絲絲雑記帳

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/01/99-00/「建設篇」





 

7月6日(土) 緑の絨毯

 今朝、インドのGangaMaki工房から写真が送られてきた。
 畑の様子だ。(左上写真)
 若草が一面に茂っている。牛を連れてきたらさぞや喜ぶだろう。
 しかし、そういうわけにもいかない。大事な藍畑だからだ。

 工房敷地に隣接する畑を借りて、一ヶ月前にインド藍の種を蒔いたのだ。
 右写真がそのときの様子。
 カラカラに乾いて、不毛の荒れ地のようだ。こんなんで藍が育つのだろうか?という風情。
 しかしその後、ときおり降雨を見るようになり、ついに数日前、この地方も雨季入りしたようだ。
 左右の写真を見比べるとわかる通り、一ヶ月間で大きく様変わりだ。北インドの気候の極端さがわかるだろう。

 この一面の若草。ほとんどが雑草だ。
 これを人手で除草し、藍を育てる。
 左下写真、白い↓の先が、藍の芽。クリック拡大すると、マメ科特有の複葉がわかるだろう。
 やっと芽生えたばかりの小さな藍の木だ。(インド藍は小灌木である)。藍だけ残して除草するのも容易ではない。
 もうちょっと効率的な栽培法もあるんだろうが、このあたりで藍を育てているような話も聞かないので、自分たちで試行錯誤するほかない。
 病害虫対策とか、いろいろ難しい問題がある。


7月7日(日) そういえば牽牛織女

 今日は7月7日。
 神奈川の平塚あたりでは七夕祭が行われているはずだ。
 ただ、太陽暦の7月7日は関東地方では通常、梅雨の最中。牽牛織女のランデブーもなかなか叶わない。
 本来の七夕は太陰暦の7月7日だ。太陰とはお月さんのこと。

 今、私ぱるばは信州上田の実家にいるのだが、このあたりの七夕は毎年、月遅れの8月7日だ。有名な仙台七夕も同日である。
 今年はたまたま朔日(新月)が8月1日なので、月遅れの8月7日がピッタリ太陰暦の7月7日にあたる。これはおそらく29.5年に一度の現象であろう。
 ともあれ、本日にしても空模様はイマイチであるから、七夕は月遅れの方が良かろう。子供も夏休み中だし。

 ところで、GangaMaki工房の様子を目にする日本人がよく口にする感想は、「織り手は男の人なんですね」というものだ。
 中国には「男耕女織」という言葉があるが、日本も機織りは女の仕事という感覚がある。
 GangaMaki工房の織工は現在8名ほどいるが、すべて男なのだ。それで日本人などは奇異に感じたりするのだろう。

 インドでは、主として男が、職業として機織りをする。
 そもそも手織の作業はけっこうな力仕事なので、織り手も体力が必要だ。大機を操るには手足も長い方が良いし、ジャカード機の上によじ登ったりもする…。それゆえ、職人として機織りを生業とする場合、男性的ボディの方が有利だとされる。
 そうした事情で弊工房の手織職人も今のところすべて男だという次第。

 ただ、インドも日々変化している。工房も日々変化している。
 数年後には、世界中から元気な女子が集まって、機の前に座っているかもしれない。


7月12日(金) ヒグラシ記録

 こちら関東地方は、梅雨らしい日々が続いている。
 太陽というものの存在を忘れそうだ。
 気温も低目だから、楽と言えば楽。
 そんな今日の夕暮れ、畑に出ると、遠くの森からヒグラシの声が聞こえてくる。
 今年初めてだ。
 いそいそとカレンダーに書きこむ。

 ヒグラシは私の最も好む生き物のひとつだから、毎年初鳴きを記録している。
 紀元2000年から、インド滞在時を除き、昨年まで18年分の記録がある。
 それによると、初鳴きの平均は、7月2日。
 今年7月12日は、今までで一番遅い記録だ。
 平均から10日も遅れている。
 同時期に鳴き始めるニイニイゼミも、まだ鳴いていない。

 今年はちょっと異常なのかも。
 新聞紙上では1993年の冷夏も取り沙汰されている。
 あの時はウチもタイ米を買って食べたものだ。
 残念ながら当時はヒグラシ記録をつけていなかったので、同年の初鳴き日はわからない。
  (わが愛用のパソコンにカレンダーソフトがついていなかったせい)
 タイ米は好きだから別に問題はないが。
 インドでも似たような米を毎日食っているし。


7月15日(月) 工房発掘

 よく古代遺跡に「工房跡」の発掘例がある。縄文時代の石器工房とか土器工房とか。
 昔の工人たちの営みがしのばれる。
 今、弊染織工房でも発掘作業が行われている。
 縄文ほど古くはないが、様々な織物が姿を現している。

 じつは来月3日から始まる「8月の竹林」向けの作業だ。
 この「8月の竹林」展には、例年、変な物が出品される。
 真木千秋の掘り出し物だ。
 ちょうど今、本人が一時帰国している。
 雨の連休でもあるし、その作業に勤しんでいるというわけ。

 皆さんもご存知のごとく、モノって、知らないうちに増殖するものだ。
 加齢につれて忘却速度も早まるから、納戸や物置にもぐりこむと、思わぬ貴重品も出てくる。
 懐かしの新井淳一布とか、パリで買った眼鏡とか、ポータブルHDとか、スマホ充電コードとか…
 ま、そういうのはしばらく措くとして、中にはけっこうご紹介できそうなのがある。
 敷物や袋物、衣類やインテリア — 試作品や参考品が主だ 。その中には往年の名手ワヒッド製織の布を使った上衣も。
 あと、真木千秋が古道具屋で購入したきり全然使っていなかった長火鉢とか、レモングラスで作ったスクリーンとか、アンツクの籠とか、ちょっと変わったものもある。欲しい人いるだろうか??

 雨はそぼ降り、発掘作業はいつ果てることもなく続く。
 (物置も片付くしちょうど良い)
 


7月17日(水) アオい衝撃

 拙宅は竹林スタジオから6kmほど離れた山中にある。
 今朝のこと。寝室の板壁をたたく音がする。
 寝床から起き上がって、外に顔を出すと、大ぶりの鳥が二羽飛び去っていく。
 鮮やかな黄緑が印象的 — キツツキのアオゲラだ。
 毎年この頃になると、ウチの家をたたく。
 板壁なぞたたいたところで、虫もいないだろうに —
 と思いつつ、もし私が今の百分の一のサイズだったら、顔を出したところでアオゲラに食われていたのだろう。大きくて良かった。

 午前中。久しぶりに日が出たので、洗濯物を干す。
 ふと見ると、拙宅書斎の窓際、積み上げた薪の上に、見事トグロを巻いた蛇がいる。
 アオダイショウだ。
 甲羅干しならぬ、ウロコ干しであろう。(右下写真)
 アオダイショウはウチにとって貴重な存在である。ネズミの天敵だからだ。どうりで最近、屋根裏が静かだと思った。(よくハツカネズミが跳梁する)
 薄曇りの陽気が快適だったのか、すぐ脇で戸を開け閉めしても、写真を撮っても、まったく平気でくつろいでいる。おそるおそる手で触ってみたが、やっぱり平気でくつろいでいる。よほど信頼されているようだ。
 野生の蛇に触るのは初めてだったが、生暖かく、骨肉を具え、人間の身体を触っているよう。これなら友達になれそうだ。
 ただ、やはり、私が今の百分の一サイズだったら、丸呑みされていたことだろう。大きくて良かった。
 






 

7月20日(土) 藍の東西

 雨季に入っておよそ三週間経ったGangaMaki工房から写真が送られて来た。
 藍畑の様子だ。(左上写真)
 これは工房敷地内の藍畑。インド藍がもう腰の高さほどに育っている。
 5月初めに播種。6月11日の様子がこちらだから、40日ほどでいかに成長したかがわかるだろう。
 乾季は毎朝の灌水が必須だったが、6月中旬から周期的な降雨があり、雨季入りしてからはほぼ連日の降雨と30℃前後の高温で、マメ科の低木であるインド藍もぐんぐん成長する。
 そして今年の藍は健康だ。というのも、種子を新しく南インドから導入したからだ。
 昨年の種子は弊工房の自家採取で、南インド種と沖縄種の混淆。そのせいか、昨年のこの時期、新芽に害虫がついて苦労した。
 今年は今のところ順調な生育を見せている。(気候のせいなどもあるのかも)

 一方、左下写真は東京五日市、拙畑の藍草。
 こちらは蓼藍(たであい)だ。歴史的には中国から伝わったという。
 4ヶ月ほど前に蒔いたもので、5月末に畑に定植。やっと20cmほどになった。
 上写真のインド藍は播種後2ヶ月半だから、彼我で成長具合にかなりの差がある。おまけに藍色素含有量はインド藍の方が多い。日本での藍染はそれだけ大変だということだ。ただ、生葉染めのスカイブルーは日本の藍でないと出ないので、毎年こうして蓼藍を育てているというわけ。

 右下写真はGangaMaki工房の藍甕。
 一ヶ月ほど前に仕込んだものだ。
 なかなか発酵が進まず、ちょっと気を揉んだのであるが、先週あたりからブクブクと泡立ってきた。
 インドも例年より気温が低目に経過してきたので、液温も上がらず、藍建菌の活動も不活発だったようだ。
 それでも徐々に藍を染めるようになってきた。
 藍は南インド産の泥藍。タミルナド州のアンバラガン氏から買っている。氏とはもう13年の付き合いだ。
 今年はGangaMaki工房でも例年の倍以上のインド藍を作付けしたから、自家製の泥藍製造も考えている。さてうまく行くか!?


7月28日(日) 玉もの

 私(田中ぱるば)くらいの年齢になると、老親の介護も身近な問題となる。真木千秋も三週間少々の日本滞在のうち数日を両親の世話にあてていた。
 昨朝、信州上田の実家にいる妹から「緊急」のメッセが入る。老父の具合がおもわしくないから来てくれと言うのだ。
 スーパー爺の異名をほしいままにしてきた父・田中一夫も、齢九十を超え、近年とみに足腰が弱ってきた。今月初め、転倒により腰を痛め、人生初の入院を体験。しかしながら慣れない病院生活に馴染めず、数日前、力ずくで退院してきたのだ。86歳になる我が母・和子、妹・惠子(ギャラリー「月のテーブル」店主)およびその婿の三名で、自宅介護を始める。ところが婿が所用で数日家を離れることに…。男手を欠いて不安になった妹が、私にSOSを送ってきたというわけだ。ウィークエンドでもあるし、おっとり刀で駆けつける私。
 ただ、幸いなことに、父の容体も安定してきたようで、それほど男手が必要な状況でもない。
 それで妹からブドウ園の草刈りを仰せつかる。
 実家にはブドウ園がある。田中巨峰園と称している。今は妹と婿が中心となってやっている。その雑草刈りをしてくれというのだ。草刈りは私も竹林用務員として手慣れたものだ。「ブドウ園の中は日陰だから涼しいわよ」という妹の甘言にのせられ、真夏の野良に出向く。
 「さわやか信州」とは言え、日中の気温は東京に負けない。そしてブドウ園の労働環境は、竹林ほど生易しくない。というのも、ブドウ棚が女手に合わせて設計されているので、低いのだ。男子は屈まないと入れない。わけても今は、ブドウの房が30cmほど下垂している。その中でエンジン付きの草刈機をブン回すというのは、かなりの重労働である。場所によってはひざまずいて作業したり。数分で滝汗状態。
 ま、しかし、それによって愚妹の負担も減り、老父の世話にもそのぶん手が回せるようになるのだろうだから、間接的な介護行為と言えよう。
 弊スタジオでは初秋、お世話になった皆さんにこのブドウ園から巨峰などお贈り致すのであるが、そのブドウ数十玉のうち、ひと玉くらいは、私の労働のたまものと言えるかも。
 





 

8月9日(金) トコ郎見参

 梅雨明け十日と言われるけれども、ここ関東地方も先月29日に梅雨が明けて以来、十日以上も安定した晴天&高温が続いている。
 特に今日8月9日は、我が温度計によると、今年一番の37.6℃を記録している。
 インドのganga maki工房は、今日の最高気温が今のところ28.6℃だから、じつにこちらの方が9℃も高いということになる。
 ま、夏らしくて良い……と言えないこともないか。

 そんな中、7日目を迎える「8月の竹林」sale。
 今日からカフェはtocoroだ。
 母屋で出店の多いtocoroであるが、今回は竹林カフェで店開き。
 トコ郎を引っ提げての登場である。
 トコ郎というのは、tocoro愛用のエスプレッソマシンだ。(写真手前の銀色)。今は無き三軒茶屋tocoro cafeで活躍していたイタリア製である。
 このマシンを使って、三種類のラテを出すのが、今回のメニュー。
 トコ郎が出てくるのは、今のところ竹林カフェの時のみなので、貴重な機会だ。私ぱるばも二年ぶりのラテ。大きなカップで出てくるので、何かトクした気分になる。
 12日月曜の最終日まで今日を入れて四日間。お見(飲み)逃しなく。(気温もたぶん下がるであろうし…)






 

8月14日(水) 紅露工房 in Tokyo

 9月上旬、紅露工房・石垣昭子さんが上京。
 7日と8日(土日)の二日間、都内の別々の会場で昭子さん登場のイベントが開催されるので、そのお知らせ。

 ひとつは9月7日(土)。場所は池袋の立教大学。
 「西表島・紅露工房の上映会」(左上写真)
 上映される作品は、フランスのプロダクションが制作した1時間弱の映像だ。本邦初公開である。
 今までも紅露工房や石垣昭子さんは様々なメディアで紹介されてきたが、このようにまとまった形で映像に収められるのも初めてではあるまいか。
 紅露工房のユニークな活動が、美しい西表の風景とともに収録されている。
 途中、真木千秋や真砂三千代も登場し、昭子さんに導かれつつ、一緒に作業に励んでいる。
 もちろん、工房のフィジカルを支える石垣金星氏も枢要な登場人物だ。
 手仕事に関心のある人は必見。
 上映会の後、石垣昭子さんの対談がある。

日時:2019年9月7日 (土) 16:00〜18:00
場所:立教大学 池袋キャンパス 7号館1階 7102教室
入場無料 要予約
申込方法:ESD研究所 esdrc@rikkyo.ac.jp 宛にメールで、件名に「西表島・紅露工房の上映会」と明記の上、名前、フリガナ、所属、連絡先を記入して申し込み。
問合せ先・申込先:立教大学ESD研究所 TEL : 03-3985-2686

 もうひとつは翌9月8日(日)。
 「紅露工房シンフォニー」出版記念会 (写真左下)
 これは拙HP書評欄で先日お伝えした本の記念会。
 地球交響曲第5番(紅露工房の部)上映や、石垣昭子さん&真砂三千代さんのお話。そしてお二人の布衣展示などがある。

日時:2019年9月8日 (日) 14:00〜17:00
場所:ギャラリーゆうど 新宿区下落合3-20-21
会費 3,000円(お菓子+お茶つき)
●龍村仁監督「地球交響曲第五番」(紅露工房のパート)の上映
●石垣昭子さん、真砂三千代さんのお話 お二人の布・衣の展示
予約申込み先 yu-do@jade.dti.ne.jp 03-5996-6151

 






 

8月23日(金) インド藍の収穫

 インドの真木千秋から写真が送られてきた。
 青空の下、インド藍を刈り取っている。
 今、インドは雨季であるが、一日中降雨というわけでもない。
 このように晴間の出る時もある。
 そうすると気温もグッと上がり、高温多湿の熱帯状態だ。(とは言え、8月上旬の東京の酷暑よりはマシかも)

 6月上旬に蒔いたインド藍も、この気候下、ぐんぐんと伸び、今や人間の背丈を超すようになる。
 南インドから導入した種子だが、ここ北インドにもよく合うようだ。
 牛糞のみの有機栽培。あと、真木千秋・執念の草取りにより、近年になく成長する。

 写真をクリックしてもらうとわかるが、地面から40cmくらいのところで刈り取る。
 インド藍は木藍とも呼ばれ、木本である。日本の蓼藍(草本)とは違って、多年生の灌木だ。
 それゆえ、株をしっかり手入れしておけば、蓼藍みたいな採種・播種の手間が省ける。(草取りは相変わらず大変であろうが)

 毎日少しずつ収穫しては、染めている。
 染め方は、紅露工房で習ってきた半発酵染め。
 生の葉を一昼夜水に漬け、発酵させて染めるのだ。
 液が発酵によって酸性になるので、蛋白質への影響が少なくて良い。
 主に、ウールやパシミナを染める。
 写真はパシミナ糸。7回ほど染め重ねて濃い目の色を出している。

 これだけインド藍が育てば、東京五日市・拙畑の蓼藍は不要かと思われるが、真木千秋によると「全く違うピュアな色だから必要!」なのだそうだ。

 






 

8月30日(金) 奄美の芭蕉布

 縁あって奄美に遊ぶ。
 沖縄のすぐ上(北)にあって、「本土と沖縄の谷間」とも呼ばれる群島だ。
 その中心となる奄美大島は、沖縄本島の6割ほどの面積を持っている。中心都市は名瀬。沖縄の那覇と何となく名前も似ている。
 ところが、両島の人口を見ると、前者は7万、後者は100万ということで、経済規模はまるで違う。そのぶん自然が豊かということは言えるであろう。
 歴史的にその支配権は、地元から琉球王朝、薩摩藩、大日本帝国、米国、今の日本と移り変わる。複雑な歴史を経た群島だ。
 実際に訪れてみると、気候風土は沖縄に近いが、文化的には沖縄と日本の中間という感じか。現在は鹿児島県に属している。

 そのあたりを手軽に探ることのできるのが、奄美市立博物館であろう。(現在、名瀬市は無くなり奄美市になっている)
 先週の土曜、30年ぶりに新装開館し、くしくも私はその最初の観覧者となったのであった。

 真新しい展示の中で、とあるパネルに目が行く。
 上国与人・御目見之図(じょうこくよひとおめみえのず)という絵だ。
 与人(よひと)というのは、薩摩藩支配下における島民の役人。その代表が薩摩に赴き、藩主に拝謁するのだ。(言ってみれば阿部氏がホワイトハウスに赴くようなもの!?)
 上写真・右端に小さく藍色の人物が見える。それが与人代表。左端が鹿児島藩主。下写真は与人代表の拡大。
 解説によると、「糸芭蕉の中心部から極細の繊維を採取し、藍染を施し、貝殻で磨いたりして黒光りをさせた」とある。すなわち最高級の芭蕉布に特別の加工を施した布から作った晴着を召していたわけだ。藍は琉球藍であろうか。
 奄美では古来、沖縄と同じく、芭蕉布が織られていた。奄美にも琉球の影響で神女であるノロやユタが存在したが、その衣は白い芭蕉布であった。きっと芭蕉布は奄美を象徴する織物だったのであろう。
 しかし近年は神女の召し物も木綿の白衣になっている。芭蕉布の伝統は絶えてしまったらしい。(そしてノロやユタもその数を減らしている)。
 残念ながら今回は、奄美の芭蕉布の実物にまみえることはできなかった。

 奄美と言えば、一大産業として島の経済を支えたのが「大島紬」であるが、それはまた別の機会に。
 ちなみに、「島唄」というと沖縄をイメージするが、もともとは奄美の歌のこと。裏声を多用する愁いを帯びたは調べは、一聴に値する。




 

8月31日(土) 糸芭蕉・葉っぱの行方

 昨日、奄美の芭蕉布の話をしたが、インドganga maki工房では芭蕉の栽培が粛々と進んでいるようだ。

 雨季も半ばを過ぎ、青空の頻度も増えてきたかな…と思える今日このごろ。
 工房敷地内に植えられた糸芭蕉も、インドの雨と太陽の恵みを受け、見事に成長する。
 これはヒミツだけども、先年、八重山の糸芭蕉をスーツケースに忍ばせて持って来たのだ。
 一年前に本数を数えたら198本にまで増えていた。今年は300を超えているだろう。
 敷地には実芭蕉すなわちバナナも植えてあるが、似ているので見分けがつかない。
 数では完全に糸芭蕉が凌駕している。

 今日はスラウチの作業だ。
 スラウチというのは、葉を落として、茎の成長を促す手入れだ。
 このためにわざわざ日本から鎌も持参している。(やはりキレ味が違う)
 この作業、かなりの快感なのではないかと想像する。

 しかし、巨大な葉っぱである。沖縄の1.3倍はあると真木千秋は言っている。
 それをこんなにたくさん切り落とすのだ。なんともったいない。
 竹林カフェではイベント時にわざわざ沖縄から送ってもらっているのだ。インド料理の盛り付けに好適なので。
 ganga makiでは牛の餌だ。雌牛がおいしそうにバリバリ食べている。
 ま、ミルクになって戻って来るからいっか。
 






 

9月1日(日) まほろばの縞瑪瑙

 今、東京国立博物館で開催中の三国志展。乱世の英雄豪傑にまつわる展示の中に、ひとつ、ちょっとかわいらしいアイテムがある。曹操高陵出土の縞瑪瑙だ。(上写真)
 曹操とは言うまでもなく、三国のひとつ魏の建国者だ。劉備玄徳や諸葛孔明の敵対者として三国志中ではどうしても仇役だが、文武に秀で、中国では人気があるらしい。
 直径2cmほどの円盤形。中ほどを横切る数本の白い縞が印象的だ。
 魏と言えば、魏志倭人伝に卑弥呼が登場するくらいだから、日本で言えば弥生時代。その頃からメノウは珍重されていたわけだ。

 そうした古代の縞瑪瑙に会えるのが、今週末から竹林shopで開催されるオカベマサノリ古代ビーズ展
 オカベ氏によると、ビーズには精神的な意味があり、初期には駝鳥の卵殻や、動物の骨や牙が素材となっていた。
 やがて5千年ほど前から、石が用いられるようになる。おそらく最初は、滑石など柔らかめの石だったのであろう。
 オカベアクセサリーに使われている石は、水晶やメノウだ。これはかなり硬い。準宝石(ジェム)の部類だ。
 ビーズは紐を通して身につけるものだから、穴を開けないといけない。石を削るというのは難しい。いったいどうやって水晶に穴を開けるのだろう。それもキレイに開けないといけない。
 メノウも水晶と同じくらいの硬度がある。長さ12cmの管状のビーズまであるという。驚くべき技だ。
 ただ、このあたりが、ビーズ作りの限界だったのであろう。(ダイヤやサファイヤに穴を開けるのは古代ではほとんど不可能だろうし、誰もそんなもったいないことはするまい)。
 もちろん、硬ければ硬いほど後世に残り易いだろう。

 オカベ氏のメノウビーズは、千年以上前のアンティークだ。メソポタミアなど西アジアや、インダス文明期のものもあるという。特徴的な縞を生かし、魅力的に造形されている。(下写真)
 今回、大小とりまぜ、千点ほどの縞瑪瑙が竹林に来るという。
 オカベ氏曰く「とても優しい気持ちになる」そうだ。
 乱世の梟雄と呼ばれた曹操も、それを見てホッと優しい気持ちになったのであろうか。
 


 

9月4日(水) 藍の生葉染め 2019

 晩夏の恒例行事、藍の生葉染め。
 その名の如く生の葉で染めるから、生の葉がないと染められない。
 今がちょうど染め時だ。

 朝、藍畑に降りて、藍の刈り取り。
 最近の雨と高温もあって、拙畑のタデ藍もはち切れんばかりに青々と育っている。(上写真。麦わら帽子は私ぱるば)
 3月28日に播種して、5ヶ月余。
 蝶よ花よと大事に育てられてきて、今日になって突如刈り取られるのだから、藍草もさぞやびっくりであろう。(ただ、株が残っているので、またそこから生えてきて、晩秋に種を採る)

 オカベ展を週末に控え、今日はスタジオ総出の作業だ。飛び入りの助っ人二人も含め、総勢十名。
 まずは葉っぱもぎだ。(中写真)
 藍の色素が含まれているのは葉っぱだけなので、茎は捨て去る。
 藍草を真ん中に、ほとんど井戸端会議状態。
 ところで、なぜ、葉っぱの部分だけに藍の色素が含まれているのか?
 思うに、藍の成分は、虫にとって不味いのではないか。というのも、葉っぱはいちばん虫害を受けやすい部分だが、藍草の葉っぱはほとんど虫に食われていないのだ。もちろん、ケミカルフリーの無農薬有機タデ藍である。(蓼食う虫も好き好きというから、タデはもともと不味いのかも!?)

 葉っぱをもぎ終わると、いよいよ染めの作業だ。
 水を加え、ミキサーで砕いて、染めるものを漬ける。
 何を染めるかというと、春繭の座繰り糸だ。
 今年も6月中旬に八王子・長田養蚕から繭を10kgほど分けてもらって、仕事の合間に糸を繰る。そして昨日、ようやく繰り終わったのである。
 艶のある春繭座繰り糸。それを藍生葉で染めると、南の島、白砂の海のような透明感のあるブルーに染まり上がる。

 弊スタジオには欠くことのできない色なので、毎年染めている。
 今年はこの時期、真木千秋がインドで仕事をしているので、初めての遠隔作業だ。インドの真木千秋に写真を送ったり、電話で話したり。
 スタッフも毎年染めているので、今では作業によく慣れている。助っ人もすごく楽しげだ。おかげで良い色に染まり上がった、と真木千秋も満足している様子である。

 四十数カセの座繰り糸を染め終え、次は、インドのオルガンザ絹布。
 夕刻になり、雨もポツポツと降り始めるのであった。
 皆の衆、ご苦労!!
 
 






 

9月5日(木) インダスのエッチド・カーネリアン

 オカベアクセサリーを代表する珠、エッチド・カーネリアン。
 赤に白い紋様が印象的だ。
 カーネリアンも先日ご紹介のメノウと親戚筋。赤メノウとも呼ばれる。
 エッチドとはエッチングと同系語だ。
 とは言え、表面を引っ掻いたりするわけではないらしい。

 このビーズを作る技術を有していたのが、インダス文明であった。
 石に赤味を出すために熱を加える。また、白い模様を定着するにも加熱が必要。
 特殊な植物の液体を石の上に塗りつけて加熱するのだそうだ。よく見るとちょっと盛り上がっているようなものもある。
 石というより、キャンディを思わせる可愛らしさだ。

 ビーズにはオカベ氏手製の紐が通る。この紐がオカベアクセサリーのキモなのだ。
 手間のかかる細かい作業だ。今のところオカベ氏しできない。そのせいでオカベアクセは数が限られてしまう。
 弟子を採ったら?と言うのだが、そう簡単な話ではないらしい。

 さて、インダス特産、エッチドカーネリアン。
 今回は、縞瑪瑙と同じく、千点ほど竹林にやって来る。大きいの、小さいの。赤色の濃いの、薄いの。白い模様のくっきりしたの、淡いの。
 好きな珠を選んで、紐の色を選び、オカベ氏がその場で紐を通し、あなたのアクセサリーとなる。
 紐の長さで、ネックレスにも、リングにも、ブレスレットにも、アンクレットにもなる。(日本語で言うと、首飾り、指輪、腕輪、足輪!?)
 後で調整も可能だ。オカベ氏は会期中ずっと在廊。
 9月7日(土)〜9月11日(水)
 詳しくはこちら。






 

9月9日(月) 嵐を呼ぶ用務員

 展示会中に台風襲来。
 9月は台風シーズンであるから、充分予想されることではある。

 竹林用務員たる私ぱるばは、オカベマサノリ古代ビーズ展に向けて、ちょっと前から準備怠りなく進めてきたのであった。
 たとえば、スタジオのアクセスや母屋前に、合計3立米もの砕石や砂利を投入するとか。(上写真)。3立米といえばプロの土建屋の扱う量だ。敷地が広いからそれでも足りないくらい。
 これは一週間前の月曜日。
 
 こういう準備をすると、得てして台風はやって来るものである。あるいは呼んでしまったのか!?
 砂利投入の三日後、関東沖に突如、台風15号が発生。高い海水温にのっかってあれよあれよという間に発達し、昨夜上陸したのであった。関東を襲った台風の中では、過去三十年間で最強クラスであったらしい。

 台風一過の今朝、高温多湿の晴天の下、蝉の鳴き声を聞きながら竹林スタジオに向かう。多摩川の支流である秋川は、濁流が川幅いっぱいに広がって壮観だ。増水した河川を見に行くオジサンたちの気持ちがよくわかる。
 スタジオの敷地は、ケヤキの枯れ枝が一面に散乱し、竹も倒れている。
 砂利投入の効果もあったのか、水はすっかりはけている。

 遠距離通勤者を除いてスタッフみんなで片付け作業だ。
 今朝はたまたまインドからムラ(蘆スツール)百個が届き、その入庫作業も。(下写真・散乱した枯れ枝と屋内のムラ)。運送屋は朝からしっかり仕事をしていたようだ。

 この枯れ枝は、用務員にとっては大事な資源である。
 太いのは薪になり、細いのはウッドチップになって敷地に散布される。

 午前11時の開店時には、あらかた片付き、何もなかったかのように涼しげな顔でお客さんを迎えるのであった。(用務員は汗でドロドロになっていたのであるが)
 ただ、電車ダイヤの回復が捗らなかったようで、その努力のわりには、あまりお客さんはお見えにならなかったのであった。(JR五日市線は、本数が少ないせいもあるのか、朝のうちにしっかり平常ダイヤに戻っていたのに…)。展示会の様子はこちら。


 

9月21日(土) ヒマラヤの天竺桑と天竺クワコ

 9月20〜21日の2日間、日本野蚕学会の大会が開かれる。
 今回は京都工芸繊維大学が会場であった。日本各地から数十名の研究者や繊維関係者が連なる。私も日本に居る時はだいたい参加する。
 今回、席上で旧知の研究者・瀬筒秀樹氏に面白い話を伺う。
 氏は数年前、クワコの研究でウッタラカーシまで赴いたんだそうだ。

 ウッタラカーシといえば、ganga maki工房からヒマラヤ山中に分け入り、車で数時間のところにあるガンジス上流の町だ。弊工房のウールやパシミナを紡いでもらっているゆかりの地区である。広大なインド亜大陸から見ればすぐ近所だ。

 クワコとは、桑につくイモムシで、蚕の先祖だ。
 四千年ほど昔、中国・長江上流、今の四川省あたりで、クワコから家蚕(普通のカイコ)が作り出されたと考えられている。
 そこから全世界に蚕が広がったのである。

 クワコについてちょっと専門的な話…
 日本にもクワコは存在するが、それは家蚕の先祖ではないらしい。というのも、染色体数が27本だからだ。(韓国のクワコも)
 家蚕の染色体数は28。
 そして中国のクワコも28本。
 中国クワコが蚕の先祖とされる由縁である。
 考古学的にも歴史的にも、絹の故郷はやはり中国だ。

 さて、瀬筒氏によると、インドにはまったく別のクワコがいる。
 インドには在来の桑がある。テンジクグワと呼ばれる。なかなかゆかしい名だ。
 左上写真のように大きな木となる。インドクワコはその木につく。(どうせなら天竺クワコと呼べば良いのに)

 インドクワコは日本や中国のクワコとは形も違えば、大きさも違う。
 左中写真のように、棘があり、体長も6cmを超える。(日本のクワコは小さくて見つけるのが難しいらしいし、私も見たことがない)
 染色体数も31本と破格だ。
 そして繭も、下写真のごとく、家蚕に負けないくらいのサイズや繊維量だ。瀬筒氏いはく、糸も取れるのではないか、と。

 ただ、私は寡聞にして、インドクワコの糸は見たことがない(存在すら知らなかった)。瀬筒氏曰く生息数の少ないことも一因だろうとのこと。
 しかし、家蚕伝来以前からタサール蚕やムガ蚕などの野蚕を利用してきた歴史の長い国だ。きっとクワコ繭の繊維利用も試みられたことであろう。どんな糸が取れるのか興味のそそられるところである。

 ところでひとつ、前々から疑問に思っていたことがある。タサール蚕やエリ蚕などインドの野蚕は多彩な木々の葉を食料とする。対するに家蚕は桑ひとすじだ。なぜか!?
 瀬筒氏曰く、桑葉はそもそも有毒なのだそうだ。ところが、桑の毒を無害化する細菌がいて、クワコは進化の一時点でその細菌の解毒遺伝子を失敬したのだという。
 桑は有毒だからそれを食べるライバルがいない。クワコが独占的に食樹にできる。それを家蚕が受け継いだというわけだ。いろいろ勉強になる。

 瀬筒氏がウッタラカーシまで赴いたのは、同地にインドクワコが棲息しているという情報があったからだという。近所のよしみもあるし、ひとつganga maki工房でもインドクワコ織物を…と氏は使嗾するのであるが、さてどうだろう。(写真はすべて瀬筒氏提供)







 

9月23日(月) 夜中山繭を取る

 先週末、京都工芸繊維大学で開催された日本野蚕学会では、研究発表のほか、いろいろ興味ある展示が行われた。
 その一画に、同大教授・一田昌利氏によるコーナーがあった。
 自ら蒐集癖があると語る氏の収蔵品は、日本でもなかなかお目にかかれないものが多い。
 養蚕関係の貴重な書籍も数々展示され、手に取って見ることができる。

 その中に一冊だけ、「さわらないでください!!」と注意書きのあるものがあった。
 フランスで出版された本で、表紙には漢字で「養蚕新説」とある。フランス語のタイトルはTRAITE DE L'EDUCATION DES VERS A SOIE DU JAPON、「日本における養蚕論」。(上写真)
 日本の養蚕解説書をフランス語訳したもののようだが、その日本語原本は不明だという。
 このフランス語訳もほとんど現存せず、触れるとバラけてしまいそうなので、さわってはイケないというわけ。

 その本の中に、ひとつ面白い図版がある。一田氏が自ら開いて見せてくれた。(下写真)
 「夜中山繭を取図」。
 夜、山の中、ひとりの男が松明を持ち、木の上で二人の男が山繭を取っている。よく見ると枝葉の中に蛍のように光るものがある。山繭だ。
 なぜわざわざ夜間に、松明を焚いて山繭採取をするのか?
 そのわけは、山繭が緑色だからだ。昼間だと葉っぱの中でなかなか見つけられない。保護色というわけだ。
 野蚕糸は金属光沢が特徴。夜にはこんなにピカピカ光るのか!!
 非常に印象的な絵で、玄昌画とある。しかし原画も原書も不明で、このフランス語訳で伝わるのみだ。

 ところで、一田教授に限らず、養蚕・野蚕関係者に共通する悩みがあるという。
 それは、このような貴重な資料をどのように保存するか、ということ。
 日本の蚕糸研究や技術は長年、世界のトップを走っていた。
 ところが、繭の生産高は、最盛期の年間40万トンから、昨年はついに100トンにまで激減する。それに伴って、蚕糸関係機関や研究者も減少し、その閉鎖や退職に際して、書籍や標本などの資料が行き場に困るのだそうだ。

 絹の母国・中国には国立の立派な絹博物館が二つもあるんだが…
 この財政状況では難しいか…
 たとえば、世界遺産・富岡製糸場の巨大な国宝「置繭所」を国立博物館にするとかな。
 日本の近代化を支えた産業なのだから。




 

9月28日(土) 落枝舎

 今朝、真木千秋と早朝出勤。
 すると、竹林shopの壁面ガラスのところに、こんなに大きな枯れ枝が!! (左写真)
 先日の台風15号の際もだいぶ枯れ枝が散乱したが、これはもはや枝の範疇ではないかも。幹そのものだ。

 shopのすぐ脇に、大きなスモモの木がある。
 かなりの老樹ゆえ、あちこち傷んでいる。
 右写真、赤い↓印の部分で折れ、そのまま落下したのだ。
 昨日は誰も気づかなかったので、おそらく昨夜の事件だったのだろう。
 先端の部分がガラスにぶつかっている!!
 幸い破損やキズはなかった。ホッ!

 久々帰国の真木千秋もビックリであった。
 晩秋になったら薪にして暖房に使おう。






 

10月2日(水) 作品展「糸から生まれる世界」in 箱根

 当スタジオの布は、通常、暮らしに使えるものとして織られる。
 ストールやベッドカバー、衣地やインテリア布…
 それゆえ、用途を考えつつ、糸を選び、布を織る。
 自ずと制限があり、それはそれで創作意欲をそそる。

 しかしながら、真木千秋には、そうした制限に縛られずに作りたい、という強い望みもある。
 自由に糸を選び、その糸々の欲するままに織りたい…
 そんな望みに動かされて織った作品の数々が、たとえば今年春、ミラノのギャラリーで展示された(リンク先ページ内の11枚目以降の写真)。あるいは、今はなきMaki青山店で2005年にお目にかけた無用の布とか。

 今年の春、小田原「菜の花」からお話を頂き、箱根にある「菜の花展示室」にて、そうした作品を展示することになった。題して「糸から生まれる世界」。
 その作品展のため、真木千秋はインドの工房にて準備を重ねてきた。

 「糸から…」の糸であるが、真木千秋の選ぶ糸は、やはり力のある糸だ。
 ganga maki工房でいちばん力のある糸と言えば、まず、工房で繭からズリ出す手挽き糸であろう。繊維の持つ自然な性格が生きた、素材感あふれる糸だ。
 工房スタッフもズリ出し作業にだいぶ熟練してきたので(右上写真)、糸はふんだんにある。その糸を草木で染めて、糸々に導かれるがままに織る。

 そうして織り上がったのが、たとえば、長大な作「絹雲 Silky Cloud U」 (左上写真) 。これはミラノに展示した同名作品の一回り小さな新作である。

 あるいは、これはまだ名前が無いのだが、一見するとタテ糸だけのような作品。(左下写真)。
 ヨコ糸を打ち込む前のタテ糸だけの状態は、たとえば、火入れしていない生酒のような、フレッシュで儚い美しさを漂わせる。
 今回は、それを生かし、最小限のヨコ糸で作品にしてみた。真木千秋が先週インドから持ち帰ったのだが、日本のスタッフは私も含め誰もまだ目にしていない。儚い織物であるから、梱包したまま展示会場に持ち込むのだ。

 作品展初日の10月5日には、会場にて、石垣昭子+真砂三千代+真木千秋の座談会も開催。詳しくはこちら
 また小田原駅構内の「菜の花・暮らしの道具店」では、暮らしに使えるMaki Textile Studioの布や衣の展示会が同時開催される。こちらでは初日10月5日に田中ぱるばの紙芝居と真木千秋のお話が。詳しくはこちら




 

10月6日(日) 箱根の展示室より

 箱根湯本駅から歩いて12分。
 街を見下ろす高台に静かに佇む「菜の花展示室」。
 小田原の菓子舗「菜の花」が開設した、ギャラリーと美術館の中間的な存在だ。設計はMakiともご縁のある「やまほん設計室」。
 この展示室で昨日から「真木千秋 糸から生まれる世界」展が開かれる。
 昨日は石垣昭子さんと真砂三千代さんを交えて座談会も開かれ、遠方からの懐かしい顔ぶれとともに賑やかな初日を迎えたのであった。

 建物内には大小三つの展示室がある。左写真は一番大きな展示室。
 奥の壁から「絹雲U」が肢体をくねらせ、左右の壁面には小振りの作品が飾られる。手前に見えるのはタテ糸の美を生かした一作「垂水(たるみ)」。真木千秋が微調整をしている。

 弊スタジオが日本で作品を披露し始めて30年になるが、このような「アート」的な展示会は初めてだ。
 展示室は本来の落ち着きを取り戻し、来訪者は心ゆくまで「糸から生まれる世界」にひたることができる。Maki Textile Studioの新しい展開をぜひご観覧いただきたい。 10月14日まで。(9日の水曜は休み・入場無料)



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10月14日(月) 台風19号顛末(ちょっと長い)

 一昨日の10月12日、本州東部に上陸した台風19号。実際、すごかった。
 特に西国の方々から安否の問合せがあるので、ちょっとご報告。
 皆さんそれぞれのストーリーがあるのだろうが、ウチはこんな感じ。

 スーパー台風と呼ばれる19号「ハギビス」。6日にマリアナ諸島東部海上に発生以来、大型で猛烈な台風ということで人々の耳目を集めてきた。
 この気象現象については、弊スタジオも特別な注意を払っていた。というのも、真木千秋と私ぱるばがその頃、成田から飛び立つ予定になっていたからだ。真木千秋は台風上陸予定の10月12日、私ぱるばは翌13日。それぞれ午前11時前後の便だ。
 成田空港が陸の孤島になったことは、先月の台風15号で記憶に新しい。予報によると19号も似たような進路で、更に大型であるらしい。航空機の発着もさることながら、ここ武蔵五日市から成田までのアクセスも大問題だ。
 先に出立する真木千秋が、まず便を変更する。12日のAI(インド航空)便をキャンセルし、11日のMU(中国東方航空)便に早めたのだ。どちらのキャリアもわりあい融通が利くので便利。かくして11日朝、曇り空の中、真木千秋は大過なく日本を発つのであった。嵐の前の静けさそのままの上陸前日であった。
 次いで私ぱるばも便を一日後に変更する。上陸翌日の11時など空港およびアクセスは混乱を極めるであろう。

 そして当日12日。
 前日から降り続く雨は、ますます激しくなる。
 養沢アトリエ(すなわち拙宅)前に設置された防災無線からは、朝から大音量で「避難勧告」放送やサイレンが鳴り渡る。拙宅は養沢川(秋川支流)の崖上に位置し、崩落の危険性が無いとは言えない。ただ「あきる野市」のハザードマップをチェックすると、拙宅はギリギリのところで土砂災害警戒区域から外れている。(拙宅庭は区域内みたいだが…)。
 昼過ぎ、激しい雨の中、スタジオの様子を見に車で出かける。距離にして6kmほど下流。街道の往来はまばらだ。養沢川や秋川の増水は過去に類を見ない。その写真をインドの真木千秋に見せると「そういうおじさんが危ない!」と叱責を浴びる。幸いスタジオは特に問題なさそう。
 食料の備蓄はたっぷりあるし、今夜は拙宅で…と思っていたところ、夕方、千秋母の真木雅子から電話がある。 崖の上なんだから千秋父も心配している、避難しなさい、とのこと。既に大雨特別警報もあきる野市に出ている。数十年に一度の危機らしい。そこで真木老夫妻の勧告に従い、拙宅を出て、スタジオの様子を見がてら一夜を過ごすことにする。(私自身の親からは何も言ってこない)
 夕暮れの中、秋川は更に増水している。写真1は午後5時。武蔵五日市駅から弊スタジオに向かう途中の秋川橋から下流を見たところ。川幅いっぱいに広がった濁流は、今にも土手を越えそうな勢いだ。流木も次々に上から運ばれていく。(増水した川を見に行くのは絶対イケないのだが見物人が何人か…)
 雨は激しく降り続き、風も出てくるが、約二百年の風雪に耐えた古民家はさすがに泰然としている。
 台風は午後7時前に伊豆半島に上陸。中心気圧は955hPa。風雨はこれからますます強くなる…。という話だったが、8時半過ぎにはすっかり静かになる。外に出ると風雨ともにピタっと止んでいる。台風の目!?
 拙宅に設置してあるネット気象計をスマホでチェックすると、8時49分時点でそれぞれ944hPaと949hPa。驚きの低気圧だ。(図2。午前8時以降気圧の急激な低下がわかる。ちなみに今10月14日8:13はそれぞれ996と1001。5hPaばかりの個体差があるようだ)
 ただ怪訝に思ったのは、その気象計が午後8時49分を最後に計測値を送ってこなくなったのだ。何時間たっても不通。これは停電か、それとも…。
 ともあれ、その時刻に、台風の中心が付近を通り過ぎたのであろう。進路図をチェックすると、中心は東京都心を通ったように見える。
 風雨はそれきり止んでしまった。あたりでは虫の音も聞こえる。

 翌13日、5時半頃起き出して、外を見回る。スタジオ内外は思いのほか荒れていない。先月の台風15号後の方が多量の落枝でタイヘンだった。おそらくそのときに落ち尽くしてしまって、今回はさほど残っていなかったのだろう。
 しかし、「禁断の小径」をたどって秋川のほとりに出ると、状況は深刻であった。川水が堤防を越えて、家屋は夜間、床上まで浸水したような様子だ。
 秋川橋の周辺も同様であった。濁流が堤を越え、低地を浸したのだろう。民家のガスボンベが散乱している。もう水は引いていたが、道路が泥でぬかるんでいる。(写真3はその道路から秋川橋を望んだところ)
 数十年前にこの付近で川水が堤防を越えたという話は聞いていたが、まさにその再来であったようだ。特別警報なんて大袈裟と思っていたが、やはりそれだけのものだったのか。
 やはり拙宅のネット気象計から送信はない。東電のサイトをチェックすると、あきる野市養沢は昨夜8時50分から停電とある。ややホッとするが、この目で確かめないと。養沢では土砂崩れとの情報もある。
 午前8時前に車で帰宅すると、幸い拙宅は無事であった。ただ拙宅から二百mほど情報で土砂崩れがあり、倒された電柱が途中で折れ曲がっている。これが停電の原因であった。道もすっかり土砂で埋まっている。(写真4)。道路はしばらく不通であろう。
 地元の古老(七十代)によると、養沢川がこんなに増水したのは初めてだという。そして曰く、彼の子供時代、養沢川の増水を見に行った地元のおじさん3名が流されて亡くなったそうだ。やはり川の見物はイケないのだ。(しかし当時は今みたいに護岸工事はされていなかった)

 土砂崩れのすぐ近くに拙畑がある。そんなに風が吹かなかったせいか、やはり15号の時ほど荒れていない。ただ上から泥流が流れ込んだ痕跡はある。それにもめげす、刈り取って四十日経った藍畑では、まるで何事もなかったかのように藍の花が咲き競っていた。(写真5)

 ちなみに12日のAI便(すなわち真木千秋搭乗予定便)は時刻を早めて成田から離陸。翌13日にも夜8時に成田発。翌々日の14日も1時間半遅れで成田発。つまり台風にもめげず毎日飛ばしていたというわけ。根性ある。




 

10月18日(金) カード織りワークショップ

 現在、真木千秋、服部謙二郎、私ぱるば、インド滞在中。
 一昨日からganga maki工房近所のリトリート施設「Vana」にて弊スタジオ展示会&ワークショップを行っている。
 この施設には地元インドをはじめ世界各国から来た人々が滞在し、アーユルヴェーダなど各種療術やセラピー、ヨガや瞑想などに、ゆったり時間を過ごしている。
 その一環として昨年から弊スタジオも招かれ、こうしたプログラムを提供している。

 今日は「カード織りワークショップ」。これは服部謙二郎の発案。ボール紙製の四角いカードに穴を開けてタテ糸を通し、それを回転させながら手でヨコ糸を入れて織る。紙以外の道具は要らないという、極めて簡便な手法だ。
 本日は六枚のカードにそれぞれウール糸計六本を通し、ヨコ糸もウールで紐を織る。写真は達者な英語で織り方を説明する服部謙二郎。
 決して難しいものではなく、参加者もそれぞれのペースで楽しんで織っていた。

 このカード織りワークショップは、11月2日から竹林スタジオで始まる「年をかさね織をかさね」展の4日目、11月5日にも開催されるので、興味ある人はご参加を!






 

10月25日(金) 30年記念「つづら織」

 工房第二棟で黙々と機を織る職人、タヒール。
 デリー時代からMakiのものに携わってきたベテランだ。(上写真)
 機にかかっているのは、つづら織ストール。
 一週間後に迫った「年をかさね織をかさね」展に出品する「インド30年記念作」だ。
 何か特別なものをということで、真木千秋が新たにデザインしたもの。

 タペストリー織の変形で、幾何学柄をハッキリと織り出す手法だ。
 今まで「折り返し織」という名前で20年ほど織ってきた。
 従来は左側か右側に柄を出したが、今回は真ん中。それゆえ余計に手間がかかる。
 地の部分に使われているのは、主に工房でずり出した手挽きの絹糸。使うほどに柔らかくなる高級織物だ。

 なぜ「つづら織」に改名したかというと、オリカエシオリではどうにも語呂が悪い。
 それで考えた。
 もともと綴れ織の変形だし、素材感ある糸を折り返す風情が「つづら折り」みたいだから、「つづら織」。(下写真)

 インド30年にあやかって、赤系と青系、それぞれ30枚。
 写真の赤系は蘇芳やインド茜を主に、ザクロやメヘンディを隠し味に使っている。
 青系は藍のほか、マリゴールドやザクロを隠し味に。

 来週土曜からイベントが始まるというのに、今織っているというのもさすがganga makiスタジオでしょう。
 大丈夫、私ぱるばが明後日27日に持ち帰るから。
 それに間に合わなかったら、29日に当地を出立するラケッシュ一家が手持ち。
 採れたてのほやほやだ。

 年をかさね織をかさね 11月2日〜8日 東京五日市・竹林スタジオ






 

10月27日(日) ミラクル・モリンガ

 今回、四ヶ月ぶりにganga maki工房を訪れ、驚いたことのひとつが、この木、モリンガ。
 ドラムスティックと呼ばれる実(莢)が食べたくて植えたのだが、一年でこんなに伸びた。(農婦スタッフの後ろにある木)。一年前はこんなだったのだ
 特にこの夏期でぐんぐん伸びた。買ってきた苗木はわずか30cmほど。それが今では5mを超えるであろう。根本の太さも5cmほどになる。
 肝腎の実はまだ数本しか食べていないが、今花をつけているから、本格的にはこれからなのだろう。

 しかし、日本で珍重されているのは、実よりも葉っぱであるようだ。九州沖縄などでは栽培も始まっているらしい。
 そこで、一昨日から、葉を収穫しては食べている。梯子で物置の屋根に上り、上から若い枝葉を摘み、茹でて食べる(農婦が手に持っているのは今日食べる分)。五日市名物「のらぼう」の収穫みたいだ。しかし、木の枝葉を収穫して食べるというのも初体験かも。(タラノキとか無いし)。滋養豊富でミラクル・フードと呼ばれている。いろいろ薬効もあるようだ。
 ネットで調べると、このモリンガ、原産地は「インド北西部のヒマラヤ山脈南麓」とある…って、ここじゃん! しかしながら、当地では今まで見たことがない。
 当地出身の用務員モヒット君に聞くと、彼の村には存在するようだ。ただ面白いことに、実や葉は食べないが、花を食べるのだという。いろんな利用法があるものだ。

 そしてもうひとつ。この成長の早さが使えるかも。
 というのも、ここはインドだから、酷暑の夏が長いのだ。地球も温暖化してるし。
 真木千秋のデザイン室など、西側が無防備で、午後の西日が直撃なのだ。そこで、そっち側に植えれば陽差しを遮ってくれるかも。窓から手を伸ばせば収穫もできるし。


11月12日(火) インドで三十年!?

 先週金曜、竹林スタジオにて開催の「時をかさね織をかさね」展、無事終了。
 たくさんのご来展を頂き、心より感謝致し申し候。
 この展示会の副題が「インドで三十年」というものだった。
 そもそもは、「竹林スタジオ二十周年」であった。竹林スタジオが1999年に開設されてから、めでたく丸二十年が経った。
 それからふと考えてみると、インドで仕事を始めて三十年経ってるのではないか、と気がつく。
 しかしながら、実のところ、そのあたり、チトあやふやなのだ。
 私がインドに渡ったのは1987年の末。拙著『タッサーシルクのぼんぼんパンツ』によると真木千秋は88年の初頭にインドに渡ったとある。その折に真木千秋はニルー・クマールと出会い、やがて、その機場に入り込んで布作りを始める。
 だから、まあ、三十年と言ってもそんなに大きな間違いではあるまい。相手は混沌の亜大陸である。
 竹林二十年、インド三十年、と並べてみると、やはり三十年の方が重たい。それで「インドで三十年」という副題になったというわけ。ちょっとした行きがかりであった。
 そうすると皆さん、「三十周年おめでとうございます!」と言って菓子折を下げてお越しになる。なんかちょっと申し訳ない気分。しかし、大きな間違いではないから、有難く頂戴致す次第。
 三十年。それは、長いか短いか。
 あと三十年は無いな。二十年も無いだろ。十年かな、せいぜい。(それもあぶないかも!?)
 






 

11月17日(日) 象が出た!

 昨夜、インドの真木千秋から動画が送られて来る。
 開けてビックリ、象ではないか。
 それも住宅地。
 なんと、ラケッシュの住む旧ganga工房の前の道だ。
 当地はRajaji国立公園にほど近く、公園の境界を越えて野生の象が出没することもしばしばだ。
 しかし、旧工房の位置するKoti村で象を見るのは、ラケッシュも初めてだそうだ。なんでも、畑のサトウキビを失敬するため出てきたらしい。
 東京五日市の拙畑も最近イノシシにだいぶやられている。かなり頭に来るが、相手が象だったらどんな気持ちになるだろう。潰滅的な被害ではあるまいか。
 インドでは象が手厚く保護されているから、駆除というわけにもいかない。
 人的被害が出なかっただけでも幸運ということらしい。野生の象は非常に危険なのだ。

 実は私ぱるばも、このRajaji国立公園には、二度ほど出かけたことがある。象を見たくてサファリに二度参加したが、結局鹿くらいしか出てこなかった。(奈良公園の方がマシ) 。 ちょっと見たかったかも。




 

11月19日(火) しづ心なく…

 暖かい一日であった。
 明日、中国からお客さんが来るので、庭の落葉掃きをする。
 と言っても、箒で掃くわけではない。箒だと小石を巻き込んでしまって具合悪い。
 ブロワーで吹き飛ばし、熊手でガーデンバケツに入れる。
 なぜ小石が問題かというと、葉っぱを堆肥に積むからだし、小石も減ってしまう。

 半月ぶりの落葉掃きなので、かなり溜まっている。
 風情があって良いという見方もあるが、それも程度の問題だろう。
 車のタイヤに踏みしだかれるようになると、やや見苦しい。

 主にケヤキの落ち葉だ。敷地に七本ある。一本につき百万枚くらい葉っぱがついている(かな)。
 見上げると、まだ半分ほど残っている感じ。
 風が吹くと、ハラハラ舞い落ちる。
 古今集にもうたわれるごとく「久方の光のどけき秋の日にしづ心なく葉っぱの散るらん」状態。
 ただ、そのくらいの落葉なら、しばらくは風情の範囲であろう。






 

12月13日(金) ganga裂

 10月2日の雑記帳でもご紹介した一連の作品群。
 用途にとらわれず、糸の赴くままに織る布々。
 最初に発表したのは、今から14年前、Maki青山店での無用の布展であったか。

 ヒマラヤ山麓に工房を構えて自由度が増した昨年から、また盛んに織られるようになった。今年はミラノのギャラリーや箱根の菜の花展示室などで披露される。(上写真は菜の花展示室)
 様々な意匠、素材、技法、サイズで作られる。

 当初、これらの布は便宜的に、art piece(アート作品)と呼ばれていた。特に用途がないので、適当な名前もない。
 ただ、自作を自分でアートと称するのもなんとなく憚られる。

 そこで、これからは「ganga裂(ぎれ)」。
 東大寺に伝わる正倉院裂に倣った呼び名だ。

 下写真は最新のganga裂。
 縫製工房の服づくりで生まれる端裂(ハギレ)を集め、もう一度草木で染める。それを風合いをみながら裂いたり、切ったり、撚りをかけたり…。それをヨコ糸として織り込む。
 タテ糸はヒマラヤウールの手紡ぎ糸。そこがミソで、ウールが縮絨することでしっかりした織物になる。
 細幅に織り、切って構成し、ウール糸ではぎ合わせ、両端をフェルト仕上げした後に、洗う。後染めすることもある。
 この布の表舞台で活躍するのがハギレ。真木千秋流のハギレ活用術だ。

 三週間後の1月4日から始まる新春恒例ハギレ&反物市でも展示されるので、ぜひご来駕を!




 

12月20日(金) ティモケの年末年始

 ティモケこと北村朋子。(このティモケという奇怪な固有名詞はおそらく朋子の訛であろう)
 ほとんどMakiの準スタッフという感じだが、殊に年末年始に関してはMakiスタッフをもしのぐ竹林での活躍ぶりだ。

 ここ三年ほど、年末には毎日にように出現し、奥座敷で黙々と作業に励む。ハギレの袋詰め作業だ。
 今手にしているのが、1000円のハギレセット。木綿カディのハギレが十点入っている。
 ティモケによると、今年のハギレは例年にも増してお得感があるとのこと。
 アイロンをかけて、布合わせをして、丁寧に袋詰めする。もう三年もやっていると手慣れたものだ。
 今日で十日目。そして最終日だ。午後6時前「ではまた来年!」と言って竹林を去る。

 そして二週間後の1月3日から、ティモケの竹林2020が始まる。
 翌1月4日から十日間、「ハギレ&反物市」にて、竹林カフェの厨房に立つのだ。
 インド大好き女子で、ganga maki工房にも二度ほど来ている。工房で毎日食べた豆カレーをベースにしたランチプレートを提供。もちろん、お得意のサモサも同伴だ。
 ハギレとともに、こちらもよろしく!




 

12月22日(日) 残糸織

 どんより曇った師走後半の日曜日。
 夜から雪!という予報もあって、あわててタイヤをスタッドレスに履き替える。
 竹林shopも本日が今年最後の営業日。天気もあってか訪れる人も少ない。
 そんな中、インドの工房からハギレ市に向けて布が届く。
 左写真がその様子。ひとり店番(ワンオペ!?)の服部謙二郎が受け取って、検品整理に余念が無い。

 写真の一番手前、目立つ三反の織物が、残糸織だ。
 年に一度、この時期だけ織られる。
 機織りには残糸がつきものだ。糸を染め、ボビンに巻くが、使い切れない分が出てくる。
 大工場だったら効率を考えてさっさと廃棄処分するのだろうが、弊工房ではもったいなくてとても捨てられない。ことに手紡ぎ草木染めの糸糸だったら…
 それを一年分ためて、布に織るのだ。
 残糸だから、デザインするにも糸の残り具合に左右される。しかしその制限や偶然性が良かったりするのだ。
 今日届いた三反はウールの「つづら織」。ヨコ糸を入れる時に中途で折り返す技法で、モンドリアンみたいな幾何学模様が織り成される。赤がアカネ染め、ピンクがラックダイ、黄色はマリーゴールド、そして一番面積の多いのがインド藍だ。今年は工房の藍畑が豊作だったので、藍の残糸も多かったのだ。
 そのほか、クリスマスには真木千秋がタッサーシルクの残糸織を携えて帰国。ハギレ市に出品の予定だ。久々の「ミックス織」で、かなり自信作である様子。
 




 

12月27日(金) 元年末のごりや棟梁

 滅多にない「元年」もあと4日ほどでおしまい。
 その年の瀬に、「ごりや棟梁」こと森屋定夫さんにお世話になっている。
 森屋建築の親方である森屋さん、二十年前にこの古屋(江戸文政年間)をスタジオに改装した際も施工を手懸けてもらっている。
 写真左端のグレージャンパーが森屋さん。配下の若い衆(と言ってもかなりベテラン)を二人伴って、スタジオ仕事納めの本日、縁側ガラス戸の建て付けを調整してくれる。今回はこの縁側のほか、奥の間の仕切りを二箇所ほど、3日がかりで直してもらう。
 縁側にしても仕切りにしても、ずっと以前(おそらく改装当初)からかなりリラックスしており、特に冬になると寒気が自由自在に出入りしていたのである。だったら早く改善すれば良かったと言えようが、賃貸の古屋ということもあり、なかなか手を付けなかったのであった。
 しかしさすがに隙間風は寒いし、化石燃料多用による地球環境悪化の問題もあるし、いささか遅きに失するの感はあるが、思い切って棟梁に頼んだというわけ。
 母屋は来週末からの「反物市」の会場となり、左写真、棟梁の背後には既にMaki布反物の数々が展示されている。棟梁にとっても、かつての自分の仕事がこうして今も生かされているのを見るのも、まんざら悪い気はしないであろう。
 ともあれ、これで多少は安心して2020はぎれ&反物市を迎えられるというものだろう。




 

12月29日(日) 今年もお世話になりました

 本年最後の週末は典型的な冬型の天気。
 ここ武蔵五日市も金曜あたりから晴れ渡り、そして冷え込む。

 一昨日の27日が仕事納めの竹林スタジオ、昨日も今日も雨戸が立てられ、ひっそり閑としている。誰ひとり居ない年末の弊スタジオであるが、一週間後にハギレ市を控えた用務員(田中ぱるば)としては、この好天を放置していたらもったいない。作業着に身を固め、気になるスポットに手を入れる。六百坪超あるから仕事には事欠かない。格好の遊び場!?だ。見上げると、ほぼ裸のケヤキの木々。一昨日の強風で枯れ葉もだいぶ落ち、木に残るは一割弱か。

 スタジオの一年もこれで終わり。
 みなさん、いろいろお世話になりました。お陰様でなんとか世の荒波を乗り切ることができました。
 ご縁があったら、また来年、お会いしましょう。
 まずは1月4日からのはぎれ&反物市にて。
 


 

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