ているのだが、札輪の下に隠れて見えない。

 この夕方、ラケッシュ姉妹たちの下半身は、サリーではなくレヘンガという華麗なスカートだ。
 比較的若い女たちが婚礼の際に着用。厚手で金糸の刺繍が入っている。花嫁も婚礼本番はレヘンガだ。写真4は妹スープリアのレヘンガ姿。しかし、ちょっと見ないうちにずいぶん立派になったでしょう。

 実家での儀式をすべて終え、ラケッシュは、白馬にまたがり、花嫁の実家のあるハリドワールに向かうのであった。
 門口には花火が上がり、ドローンまで舞うのであった。時に午後7時45分。(後半に続く)



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12月5日(月) 祝言二日目・後半「ハリドワール」

 昨日の続きで、12月3日(日)の結婚式本番。その後半だ。
 午後7時45分、楽隊の先導のもと、白馬に乗って実家を出る新郎ラケッシュ。
 目指すは新婦スリスティの実家があるハリドワールだ。

 ハリドワールと言えば聞いたことのある人も多かろう。ガンジス川のほとりにある聖都だ。ヒンドゥー教徒は一生に一度は当地に来たいと願う。ここで沐浴すると、罪障が消滅するのだ。
 ラケッシュ家からハリドワールまでは、40kmほどの道のりだ。そこまで白馬と徒歩で行くのはタイヘンなので、家を出て二百メートルくらい進んでから皆で車に乗り込む。
 一時間弱でハリドワールに着くと、そこには別の白馬が用意されている。再びそれに跨がるラケッシュ。(キセルみたい!?)。新郎の手前に少年を乗せるのが慣例だ。甥っ子のアビシェークがその役目を務める。その前には真木千秋の姿も。(写真1)
 白馬だけではない、駱駝も数頭用意されている。そのうちのひとつに乗るのが私ぱるば。写真1、ラケッシュの後方に着物姿で騎乗しているのが私。(ちなみに白く見えるのは襦袢ではなく駱駝の鞍。私は野袴を着用)

 写真2はハリドワール市内の結婚式場。既に新婦側の縁者が大勢集っている。
 そこに新郎側の人々が踊りながら乱入する。その数300人ほど。親類縁者のほか、ganga工房の職人やスタッフも参加する。
 新婦入場までまだ間があるということで、夕食を摂る。前夜と同じで、本格インド料理のほか、様々なスナック類のストールが出店している。もちろん食べ放題だ。ここ数日で目方が増えたかも。

 ところが、新婦がなかなか到着しない。
 実家で儀式をやっているようだ。
 インドには八百万(やおよろず)どころか三千万の神々がいるらしいから、いろいろ時間がかかるのだろう。

 最終的に花嫁が到着したのは、夜中の12時近くであった。
 日本ではチト考えられないタイミングであろう。
 しかしインドの式次第は、人間界の都合よりも、天界の都合が優先されるのだ。すなわち婚礼などの重要行事は、星回り(ジョーティッシュ)によって決められる。
 そしてそれが更に、人間の都合によって遅くなるのがインドなのだ。

 楽隊に先導され、花の天蓋を掲げる人々に取り巻かれて登場する新婦スリスティ。ラケッシュより七つほど年下だ。
 一世一代の絢爛たるレヘンガに身を包んでいる。
 ラケッシュに導かれ、お立ち台に並ぶ。カメラやビデオの砲列。ドローンも舞っている。まるでムービースターだ。インド人はみなこのように、一生に一度はムービースターになる。(写真3)
 ところで、ラケッシュの首にかかるストール。これは11月22日の日誌でご紹介した、蘇芳&茜染めの家蚕糸とムガ蚕糸で織り上げたものだ。

 その後、演壇に移って着座し、また例の如く撮影セッションが始まる。親類縁者一族郎党が代わる代わる演壇に登っては、二人を囲んで写真を撮る。それが二時間ほども続く。 もちろん真木千秋や私も呼ばれて登壇し、写真に収まる。
 仕切るのは筆頭フォトグラファーだ。両家で頼んでいる写真屋は何人も居る。最前列の良い場所に陣取ってすこぶる邪魔なのだが、ま、向こうはプロだからしょうがあるまい。

 夜も更け、さすがに眠たくなってくる。式場は半分、壁がないから、冷たい夜気が入ってくる。しかし式はまだ続く。
 2時半ごろから、またバラモン僧たちが登場し、儀式が始まる。
 バラモン僧と言っても、日本の僧侶みたいな大仰な法衣姿ではなく、まったくの平服なのだ。有り難みは皆無。新婦側のバラモンなどジャンパーを着込んでいて、弊工房の料理人と見間違えたほどだ。新郎新婦のいでたちとはエライ落差であった。

 儀式はヒンディー語やらサンスクリット語やらで、いろんなことをやっている。
 たとえば、写真4は、花婿から花嫁への贈り物だ。足飾り。
 花嫁の足メヘンディに注目。これも一生に一度だ。

 場所を移して儀式は続く。
 護摩を焚くので、今度は野外だ。
 写真5は「七つの誓い」。
 これはどういうわけか、男だけが誓わされる。
 二人の前に米の小山が七つ築かれ、誓うごとに山を崩す。写真は三つ目の誓いをしたところ。数が進むにつれて、難易度が高くなる。
 たとえば、五番目は、「何事をするにつけても妻と相談すること」。どう、できるかな?
 六番目、「どこへ行くにも妻と一緒」。う〜ん、連れて行きたくないとこもあるのでは!?
 そして七番目はほとんど不可能であろう。「これから一生、妻以外の女に目を向けないこと」。まるでマタイ伝5の28だ。
 そしてラケッシュ君、花嫁の前で七番目の米山も崩すのであった。(しっかりiPhoneムービーに収めてある)

 儀式も大詰め近く、花嫁が小さな銀容器を開けると、中にティカ(赤い粉)が入っている。
 隣に座っている花嫁側の付添人が頭飾りを持ち上げると、ラケッシュがそのティカをつまんで花嫁の前頭部、髪の分け目にふりかける。
 このティカは既婚婦人の印だ。この瞬間に、ミスがミセスになるというわけ。
 以後、伝統的なインド婦人は、一生、髪の分け目にティカをつけて既婚の印とする。

 すべてが終了した時、時計の針は6時を指していた。
 一晩中やっていたことになる。
 新郎側の参加者は、朝霧の中、40kmの道のりを車で帰っていくのであった。



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12月7日(水) 後の祭り

 通常、結婚式は三日間である。
 初日が12月2日のメヘンディ、二日目の12/3が本番、三日目12/4が披露宴だ。

 披露宴の模様は本日誌ではご紹介してないが、ラケッシュ実家方に花嫁が来て行われた。
 会場は近所のホテル中庭で、やはり夜間の大宴会だ。
 特に儀式はなく、演台に新郎新婦が並び、数百人にのぼる参加者は、写真を撮ったり、飲み食いしたり、ダンスをして夜遅くまで楽しむのであった。

 普通はこれで終わるんであるけれども、翌5日、すなわち一昨日、当ganga工房では「後の祭り」もやってしまった。
 当初は、「遠来の日本人のために、新工房で内々のパーティを」、という趣旨であった。
 ところがだんだん参加者が増え、最終的には百人以上に膨れあがる。
 というのも、ヒマラヤ山村や首都デリーからの挙式参加者がまだラケッシュ家や姉妹家に宿泊しており(インド人は雑魚寝が得意)、彼らを残して自分たちだけが内々パーティに参加というわけに行かなかったのである。まさに「後の祭り」であった。

 工房は操業日だし、工事も続いているから、やはり夜のパーティだ。
 通路や樹の根本には陶ランプや花びらが配され、焚き火の周りには人々が集まる。(写真1)。
 ランプの燃料は近所の油屋で絞られる菜種油だ。また、工事の廃材がいくらでもあるので、焚き火の燃料には事欠かない。

 料理も多国籍だ。
 タンドールには炭が熾(おこ)り、ganga工房シェフのマニッシュ君によるインド料理はもちろん、日本人参加者による日本料理や、建築家たちによるスペイン(カタロニア)料理がテーブルに並ぶ。
 写真2はティモケ(北村朋子)のサモサ。インド人にも人気であった。スタンダードなジャガイモ・サモサとティモケオリジナルのバナナ・サモサの二種類であったが、インド人はやはりスタンダードなほうがお好みのようだ。彼女の手を飾るメヘンディに注目。

 準備の整った頃、主役の登場だ。
 灯(ともしび)の間を、新婦のスリスティを先に、しずしずと上がってくる。
 写真のフラッシュがたかれ、花びらが振りまかれる。(写真3)

 ただ、主役についての記憶はそこまで。
 後はひたすら、花より団子、酒池肉林、鬼神乱舞の世界だ。(写真4)
 インド人参加者の要請により、またまたDJと音響装置が用意される。
 寄ると触ると踊るのがインド人だ。
 南インド人の建築家カルティックによると、これは北インドの特長だそうだ。南インドでも踊りはするが、これほどではないし、DJの登場はないということ。それより大きな違いは、婚礼では酒類は絶対に供されないんだそうな。インドは広いのだ。

 以上は一昨日の夜。
 昨日からはラケッシュも職場に復帰する。
 日本だったらハネムーンに旅立っている頃だろう。

 ラケッシュ夫婦の新婚旅行は、4日後の12月11日から。
 行き先は日本!!
 二人はそのまま日本に留まり、1月中旬インドに帰国の予定。
 ハギレ市には、仲睦まじくインドランチを供するらしい。
 スリスティに会いたい人は、その節、竹林にお越しあれ!


 

12月16日(金) 引っ越し完了!

 一昨日の14日、ganga新工房への引っ越しが完了する。
 旧工房から新工房へは8kmほどの道のり。
 工房建設の進捗にあわせ、(というか待ちきれなくなって)、今年5月から移動を開始する。
 まず通常の高機(たかばた)から始まり、染色&洗濯工房、ジャカード機、糸巻き&仕上げ部隊、事務所、真木千秋……と続く。
 最後に残ったのが、針場、すなわち縫製工房。それが一昨日の14日、ついに移動を果たす。
 上写真がその縫製工房。ミシンや縫製用ボディが置かれ、テーラーたちが仕事を始めている。(昨日の様子)
 ここには先日までタテ糸整経機が置かれ、真木千秋のデザインルームになっていた。

 そのデザインルームは、隣の「機場第2棟」に移る。(中写真)
 ここはつい最近完成した棟で、ごらんの通り、土間・土壁だ。インドの伝統的農家を彷彿とさせる。
 写真に見られる通り、奥に整経機、手前にデザインテーブルが置かれている。
 この第2棟が完成したので、余地ができ、やっと針場も移転できたというわけ。
 思えば工房移転構想から足掛け五年、やっとそれが最終的に実現したのであった。

 昨日は引っ越し完了後の仕事始め。
 以下は真木千秋の便りから;

 昨日は初日だったけれど、針場も一つの建物に入り、テーラーたちは広々としたスペースで、ややまだ慣れないながら、みな嬉しそう。
 一同が揃って、最高の仕事環境になったと思う。
 例えば昨日は「春の薄地タッサーシルク染め用の布をカットしよう」と言えば、ディネーシュ(染師)、サリータ(針場主任)、マスターテーラーがパッとわたしの許にそろって、ともに作業ができた。その横では経糸づくりが行われていたり。
 糸車を回す女性たち、織り師、染め師、テーラーたちがゆったりと仕事をしているのは本当に嬉しいこと。これから仕事の効率が良くなるはず。
 昨日は中庭の水場づくりが始まって、できあがったらその縁に腰掛けて、夏場だったら顔が洗えたり、犬や鳥も水を飲みに集まってくる。昨日は初めて芭蕉の糸採りも中庭でやったし…(下写真)。チャイの時間も、最近は寒くなったので、みなが中庭に出てきて話したり笑ったり。
 そうした笑顔に触れると、幸せがじわっと胸に…
photos by Eugenia


 

12月20日(火) 花と布

 挿花家(そうかか)の谷匡子(まさこ)さん。
 平泉のギャラリー「せき宮」のご紹介で、今日、取材のため来竹。

 誠文堂新光社の月刊『フローリスト』に記事を連載しておられる。
 巻末の『花と日本の手仕事』という記事だ。
 今月発売された2017年1月号では、そのページにデザイナーの山口信博さんが登場している。(拙著『タッサーシルクのぼんぼんパンツ』の装丁をしてくれた人)

 上写真は竹林スタジオの庭。当スタジオの布をバックに、谷さんが花を挿す。画面中央奥にフォトグラファーの野村氏。
 来春あたりの発売号かと思ったら、秋の11月号だそうだ。
 ずいぶんと先の話であるが、今回は菊を使っているので、そのあたりが良いらしい。
 さすがフローリスト。一年前からしっかり準備するのだ。冬物を今せっせと織っているどこかのスタジオとは大違い!? (ちなみにフローリストとは英語で花屋という意味)

 山野の自然素材を生かして作品づくりをするという谷さん。なにか当スタジオと通じるところがある。
 撮影後、あり合わせの器に、さっと花を挿してくれた。(下写真)
 それから作品のリースも頂く。これは母屋の趣によく合うので、ハギレ市に飾らしていただこう。

 

 

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